少女を守るべきポケモンは、土色の柵に閉じ込められて出ることができなかった。
それと対峙すべき3人のポケモンは、今しがた、彼女のポケモンによって瀕死の状態に追い込まれたばかりであった。
どのような行動を起こすにせよ、その動作主は「ポケモン」ではなく「トレーナー」でなければいけなかった。
少女は行動を放棄し、3人に少女自身を裁くことを促す。
一人は愕然とした表情で沈黙する。
また一人は少女に歩み寄りつつ、懐から小ぶりの刃を取り出す。
そして一人は、まるで何かを眩しがっているかのように目を細めて、踵を浮かせる。
「!」
果物ナイフのような小さな刃。けれども彼の手によって丁寧に磨かれていたその刃先は、胸の上で組まれた白い手の甲を、そっと撫でる。
ただそれだけで、美しい直線が赤に彩られる。つうと手首を伝い、服の袖を汚す。痛みに呼応して目から水が溢れ、恐怖に呼応して体は震える。
「やめて」と、拒絶することは簡単にできる。どう見ても本気で少女を殺そうとしていないその刃先を、叩き落とし自らの靴で踏みつけることだって、きっとできる。
けれど彼女は拒絶の言葉の代わりに、まるで何かに憑かれているかのように懺悔の言葉を溢れさせる。
その悲しい驕りの音で自らの口を塞ぎ、その寂しい偽りの音で自らの逃げ道を絶つ。
「旅なんてするべきじゃなかった。誰とも戦うべきじゃなかった。大事なもの、なんて、増やすべきじゃなかった。私は、」
「……」
「私はきっと、誰とも出会うべきじゃなかった!」
小さな刃は大きく振り被られた。次の息を吸うより先に、その刃が少女の肺を切り裂くはずであった。
しかしその瞬間、曇天に掲げられたその刃は男の手を離れ、明後日の方向へ飛んでいった。
ややあってから、その刃を弾き飛ばしたと思しき小石が降ってきて、ころころと踊り、少女の靴へとぶつかって、止まった。
一人は唖然とする。また一人は弾かれたように振り返る。そして一人は糾弾の視線から逃れるように目を逸らし、肩を竦める。
浮かせた踵は宙をぐいと滑り、少女の目の前へ音もなく落とされる。
「驕るなよ、シア。お前は死ねるような器じゃない」
呆気にとられた様子で目を見開く少女は、……もう、3人の姿をしかとその瞳に映している。彼女はもう、悪に為ることを、裁かれる側の人間を演じることを、忘れている。
そして一人は黒いマスクをぐいと引き下げ、おそらくこの姿では許されていない表情を、……いや、許されていたとしても他の二人には作りようのない表情を、浮かべる。
「お前はこんな奴等に殺されていい人間じゃない」
海が、凪ぎ始めていた。
一人が少女に駆け寄り、傷口を手持ちの布で覆いながら「すまない」と謝罪した。
また一人は少女から遠ざかり、近くの木の根元に突き刺さったナイフを回収して、その幹に凭れ掛かるようにして沈黙した。
そして一人は、自らの仕事はもう終わったと言わんばかりに、黒いマスクで再び自らの顔を覆い、表情を消して、沈黙して、この場における語り手を一人に譲り渡して、
……けれどもその場から遠ざかることは決してせずに、一人と少女の遣り取りを、特等席で観ることを選んだのだった。
一人は悩んでいた。どうすればいいのかまるで分からなかったし、どうした「どうすればいいのか」などということに心を砕くのは、自分の役目ではないはずだと確信していた。
此処で頭を悩ませることは、自らにとっても少女にとってもおそらく「不適切」だ。
彼女のこうした懺悔は、彼女が最も信頼し、彼女を最も信頼するあの男の前で行われるべきであり、また「個人の判断で個々に動く」ことは、この3人には許されていなかった。
この一人はとりわけ「ダークトリニティ」で在ることに忠実であった。彼はできることなら「ダークトリニティ」の姿から逸れるようなことなどしたくなかった。
「お前は負けてはいけない」
けれどもそんな彼でさえ口を開いてしまったのは、彼よりも先に「不適切」を選び取った存在がいたからに他ならない。
「ダークトリニティ」はこの少女を殺すべきではなかったし、ましてやそれを阻止すべきでもなかった。
その両方が彼の目の前で破られたのだ。どうして彼だけが、頑なに「ダークトリニティ」への忠義を貫き続けることができただろう?
「お前は、子供のままでいなければいけない。子供だからこそ振りかざせる、傲慢で愚鈍な正義を、お前は、お前だけは捨ててはいけない。
その正義が誰の居場所を潰そうとも、その勇気が誰の心を奪おうとも、その誠意が誰を殺そうとも、お前はその責任と共に生きなければいけない」
そこまで話して一人は視線を下に落とし、冷たい土に転がる3つのボールを拾い上げた。
ガムテープをひどく緩慢な動作で外していく、その、おおよそ「ダークトリニティ」らしくない横顔を、セッカシティの冷たい風が、静かに見ていた。
そう、風は告げ口などしない。この「ダークトリニティ」に相応しくない言葉を、行為を、咎める人間は此処にはいない。だからもういい、構わない。
「此処でずっと、勝ち続けてくれ。お前を倒せばゲーチス様のお心を取り戻せると信じている酔狂な男達の無様な挑戦にずっと、ずっと付き合い、そして絶対に負けないでくれ。
お前はそうして生きていくんだ。私のことも、ゲーチス様のことも一生忘れずに生きていく。……だから、こんなところで死んでもらっては困る」
「……」
「此処はお前の選んだ世界だろう。お前が願った、ポケモンと人が共に生きる世界だろう。捨てるな、見届けるんだ」
土色のテープを剥がせば、心配そうに主を見上げる彼女のポケモン達と目が合う。
何も言わずにそれらを彼女の手の平に落とした。右手からはまだ血が流れ続けている。その赤がボールに付着する。随分と凄惨な光景に思わず目を細める。
けれどもボールに付着する血の量よりも、彼女の目から溢れる海の量の方が遥かに多かった。
きっとあれは、あの海に似た塩辛い水というものは、失いたくないと思うものが多ければ多いほどに流れやすくなるのだろうと、一人はそう納得して、立ち上がった。
『誰かが必ず苦しまなければならないようになっている世界』が許せないのなら、またお前が変えればいい。変えてみせろ。お前が諦めるところを……私は見たくない」
その言葉を最後に、3人は口を開くことをやめた。少女はまだ血の止まっていない右手で目元を乱暴に拭い、彼等に告げるべき言葉のために勢いよく顔を上げた。
けれども、まるで初めからそうであったかのように彼等の姿は消え失せていた。
少女は、後悔と、羞恥と、自責と、感謝と、決意と、……そうした何もかもを詰め込んだ青い瞳を閉じて、細く、長く、息を吐いた。
次にそれを開いたとき、それは正しく海の色をしているに違いなかった。
この日、3人が彼女への断罪を放棄したという真実は、こうして彼等だけの秘密となり、二度と暴かれることはなかった。
*
3人は珍しく、……それは彼等の間において最も珍しいことではあったのだけれど……主の下へと戻る途中で、ぽつりぽつりと「会話」を為した。
一人がこう言った。
「彼女の命を扱っていい人間がいるとするならば、それは彼女自身か、あるいは我々の主を置いて他にいない。我々が手を下すべきではなかった。
許される不適切があるとするなら、それは行為ではなく言葉であるべきだった。言葉までに、留めておくべきだった。お前達は、手を出しすぎていたように思う」
また一人は、こう口にした。
「殺したっていいと思っていた。その行為が俺の腹いせに過ぎなかったとしても、構わなかった。あいつが生きようとも死のうとも、どうせ何も変わらないのだから」
そして一人は、こう紡いだ。
「俺は、何があってもあれだけは殺したくなかった」
一人が「……個人の想いを行動に反映させるのは不適切だ」と咎め、また一人は「お前の暇潰しに利用されるあいつの命には流石に同情せざるを得ない」と冷たく返した。
そして一人は、黒いマスクの下を僅かに動かした。
目の下の僅かな肉がくいっと持ち上がる、さてその表情はいよいよ「3人」に相応しくないものであったが、あるいはきっと「人」らしいものであったのだろう。
冬、12月。溜め息が白く染まり質量を持つ季節。涙が凍り付き音を奏でる季節。
降りた霜を踏みしだきながら、彼等の嘘が走り出そうとしている。
2013.7.20
2014.12.8 → 2018.9.30(加筆)