小さな衝撃が頭を襲った。私の髪が引っ張られていた。
思わず「痛い!」と叫んで上を見上げると、見慣れすぎた姿がふわふわと漂い、こちらを見下ろして笑っていたのだ。
「K!」
「久しぶりね。ちょっと痩せた?」
あははと楽しそうに笑いながら、彼女は廊下に足を着けた振りをして笑った。
感動の再会を邪魔してごめんね、だなんて、全く悪びれていないように呟くのだ。
ああ、変わっていない。私は笑った。人を馬鹿にしたように見下ろすKの視線も、困ったように笑う彼女の顔も、何も変わっていない。
唯一変わったのは、霊感がないと思っていた彼女が、しっかりとKの姿を捉えていることだ。3人での会話は初めてだった。
懐かしさと新鮮さが織り交ぜられた空気の中で私は口を開いた。
「二人は知り合いだったんだね、知らなかった。」
「あたしはYと同じ時間を何十年も生きてきたのよ。所謂、腐れ縁ってやつね。」
「酷いなあ、そんな言い方。」
彼女、……Yは笑った。竦めた肩の向こうに廊下の床が見えた。
半透明の彼女の姿はまだ見慣れない。気を抜けば前のように軽く肩に触れてしまいそうで、そして触れられないことに気付き呆然とするのだろう。
私達の世界は共有されない。しかしそれは当たり前のことなのだ。誰もが誰もと世界を共有することなど出来ない。
ただ、私とYとの隔たりが少しばかり特殊なだけ。他の人には理解を求められないだけ。
それでも私と彼女の世界を、私と彼女は知っている。それだけで良いと思えた。
KはしばらくYと談笑した後に、私をじっと見つめて首を捻った。
「ところで、あんたは何処に行こうとしていたの?」
「……あ!遅刻!」
時計を見ると、始業時刻を10分過ぎていた。どう足掻いても遅刻だ。原点は免れ得ない。
私はがっくりと肩を落とした。寝坊だなんて珍しいね、とYが珍しくからかってくる。それがおかしくて私は笑った。
だって眠れなかったんだもの、仕方ないじゃない。そう返した私は、せめて少しでも早く教室に辿り着こうと駆け足で一歩を踏み出し、しかしその足は直ぐに止まった。
「……。」
「どうしたの?」
「Yはもう、授業に来ないんだよね。」
その言葉に笑い出したのはYではなかった。
「あんたね、Yが2年の授業なんて、かったるくてやれる訳ないでしょう。去年はあんたに付き合ってあげていただけよ。」とKが大声で吐き出すように紡ぐ。
そうか、私に付き合ってくれていたのか、と思い出し、彼女の成績が飛び抜けて良かった理由にも行きついて納得する。
彼女が元々勤勉だったことも一因しているのだろうが、見た目は14才の少女でも、その姿でホグワーツに何十年も住みついていたのだ。時間は有り余る程にあったのだろう。
1年や2年の教科書くらいなら諳んじられそうだ。彼女ならやってのけてしまうような気がした。
「でも、遊びには行くよ。退屈な授業や、就寝前の自由時間に、暇だったら私を呼んで。飛んでいくから。」
「本当?本当にいいの?」
彼女は笑って頷いた。私は安堵し、踵を返して駆け出そうとした。
しかし聞こえてきたその言葉に、私は再び足を止めて振り返ることになる。
「だって、友達でしょう?」
「!」
もう、二人の姿はなかった。私は呆然と立ち尽くしていた。
遅刻する。そう言い聞かせて私は足を動かした。長い廊下を一目散に駆け抜けた。
風が頬を冷たくしていった。濡れた頬はなかなか乾いてはくれなかった。何故ならそれは止め処なく溢れ続けていたからだ。
途中で私は耐えられなくなって、廊下に座り込んだ。
不規則に嗚咽を零しながら、廊下の染みが視界の膜によってぐらりと揺れるのを見つめていた。
何が苦しいのだろう。何が悲しいというのだろう。それとも嬉しいのだろうか。これは歓喜の涙なのだろうか。しかしそのどれもが違っている気がした。
きっとこれは安堵だ。私が私を許せたことに対する安心と、私が彼女達に許されたと確信出来たことに対する安心だ。
張りつめていた緊張の糸が切れたように私は泣きじゃくっていた。授業中の静まり返った廊下に私の嗚咽は煩く響いた。
ごめんなさい。ありがとう。
陳腐な言葉に温度を持たせる術が見つからず、私はただ沈黙していた。
きっと呼べば彼女は来てくれるのだろう。どうしたの、と尋ねながら、困ったように笑いながら、拭えない筈の涙を拭う為に手を伸ばしてくれる筈だった。
だからこそ呼ぶ訳にはいかなかった。私は危なっかしいながらも一人で歩かなければならないからだ。
呼ぶ時があるとすれば、それは彼女が言った通り、退屈な授業や就寝前の自由時間といった「友達の会話」をする時に限られているのだろう。
私はもう彼女に凭れない。それを私が許さない。何故なら「私と友達になって」と言ったのは他でもない私だからだ。
依存するでもなく、崇拝するでもなく、ただ一人の友人として関わると誓ったからだ。
「またね。」
私は立ち上がり、廊下を駆け抜けた。
*
授業が予定されていた教室は賑やかだった。黒板には「自習」の文字が書かれている。先生は不在らしい。
勤勉と名高いレイブンクローですら、先生不在であるとこれ程までに騒がしくなるのだ。
グリフィンドールやハッフルパフはこの比ではないのだろう。寧ろ教室に残っている生徒の方が少ないのではないだろうか。
そんな訳で、私は自習の時間が好きではなかった。しかし今日ばかりはその偶然に感謝したい。私の遅刻での原点が免れられたのだから。
助かった、と溜め息を吐いて、私は見慣れすぎた赤い髪を探した。
コトネちゃん、おはよう!どうしたの、遅刻?珍しいね。でも先生、いないよ。運が良かったね。
私に気付いたクラスメイトが口々に声を上げる。私はそれらに笑顔で挨拶を交わし、真っ直ぐに教室の隅の席へと向かった。
クラスメイトの一際大きくなったざわめきに顔を上げてくれた彼は、私の姿を認めるや否や、呆れたように眉をひそめた。
盛大な寝坊だな。そう言ってくれる筈だった。しかし彼は驚いたように目を見開き、しばらくの沈黙の後に隣の椅子を引いてくれた。
私はいつものように「おはよう。」と笑って、席に着く。
「会えたのか。」
私は危うく拍子抜けた声を出しそうになった。彼はどうしてこんなにも鋭く私を読むのだろう。私は彼のことをあまり知らないのに。解せない。
シルバーに隠し事は出来ないね、と私は笑った。どうして解ったの?と尋ねた私に、彼は何を言っているんだ、と小さく笑った。
「好きな奴のことくらい、言われなくても解る。」
その言葉に私よりも先に反応したのは、その近くに座っていたクラスメイトだった。甲高い悲鳴を上げて楽しそうに立ち上がり、仲の良い友達に報告に走っていく。
私はというと、そのクラスメイトの反応に青くなり、更に先程の彼の発言に赤くなりと忙しい顔色を展開していた。
シルバー、急にどうしたの。やっとのことで紡いだそれに、彼は酔っているのか、更なる爆弾を投げてみせたのだ。
「なんだ、恋人の方が良かったか?」
そうじゃない!という私の声は、更なる周りの悲鳴にかき消された。
更に困ったことに、「煩いぞ」と注意しに来たサカキ先生に、テンションの上がったクラスメイトがこのことを報告してしまったのだ。
よりにもよって、シルバーの父親であるサカキ先生に一番に知られてしまうなんて。
生徒同士のそうした噂に顔をひそめていた彼が、こうした関係を良くないものと思っていることくらい容易に想像がついた。私は青ざめた。
「先生!あの二人、恋人になっていたんですよ!」そんな女子の発言に、先生はやはり呆れたように笑った。
しかしその呆れた笑いが、そのクラスメイトにではなく私とシルバーに向けられたものだと気付いたのは、その後の彼の言葉を聞いてからのことだった。
「まだ恋人じゃなかったのか?とっくにそうだと思っていたが。」
2014.2.28