夏休みの数日が過ぎていた。私は本当に無為な時間を重ねていた。
身体が鉛のように重かったのは、あの日、私の施された治療の副作用だとばかり思っていた。
勿論、そのせいでもあるのだが、数日が経過した今でも、全身を襲う倦怠感は消えてはくれなかった。
瞬きは出来るようになったし、一人で身の回りのことも済ませられる。荷解きも時間をかけてようやく済ませた。
しかし、ご飯の味がしない。窓の外の景色が色を失っている。眠れないし、何も考えることが出来ない。
出されたご飯を無理矢理に半分程度口に押し込む日が続いていた。夜は眠くなくても布団に入った。そうすることで普通に戻れると信じていたのだ。
しかし普通であろうと努めれば努める程、皮肉にも、それは私から遠ざかっていった。
遠くで誰かが笑っているような気がして、しかしその誰かの顔だけは鮮明に思い出せてしまう自分が憎らしかった。
『彼女はもう誰にも依存しない、誰のものにもならない。そうした気高い人間なのよ。あんたと違ってね。』
私がいけなかったのだろうか。全て私が間違っていたというのだろうか。
しかしそれなら、どうすれば良かったというのだろう。
私の周りには見えないものが纏わりついていた。そのせいでろくに友達も出来なかった。
憧れと希望に満ちていたホグワーツでの生活を、私はたった一人で生き抜くことを半ば覚悟していたのだ。そんな最中の出会いだった。
やっと見つけたのだ。私の体質を気にせずに付き合ってくれる人。
とても優秀で、けれどとても虚弱な、どこか儚さを秘めた人。
私が憧れ、なりたいと焦がれた人。一緒にいたいと心から願った人。私の、親友。
しかし今は、その彼女の名前すら思い出せない。
それは、生きている人間に名前を知られてはいけないというゴーストの禁忌に相当するからであり、そしてそれを思い出す度に私は泣いた。
彼女はゴーストだった。私は一人だった。
「ホグワーツを、辞めようと思うの。」
そんな中で出した、今の私が出し得る最善の結論がこれだった。
お母さんはスプーンを落とし、お姉ちゃんは水の入ったグラスをひっくり返した。ヒビキは咳き込んでいた。
唯一、シルバーだけが平静を保っていた。困ったように笑うその表情に、ああ、きっと見抜かれていたんだと私は気付いてしまった。
「どうして、」
震える声でそう紡いだのは誰だったのだろう。しかしその続きを聞くことはなかった。シルバーがその言葉を遮り、こう言ったからだ。
「すみません。少し、時間を貰えませんか。」
そして今、私は自分の部屋の壁にもたれ掛かり、同じく壁を背もたれにして座っているシルバーと話をするに至っている。
先ず、彼は呆れたように笑い、私の額をこつん、とつついた。
お前はいつも言うことが急過ぎる、と叱られたが、私はそれに対して謝ることが出来なかった。
急ではない。ワカバタウンに帰ってきてから、ずっと考えていたことだ。
もうあの場所には戻れないと感じていた。一人で生きていくにはあの場所は冷たすぎたのだ。
「あいつに、会いたくないからか?」
彼は私の顔を見ない。代わりに私の手を握り、ゆっくりとした声音で慎重に言葉を選んでくれる。
そこには私への、勿体ない程の誠意が感じられた。
「一人になるから。」
「どうしてだ?」
「私は、おかしな子だったから。だから皆、私を見て笑っていたんでしょう?」
皆が私を見て笑っている気がするという、あの時感じていた違和感は正しかったのだ。杞憂などではなかったのだ。
あれは冷たいホグワーツの住人が私に発していてくれた最後の警告だったのだ。私はそのサインを見逃した。
「……他の奴等がお前をどう思っているかは知らないが、一人になるのが怖いのなら、それに関しては、何も心配する必要はない。」
私は自分の体温が急激に下がるのを感じていた。背中を冷たいものがすうっと伝っていた。
優しい彼が紡ぐであろう次の言葉を、私は知っていた。知っていたからこそ怖かったのだ。
何故ならその言葉を聞いてしまえば、私はこの大切な人を傷付けてしまうことになると解っていたからである。
しかし彼は、その言葉を紡ぐことが私への救いになると信じている彼は、躊躇わずにその口を開いた。
「俺じゃ不満か?」
……それは、ホグワーツを辞めたいという結論を出した時に、いつかは彼と話し合わなければいけないことだった。
俺がいるから、少なくとも一人ではない。優しい彼はそう言ってくれると、馬鹿な私でも予想できた。
俺の存在はカウントしてくれないのかと、いつかは聞かれる筈だったのだ。それは避けられない議論だった。
しかし私はそれにどうしても甘えることが出来なかった。それは彼に迷惑が掛かるからとか、そうした類の優しい拒絶ではなかった。
もっと自分本位で身勝手な否定だった。私はどこまでも薄情な人間で、どうしようもない馬鹿だったのだ。
「だって、シルバーもあの子と同じでしょう。私をずっと騙していたでしょう。
シルバーの目にあの子は見えていなかったのに、見える振りをしていたじゃない。」
「……それは、」
「あたかも私が普通の子だって、そう思わせるように仕向けていたじゃない!」
久々に張り上げた声は掠れていた。私は彼の手を振り払った。
彼にあの子を紹介した時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
『俺はシルバー、レイブンクローの1年だ。』
彼は何食わぬ顔で、見えない筈の相手に自己紹介をしていたのだ。
見えない相手に笑い掛け、見えない相手に気を遣っていた。そんな馬鹿げた茶番が繰り広げられていたのだ。
それからも幾度となく彼は、私が話すあの子の話に付き合ってくれていた。
いるかいないかも解らない、もしかしたら私の妄想であるかもしれないその「親友」の存在を、彼は信じた振りをしていたのだ。
そうやって優しい嘘を重ねながら、彼はずっと私を騙し続けていたのだ。
「嘘吐き、裏切り者、大嫌い!」
それはいつか、私が錯乱しながら彼に投げた言葉だった。
あの時よりも強い罪悪感を伴ったそれらの言葉を、しかし私はどうしても止めることが出来なかった。
「私はもう、誰かに騙されながら生きていたくないの。
それが私を守るためだったとしても、どうしても許せなかった……!」
お願い、こんなことを言う私を許さないで下さい。
ごめんなさい、ごめんね、ごめんねシルバー。
「出て行って。」
それは最後の言葉となる筈だった。彼はひどく傷付いた顔をして、この部屋から出て行ってくれる筈だった。私はクッションに顔を埋めた。
しばらくの沈黙が流れ、彼の遠ざかる足音が聞こえ始める。それはほぼ確定された未来であった筈なのに、どうしてもその音を拾うことが出来なかったのだ。
恐る恐る顔を上げると、いつの間に移動したのか、シルバーは真っ直ぐに私を見つめていた。
「コトネ、お前の考えていることはよく解った。」
そしてシルバーは、今まで見たこともないような表情を浮かべた。
「今度は、俺の番だ。」
2014.2,15