※この回にも人徳に悖る、過激な言動が含まれます。
「森のヨウカンです」
コトンと机の上に置かれたそれにではなく、その声の主にゲーチスは怪訝な表情を向けてみせる。
しかし当のアクロマは涼しい顔で、彼にあてがわれた個室の窓に歩み寄った。
ホウエン地方のミナモシティ、その最上階に位置する病室には、アクロマを始め、数人が集まって騒いでいた。
良い眺めじゃないですか。流石、8階ともなると絶景ですね。アクロマは眼下に見える海をその目に焼き付けてそう紡ぐ。
その言葉にゲーチスは益々顔をしかめた。
「何故、お前が此処にいるのですか」
「プラズマフリゲートにやって来たダークに頼まれて、わたくし達が貴方を探すために一晩奔走したことをお忘れなく」
「そうよ、3杯目のココアを殆ど飲めないままだったんだからね」
「トウコ、2杯も飲んだら十分じゃないか」
トウコはその森のヨウカンの入った箱を勝手に開け、2つを取り出して1つをNに投げる。
勝手に包みを開けて食べ始めた彼等に呆れて言葉すら出ない。
諸々の検査や入院手続きを終え、ようやく落ち着けたと思ったのに、この騒がしい連中はそれを許さない。
その騒がしい二人を視界に入れずに、アクロマは海を見つめていた。その我関せずといった態度が癇に障り、ゲーチスはようやく口を開く。
「用件が無いのなら帰りなさい」
「あんたに用なんてある訳がないでしょう。そうね、しいて言うのなら、からかいに来たってところかしら」
馬鹿にしたようなその声は、しかし異様な冷たさを帯びている。
それは隣にいたNの顔色が変わる程の気迫だった。いつものように彼女のそうした言動を咎めることすらも忘れて、Nはただ茫然と立ち尽くしていた。
「私はあんたが早く死んでくれないかなって思っていたから、この結果はとても残念よ」
「……」
「私はシアとは違うの。私はあんたのことをずっと許さないし、あんたのことが大嫌いよ。
でも大丈夫よね。他の誰に嫌われようと、どんなに憎まれようと、あの可愛いシアがあんたに生きろって言ったんだから。
可哀想ね、ゲーチス。あんた、死ねなくなっちゃったわね」
「トウコさん、それくらいにしてあげなさい」
クスクスと笑い始めたトウコを咎めたのは、Nではなくアクロマだった。
その言葉をNが紡いだならば、きっと彼女の「からかい」はそこで終わったのだろう。しかし彼女は止まらなかった。
それは「かけがえのない存在」を持った人間にしか抱くことを許されない憤りだった。大切な思いが過ぎる故に盲目となった彼女を、アクロマでは止められない。
トウコは隣で立ち尽くしているNの腕を強く引いた。
唐突なそれにバランスを崩した彼の背中を更に押して、ゲーチスの前に突き出した。
「あんたの子供よ」
その言葉にNは勿論、ゲーチスも息を飲む。
彼女は知っているはずだった。この二人の間には血が繋がっていないことを。ゲーチスがNを自らの私欲を満たすために、道具として利用していたことを。
それなのに、トウコはNを差し出して「子供」だと言う。そこに含まれた彼女の懇願を、ゲーチスは理解することができた。Nは理解できなかった。
「私はシアと違ってあんたのことなんか微塵も考えてない。私はNのことしか考えていないわ。
折角死に損なったんだから、少しはNを見ようとしなさいよ。目を瞑ろうとしないでよ」
「トウコ、もういいから」
矢継ぎ早に投げつけるその言葉に、Nは絞り出すように制止を掛けた。
今度こそトウコは声を荒げようとした。
しかし振り向いたNの顔を一瞥し、その目から視線を逸らすことができない。
しばらくの沈黙の後で、吐き出された彼女の音はとても静かだった。
「どうしてあんたが泣きそうな顔をしているのよ、変なの」
彼女は森のヨウカンの包みをゴミ箱に投げ捨て、そのまま足早に病室を出て行ってしまった。
残されたNは、彼女の後に続こうと歩みを進め、しかしドアを閉める前にゲーチスの名前を呼ぶ。
「ゲーチス、貴方が生きていてくれてよかった」
その声音は何処までも澄んでいた。
「ダークの目利きは正しかったんだね。彼等がいなければ、きっとこの未来はなかった。
それと、トウコを嫌わないでほしい。カノジョはボクと一緒に、貴方のことを必死になって探してくれたんだ」
この場にトウコが残っていれば「ゲーチスの為なんかじゃないわ、シアの為よ」と、間髪入れずに訂正に入っただろう。
しかしその声を紡ぐ彼女は今、此処にはいない。Nもその事実を分かっていながら、敢えてそう紡いだのだ。
また来るよ、と言い残して、その足音が遠ざかる。
残されたアクロマは何も言わない。ゲーチスもその背中に声を掛けることはしなかった。
沈黙が重さを増し、溜め息を吐くのも躊躇われるようになった頃、アクロマがドアに向かって歩き出した。
ようやく帰る気になったらしい。しかしドアに手を掛ける前に彼はようやく口を開いた。
「わたくしは貴方が嫌いです」
「知っている」
「いいえ、知らない。貴方は何も知らない。……何故、貴方なのでしょうね」
アクロマは思わずその目を見開いた。まさか零れるはずのなかったそれを吐き出してしまったことに動揺する。
それはゲーチスも同じだった。思いも寄らない言葉を投げられ、ただ閉口する。
つまるところ、二人はとことん相容れないのだ。
「貴方は生きるべきだ」
「……」
「シアさんの言葉を踏襲したものではありません。わたくしの言葉です」
パタン、とドアが閉まる。ようやく訪れた沈黙に、ゲーチスは今度こそ長い溜め息を吐いた。
あの子供がいれば、溜め息を吐くと幸せが逃げますよと咎められたのだろうか。
今日もあの小さな手に土産を提げて来るのだろう。
スケッチブックを広げて、今度はこの窓から見える広い海を描くのだろう。
『でも今は、クロバットが私を空へ運んでくれます。ポケモンが、私に翼をくれます』
いつかの少女の言葉を記憶から引き出す。
くだらない、と思う。馬鹿げている、とも思う。
もし自分に翼があるのだとしたら、それは片翼だったのだろう。
その比喩に込められた意味は、まだゲーチスしか知らない。きっとあの少女も首を傾げるだろう。
それでいい気がした。殺がれた片方に思いを馳せることに、彼はもう疲れ果ててしまっていたのだ。
パタパタと小さな足音がこちらに向かって来る。
その音の主を、ゲーチスは既に知っていた。
たった今浮かび上がった疑問を、先ずは彼女に投げてみよう。
ドアが、開く。
2012.11.27
2014.12.14(修正)