13

その翌日、私はトウコ先輩とNさんを連れて、プラズマフリゲートを訪れていた。
二人とアクロマさんは既に面識がある。旅を終えたばかりの頃に一度だけ、4人で食事をしたことがあったのだ。
ポケモンの声が聞こえるというNさんに、アクロマさんは目を輝かせて質問攻めにしていた。
数か月ぶりの再会に、彼等は簡単な挨拶を交わしてから船内に入り、アクロマさんの自室へと向かった。

「パイプ椅子しかありませんが構いませんか? 普段、客人をお招きする機会がないものですから」

「とか言いながら、しっかりとシアの分の椅子は用意しているのね。どうせそのソファがシアの指定席でしょう?」

トウコ先輩はからかうようにそんな言葉を投げてから、自分でパイプ椅子を広げて座った。
Nさんはパイプ椅子の広げ方が分からずに悪戦苦闘していたため、しばらくしてからトウコ先輩が笑いながら助け舟を出す。
こうやって広げるのよ、と教える、その目は何処までも優しい。その目を、私はとてもよく知っていた。

「さて、欲張りで傲慢なシアの為に、私達が一肌脱ごうとしている訳だけれど」

トウコ先輩は足を汲んで不敵に笑った。
私はその言葉に苦笑しながら、アクロマさんを見上げる。
マグカップに4人分のココアを入れて持ってきた彼に、しかしトウコ先輩は首を捻った。

「あれ、アクロマさんは紅茶が好きだって聞いていたんだけど、違ったの? それとも、私たちは紅茶も飲めないようなお子様だと認識されているのかしら?」

トウコ、出会い頭に喧嘩を売る癖は止めた方がいいと思うよ」

Nさんがそう言ってたしなめる。アクロマさんは肩を竦めて笑ってみせた。

シアさんが、最近は眠れていないようでしたので。紅茶よりもココアの方がカフェインが少ないですから」

「結局、これもシアのためなのね。ふふ、しっかり惚気てくれちゃって。
ねえ? シア。こんなにも出来た相手がいるのに、ゲーチスなんかに情を移すと愛想を尽かされるわよ?」

トウコ先輩、そういうこと、言わないでください」

少しだけ恥ずかしくなって、私は慌てる。確かに私はアクロマさんのことが大切だし、彼も私をそう思ってくれている。
けれどそれは、彼女とNさんの間に生じているものと並べるにはあまりにも小さいように感じられた。
私はきっと誰かのために、彼女のように激昂することはできない。誰かを想うあまりに、他の誰かが死んでもいいなどと言うことはできない。
それは思いの質量の差なのだろうか、それとも価値観の相違なのだろうか。
いずれにせよ、トウコ先輩とNさんとの間にあるものが、私とアクロマさんの間には、きっとない。それはおそらく、私と彼とが対等ではないからだ。

けれど、と私は思う。
もし私が彼と対等になって、それでも変わらずに彼を想っていた場合、その感情はどう説明すればいいのだろう。
それでも変わらず彼に会いたいと望んだ時、その時の思いにはどんな名前を付ければいいのだろう。
その時には私にとって彼が「かけがえのない存在」になっているということなのだろうか。
私は、トウコ先輩がNさんを想うように、彼を思うことができるのだろうか。

そう在りたい、と思う自分がいた。しかしそれが果たされるのはまだ、もう少し先であるような気もしていた。

「私はゲーチスのことなんかどうでもいいの。後輩のちょっとした我が儘に、付き合ってあげているだけ。
ゲーチスがどんな病気なのかは知らないけれど、でもそれなりに大きな病院を知っているわ。
場所はホウエン地方だから、イッシュでは有名人のあいつが治療を受けるには丁度いいかもしれないわね」

トウコ先輩、ホウエン地方で病院を経営している知り合いがいるんですか?」

「正確には、「病院を経営している人間の知り合い」を知っているの。あんたも戦ったことがあるはずよ、ほら、えっと、ポケモンワールドトーナメントで」

その言葉に私は、一人の人物の名前を弾き出す。
2年前の旅以来、イッシュでは公式でのポケモンバトルを一切しなくなったという彼女が唯一、興味を抱いて戦ったその相手を、私もよく知っていた。

「あいつは石にしか興味がない奴だから、プラズマ団なんか絶対に知らないわ。ボスの名前なんて聞いたこともないんじゃないかしら」

「でも、私達のそんな頼みを聞いてくれるでしょうか?」

「絶対に聞くわよ。というか断れないでしょうね。私はあいつに勝ち星を譲ったことがないんだもの。
顔が良くて金持ちなだけの中途半端な強さを持った男なんて、私にとっては下僕みたいなものよ」

楽しそうに笑うトウコ先輩だが、彼女が言うと冗談に聞こえない所が恐ろしい。
アクロマさんですら引きつった笑みを浮かべていたが、Nさんは慣れた口調で「トウコ、その言い方は誤解を生むから止めた方がいいよ」とたしなめる。
Nさんはきっと、誰よりも彼女を理解しているのだろう。ちょっとやそっとの行動や言動では驚かない、その揺るがない笑顔に私は二人の重ねてきた時間を見る。

「その後は簡単よ、ゲーチスを拘束してホウエン地方まで飛ばすことなんか朝飯前だもの。力技は私の十八番。後の面倒な説得は、後輩に任せるわ」

さあ、と彼女は私に意味深な笑みを浮かべる。

「そうと決まれば、早速、行ってきなさい!」

「え、今からですか?」

「当たり前よ。あんたの分のココアは私が飲んでおいてあげるわ。急いだ方がいいんじゃないかしら? ゲーチスがその間に死んじゃっても知らないわよ?
私もココアを飲んだら、直ぐに向かうから。それまで、あいつを逃がさないようにね」

私のマグカップを取り上げて、彼女はクスクスと笑う。
マグカップを持っていない方の手で、力強く私の背中を押した。

「えっと、アクロマさん、行ってきます!」

「ええ、気を付けて」

私は駆け出した。ボールからクロバットの入ったボールを取り出して、宙に投げた。
心臓が大きな音で揺れていた。夜はすっかり更けていて、吐く息は驚く程に白かった。
突き刺すような寒さに、私は青いダッフルコートを素早く羽織った。寒さがあの日の恐怖を呼び起こしたが、それでも私の足は止まることはなかった。

シアが姿を消してから、アクロマは小さく溜め息を吐く。

「さて、本題をお聞きしましょうか」

「流石、聡明なあの子の旦那は勘がいいわね」

トウコは楽しそうに微笑み、温かいココアに口を付けて不敵に笑った。
最初から、シアを手早く送り出すつもりだったのだ。
もう既にトウコは、ホウエン地方に住むその知り合いに連絡を取っていたし、ゲーチスと、正確には彼の部下であるダーク達と対峙するためのパーティも連れていた。

結局、彼女は後輩であるシアの頼みを断ることができなかったのだ。
彼女はシアのように、誰もを思うことなどできない。だからこそ、自分の最愛の世界を決めて、ただそれだけを守り抜くと誓ったのだ。
その「最愛の世界」の中に入っている人物は、本当に少ない。その中心を占めるのは間違いなくNだったが、シアもその世界に入っていたのだ。
そんな彼女の懇願を、トウコは切り捨てることができなかった。

愛した世界に絆されるなんてどうかしていると思いながらも、シアならいいか、と思える程には、彼女は自分の後輩であるシアのことを大切に思っていたのだ。
そして、そんなシアが信頼する彼に、シアが大切に思っているこの人間に、どうしても言っておかなければならないことがあった。

「ねえ、アクロマさん。もう知っているかもしれないけれど、あの子はとっても聡明で頭が切れる癖に、愛の意味が分かっていないの」

「……」

「人を愛することの、本当の意味を知らないの。だから簡単に絆される。いつだって欲張りなくせに、自分に向けられる思いを顧みない。
それがあの子の美点だし、あの子が愛される理由なのかもしれないけれど、……気を付けてね」

トウコは楽しそうに笑った。しかしその笑顔の奥で懇願してもいたのだ。
シアから目を離さないで。これまでもそうだったように、これからも、そしていつまでも、あんたがシアの一番でいてあげて。
人を愛することの意味を分かっていない、あの聡明で馬鹿な子を、見限らずにずっと、愛してあげて。大切にしてあげて。
お願いだから、その席を、あんな奴に譲ったりしないで。

「あの子を取られちゃっても知らないわよ」

Nはトウコの言葉の意味を理解できずにいた。アクロマは悲しそうに笑った。

『貴方の罪を引き取る相手、貴方の救済の対象に、どうしてわたしは選ばれなかったのでしょうね。……わたしでも、よかったでしょうに』

あの時、消え入るような声で囁いたその言葉を、直ぐに冗談だと付け足して笑ったその言葉を、彼は思い出していた。

2012.11.25
2014.12.14(修正)

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