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彼が倒れて気を失いそうになっていたあの後、駆けつけてくれたダークさん達により、近くの小さな診療所に運ばれた。
容態が回復した頃を見計らって、トウコ先輩がその病院に乗り込み、退院したゲーチスさんを拘束した。
その後、トウコ先輩のゼクロムで空を飛び、ホウエン地方のミナモシティという町にある病院に向かった。彼は即、入院が決定した。
何だか難しい名前の病気に加えて、栄養失調を始めとする合併症の数々に、お医者さんは冷や汗を拭ってから「来てくれてよかった」と苦笑した。

詳しい説明はダークさんが受けたらしく、私はその詳細を聞かないままだった。
煩雑な入院手続きと、数日かけて行われた大量の検査にゲーチスさんは辟易しているようだったが、特に何の問題もなく終えたらしい。
検査結果は大いに問題のあるものだったようだが、それも医学の知識が皆無である私には理解するべくもないことだった。

8階建ての病院の最上階に、彼の病室は設けられていた。
私のイメージしていた病室は、4人で、それぞれのベッドがカーテンで仕切られているようなものだった。
しかし足を踏み入れるや否や、最早アパートの一室と呼んでも差し支えないようなその広い個室に私は絶句した。
ジュペッタのダークさんは「特に部屋を希望した訳ではない」と話してくれた。
トウコ先輩が事前に手を回してくれていたことに、私が気付くのはもう少し後になってからだった。

ところで、デボンコーポレーションの御曹司、つまりトウコ先輩の知り合いに会う機会を彼女が作ってくれたので、私は挨拶に向かうことにした。
彼は私を見るなり「やあ、ホドモエシティでは楽しいバトルをありがとう」と笑ってくれた。
覚えてくれていたことに私は少しだけ驚いたが、自分がイッシュリーグのチャンピオンという肩書きを持っていることを思い出して、苦笑した。
彼も有名人だが、私もそれなりに名前は知られてしまっているのかもしれない。

「ホウエンは気候が温暖だから、療養には適していると思うよ。知り合いの体調が良くなるといいね」

「ありがとうございます、ダイゴさん」

深く頭を下げた私に、彼は「お礼はポケモンバトルで構わないよ」と陽気に笑ってみせた。

トウコさんやNさん、アクロマさんも時折、ゲーチスさんの元を訪れていた。
ゲーチスさんとどんな言葉を交わしたのかを、私は知らない。彼も何も話そうとはしなかった。
それでも、彼の元へ足を運ぶ人間が増えたことで、何かが変わっていけばいいと思っている。
何かが変わればいい。何かを変えたい。そのために、私はこの人の傍に在ると願ったのだ。そして、彼はそれを許してくれた。

「こんにちは、ゲーチスさん」

ノックも忘れて部屋に駆け込む。
ベッドに上体を起こした彼の手元には、いつも読んでいる本がなかった。

「あれ、本は読んでいないんですか?」

その言葉に彼は眉をひそめた。
彼の不機嫌の原因が分からずに首を捻ると、彼は大きな溜め息の後で口を開いた。

「先程まで、厄介な来客が居座っていたのですよ」

机の上に置かれた「厄介な来客」のお土産を指差す。
そして私は愕然とする。彼の表情にではなく、そのお土産に。

「ゲーチスさん、ごめんなさい」

怪訝は表情をする彼に、私は鞄から今日のお土産を取り出す。

「被ってしまいました……」

彼の言う「厄介な来客」が誰だかは分からないが、まさかその人物のお土産と私のそれが同じものになってしまうなんて想像もしていなかった。
昨日ロイヤルイッシュ号を勝ち抜いて、手にしたそれを差し出す瞬間を、私は密かに楽しみにしていたのだ。
ゲーチスさんは和菓子が好きだと、私は冬の間、毎日欠かさなかった訪問の末にそう結論付けていたからだ。
しかし、重なってしまうなんて、と私は落胆する。しかし彼は肩を小さく揺らして笑い始めた。

「悲壮な顔で、何を言い出すのかと思えば……」

私は肩を竦めて残念そうに笑ってみせたが、その実、全く残念ではなかったのだ。
寡黙な彼が、笑ってくれた。それだけでいい気がした。その事実の前には、お土産が被ってしまったことなど些細なことでしかなかったのだ。
森のヨウカンを鞄に仕舞い直そうとして、しかしそれを咎められた。
首を傾げた私に彼の左手が延びる。

「寄越しなさい。私への土産でしょう。性悪な科学者の持って来たものを口にする気は端からありません」

その言葉で、来客が誰だったかを容易に察した私は苦笑した。
「私達は似ている」と彼は言ったが、まさかお土産の好みまで似ているとは流石の彼も予測できなかっただろう。

「でも、2つ無くなっていますよ」

「他にも来ていたのですよ」

彼はそこで言葉を止める。一瞬の躊躇いの後、視線を窓に向けて呟く。

「煩い子供と、不甲斐ない息子が」

私は息を飲んだ。しかしそれは一瞬で、「そうですか」と微笑んだ。

変わらない毎日の中で、少しずつ変わっていったものがある。
彼の一人称が「ワタクシ」から「私」になった。Nさんのことを「息子」と呼ぶようになった。私がいる時に、お土産に口を付けてくれるようになった。
動かない右手の代わりに私の右手を伸べて、森のヨウカンの包み紙を開ける、そんな手伝いを許してくれた。
私の名前を呼んでくれるようになった。

何かが変わり始めているのかもしれなかった。
その流れの中に、きっと私もいるのだろう。

私は大きな窓に駆け寄り、鞄からスケッチブックを取り出した。
ミナモシティの海は、とても綺麗だ。
8階から見えるその絶景を、きっと明日も変わらないであろうその海を、しかし私は忘れたくなくて、一瞬を永遠に留めたくて、その眩しい青を紙に焼き付ける。
彼のくれた水彩色鉛筆が、ようやく役に立つ時が来たようだ。

シア

水彩色鉛筆のケースを開けようとしたその時、彼が私の名前を呼ぶ。
振り向くと、彼の目は窓の向こうに向けられていた。

「片翼で空を飛べると思いますか」

『小さい頃、翼が欲しいってサンタクロースにお願いしたことがあるんです』
翼、という単語に、いつかの自分の言葉を思い出した。彼はきっと、あの時の話になぞらえているのだろうと思った。
しかし勘の悪い私は、彼の「片翼」が意味するところにどうしても辿り着けなかった。
彼が何を言おうとしているのか、その時の私には分からなかった。

しかし、私は笑ってみせた。
その言葉が意味するところがどうであれ、私の答えはきっと、変わらなかったのだろう。


「それじゃあ、一緒に飛びましょうか」


青い色鉛筆を手に取る。
春の海は果てしなく広がっていた。

2012.11.27
2014.12.14(修正)
Thank you for reading their story!

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