26

私の生活は、徐々にではあるが普通のものに戻りつつあった。
天気のいい日はシルバーやヒビキと散歩に出かけた。夕食を作るのを手伝い、シルバーの方が手際良く作業をしていることに軽くショックを受けた。
久しぶりにシルバーとポケモンバトルをした。未だに無敗を貫いているチコリータに私の故郷を紹介しながら、「私の大好きな場所なの」と言って笑った。
ご飯が美味しい。家が温かい。当たり前であった筈のものを、私は甘受することが出来るようになっていた。

それでも眠れない夜はやって来て、シルバーはその度に私の夜更かしに付き合ってくれた。
リビングでホットミルクを飲みながら、他愛もない話をした。
目を擦りながら、それでも眠れない私の世界を共有してくれる、その尊さに涙が出そうになる。
最初こそ、シルバーの方が先に寝てしまうことの方が多かったが、今ではソファで二人して眠っているところを、朝になって姉に起こされるという生活が続いていた。
仲が良いねと冷やかされながら、同じく顔を赤くしている彼を見て笑った。

「ホグワーツに、戻るよ。」

私のその言葉に、一番喜んでくれたのはお姉ちゃんだった。
「本当に?」と尋ねながら、私が頷くや否や、これでもかという程の強い力で抱き締められた。
良かった、本当に良かったと繰り返す彼女の声は震えていた。ヒビキも私の決断にとても喜んでくれた。
シルバーが以前に発した「彼女は来年度からもホグワーツに通います」という言葉が優しい嘘であったことを、母も姉もヒビキも知っていたらしい。
沢山、沢山、心配をかけた。私は愛されていた。愛されていたことを知り始めていた。

「でも、大丈夫?」

それでもやはり心配なのか、そう尋ねてくれる母に、返事をしたのは私ではなくシルバーだった。

「大丈夫です。無理をさせないように、傍に付いていますから。」

「……シルバー君、無理しなくてもいいのよ?」

「それなら、このままいさせて下さい。コトネの世話を焼けなくなる方が、俺にとっては「無理」なことですから。」

そんな切り返しに母は涙ぐんだ。姉は面白そうに笑っていた。私は泣きそうに笑っていた。

ホグワーツに戻る日は刻々と迫っていた。私は数日かけて解いた荷物を再びまとめる作業に入っていた。
主に衣類を詰め込んで、部屋を見渡す。来週にはもうこの部屋にいられないのだ。それを思うと途端に恐怖が身体を支配した。
こういう時に一人でいるとろくなことを考えない。私はシルバーと話をしに行こうとしてドアを開け、しかし次の瞬間素っ頓狂な声を上げることになった。
今から探しに行こうとしていた人物が目の前にいたからだ。

「な、」

「……奇遇だな、俺も今まさにドアをあけようとしていた。」

そう言って苦笑した彼は、入るぞと宣言して私の部屋に足を踏み入れた。
荷造りは出来たのか?大体は今、済ませたところ。シルバーは?俺の荷物はそんなにない。
そんな遣り取りを繰り返した後で、シルバーはいつもの定位置に座った。ドアのすぐ横の壁だ。私もドアを背に座り込み、彼の手をそっと握った。
ほんの少しだけ力を込めれば、それよりもやや強い力で握り返してくれた。

「何が怖い?」

そして、そんなことを言うのだ。私の心を読んだような質問に涙が出そうになる。
どうして彼はこんなにも私のことを知っているのだろう。
『お互いが相手のことを大切に思っていれば、それはとても簡単なことだと思うよ。』
ヒビキのそんな言葉を思い出した。変なの。私は彼のことを、彼が私を知ってくれている以上に知っている自信がない。
そう思ってしまう私は薄情な人間なのだろうか。

「全部。」

「……悪い、具体的に頼む。」

「またゴーストを見ること。クラスメイトや寮生に変な目で見られること。あの子やKに会うこと。」

シルバーは手を宙に掲げ、私の言葉に合わせて指を折っていった。
それだけか、と目で尋ねられたので、私はしばらく考えた後に頷いた。
本当ならその後に「一人になること」が続く筈だったのだ。それが一番の恐怖だった。しかしもう「それ」は怖くなかった。

課題は山積みだな、と唸るシルバーに申し訳ないという気持ちが湧き上がってきた。
彼は「ままごと」でも良いと言った。私がどうしても彼に甘えることが出来ないなら、彼のことを信じられないなら、利害の一致から為したままごとでも構わないと。
そうして始まったこの生活にも、終わりが見え始めていた。私はまたホグワーツで生活しなければならない。恐ろしい視線と無数のゴーストに囲まれる日々がまた始まるのだ。

「それでもホグワーツに戻ると決めたのは何故だ?」

「行かないと、勉強が遅れるから。折角受け取った本校への招待状だから。それに……。」

私は彼の手を強く握り締めた。彼の息が不自然に途切れるのが解った。きっとこれで彼は解ってくれると信じられた。
それはままごとのせいだろうか。それとも本当に私が彼を信じているからだろうか。甘えることを知り始めているからだろうか。
後者だといい。そうであって欲しい。きっとそれが彼の誠意に対する私の孝行になり得る気がしたのだ。

「……そうか。」

彼の顔は見えなかった。しかし僅かに微笑む気配がした。

「でもね、怖い、怖いよ。だって世界はシルバーだけじゃないんだよ?」

「ああ、知っている。」

私は世界を恐れていた。私の世界と他の人の世界は共有されないからだ。
彼は私の恐れを否定しない。どうしてそんなに怖がっているのと責め立てない。私を尊重してくれる。そして、だからこそ私が逃げることを許さない。

「そんなお前に朗報だ。」

「?」

「怖いなら、目を閉じていればいい。」

そんな彼が発したとんでもない解決策に、私はただ茫然とした。
彼は今、何と言ったのだろう?何か信じられないことを聞いた気がして、私は念のため、確認しようと思い簡潔に尋ねた。

「目を閉じていたら、前に進めないじゃない。」

ぱちん。
そんな音を立てて、私の中で何かが弾けた。
それは全てに怯えていた私が、長い間見逃していたことで、けれどもとても簡単なことだった。

「進めないなら、俺が手を引けばいい。最初に言ったじゃないか。」

それはとても高尚な自己犠牲だった。彼は怖がりで臆病な私の「手を引」き続けることを選んだのだ。
私は盲目だったのだ。だから前に進めずにいたのだ。怖いなら目を閉じていればいい、だなんて、今更な話だ。私の目はずっと閉じられていたのだから。

『取り敢えず、俺の手を取ってくれ。』

あれはそういうことだったのだ。私は盲目で、ずっと彼に手を引かれていたのだと。そんな覚悟は彼の中で、もうとっくにできていたのだと。
彼は優しい。その残酷なまでの優しさの理由を、私は少しだけ知れた気がした。彼は共有されない世界を許すことを知っているのだ。
私の手を引く彼は、きっと私よりも多くの世界を見てきたのだろう。私は彼のように広い視野を持つことが出来ない。それはとても恐ろしいことだからだ。
知ることは恐ろしい。それでも、その先に待つものがとても尊いものだと、私に教えてくれる人がいる。

「いつまで?」

「さあ?特に期限は決めていない。……ああ、それじゃあこうしよう。」

シルバーは身体の向きを変え、握った私の手を掲げて笑った。

コトネが俺の手を引けるようになるまで。」

その言葉が暗に示したものの尊さに涙が出そうになる。
コトネが一人で歩けるようになるまで、とは彼は言わない。彼は私を知っているからだ。
このどうしようもない程に怖がりで、寂しがり屋で、不器用な私のことを、もしかしたら私以上に知っているからだ。

愛しい。
この手が愛しい。

「シルバー、かっこいいね。」

どうしても泣きたくなかった私は、そんな言葉で彼の頬を赤く染めることにした。

2014.2.17

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