18

初めて踏み入れたその森はひたすらに暗く、私の足取りは覚束ないまま、それでもその奥へと歩みを進めた。
禁じられた森への無断侵入が、その名の通り禁じられていることはよく知っていた。見つかれば寮点が100の単位で奪われるだけでなく、悪くすれば留年、退学もあり得る。
それでもいいと思った。だから足を踏み入れたのだ。もうホグワーツにはいられない。折角貰った本校への招待状だけれど仕方ない。
両親や姉には申し訳ないけれど、弟は寧ろ喜んでくれるんじゃないかな。
私が家にいれば、彼も退屈しないだろう。私はつまらないものに意味を見出すのは昔から得意だから。そう、それだけは得意だから。

カゲボウズやムウマが暗闇をふわふわと漂っている。雨音が小さく聞こえ始めた。霧雨を闇に慣れた目が捉えていた。
しかしそれを確認出来たのも初めの方だけだった。奥へ行けば行く程に視界は暗くなり、もうどれくらい進んだのかも解らない。
行き方も戻り方も解らない。そもそも行く場所も帰る場所も私にはない。


私の世界は共有されない。


それは入学したばかりの時に、私が出した悲しい結論だった。
それがこの1年で覆ったと思っていたのだ。彼女と出会って私の世界は変わった。少し強情なところもあるが、成績優秀で完璧な彼女に私は憧れた。
同時に、虚弱体質で、とても引っ込み思案で、私以外の人には決して口を開かない彼女のことを、私が守ってあげなければとも思った。
彼女には私しかいないのだと信じられた。だからこそ私も彼女に全てを捧げようと思ったのだ。
私の体温も、心も、時間も、彼女に捧げた。それは彼女が私を拒まなかったからだ。

「どうして拒んでくれなかったの……。」

ずっと、ずっと騙されていたのだ。私は焦がれた彼女に最初から裏切られていた。
あんたが悪いのよ。Kの声が頭に焼きついて離れなかった。
だって仕方ないじゃない。一人は嫌だ。私は私の世界を誰かに共有して欲しかった。
皆に嫌われたくない。その冷たい視線は私の大切なものを奪ってしまう。
だから人一倍気を使って、虚勢を張って、精一杯背伸びをして、……ああ、結局、私は彼女との時間を守りたかっただけなのだと、気付く。
それが彼女自身の手によって壊されてしまうなんて、そもそも最初から壊れてしまう定めだったなんてどうして解せるだろう。
私は否定し続けていた。その事実を拒み続けてきた。
絶望は犯人を求めて彷徨う。私は彼女を、Kを、ホグワーツを恨み始めていた。

雨音は益々激しくなり、私の体温を奪っていく。
ディメンターが来てくれないかな。私はそんなことを考えていた。
その恐ろしいものは、人の感情を糧にしてそれを吸い取る。人間はディメンターに対してひたすらに無力であり、唯一「守護霊の呪文」で対抗できるらしい。
それを3年生の時に姉が駆使してホグワーツにやって来たディメンターを追い払ったという逸話は私の耳にも届いていた。

守護霊はポケモンの形をしているが、それは自分のパートナーのポケモンの形を取ることは決してない。
使役者の「幸福な記憶」に影響を受けるその半透明の守護霊は、その幸福な記憶が連想する先にあるポケモンの形を象るらしい。
姉の守護霊はアポロ先生のパートナーであるヘルガーの形をしている。アポロ先生の守護霊も例に漏れず、姉のパートナーであるメガニウムだ。
相思相愛とはこのことらしい。私は暗闇の中で小さく笑った。

狡い。どうしてそんな簡単に幸せになれるのだろう。
私は卑屈になり続けていた。ここ数時間の間に起こった衝撃は、私の既に正気を失った心を捻じ曲げるに十分だった。
もうディメンターでも何でも来ればいい。彼等に憑かれて、ディメンターの一員になるのも悪くない。
ああでも、ディメンターもこんな不幸体質の私なんか要らないかな。私は全てに拒まれているらしい。

私の身体は冷え切っていた。それは彼女にも似たような冷たい温度だった。
夏である筈なのに、禁じられた森の中は肌寒い。鋭い風と雨に身震いしながら、私は目を閉じてみた。
目を開けても閉じても、広がるのは暗闇であることに変わりはない。それならもう、良いんじゃないかな。
生きていても死んでいても、私が一人であることに変わりはない。それならもう、良いんじゃないかな。
私はその責務から自由になろうとしていた。それは大きく口を開けて私を迎え入れようとしていた。

『お前がコトネか?』

「!」

その声は私を責めていた。私は慌てて立ち上がり、駈け出した。
方向など解らなかった。何度転び、何度沼や水溜まりに足を取られたのかもう覚えてなどいなかった。
ただ歩き続けなければいけなかった。私はその声を振り払おうと努めた。

『いいぜ、今度こそ負かしてやる。』

『らしくないことを言うな。冗談だよ。』

止めて、止めて。

私はとうとう動けなくなった。寒さと焦りで感覚が麻痺していたらしい。
見えこそしないがあちこち怪我をしているようだった。鼻をつく血の臭いがそれを暗示していた。
痛みと寒さがどっと押し寄せてくる。それは私の目蓋をゆっくりと閉じさせた。あの声がまだ聞こえていた。
もういいや。足掻くのは止めよう。私は彼の糾弾から逃れることは出来ない。
彼に謝りながら死んでいこう。それで良い気がした。私が死んだら、少なくとも彼くらいは泣いてくれる気がした。

ああ、私はまだ信じることが出来たんだね。

コトネ!」

その声は私の脳内で聞こえたものではなかった。私の目蓋が急に軽くなった。
遠くに明かりが見えた。ヒノアラシの炎だと気付くのに時間が掛かった。その小さな身体は真っ直ぐにこちらへと駆け寄って来る。
数秒遅れて杖の明かりが木の影から現れた。それに照らされた顔にはあまりにも見覚えがあった。私は金切り声で叫んでいた。

「来ないで!」

自分の潰れた声に驚く。あの部屋で叫び続けていた私の喉はもう潰れてしまっていたのだ。
そんな声に驚いたのは私だけではない筈で、だからこそ、彼を足止めすることに成功する筈だった。
しかし彼は驚くことも、立ち止まることもしなかった。その銀色の目は真っ直ぐに私を見つめていた。彼は駆け寄り、私の目線に屈んだ。
咄嗟に胸を占めた恐怖に身を任せて私は彼を突き飛ばした。
彼の悲鳴を聞かずに走りだそうとしたが、怪我をしているらしい私の足がそれを許さなかった。血の臭いがまた鼻を掠めた。

「嫌、駄目、来ないで。」

「落ち着け、大丈夫だから。」

「嘘よ、嘘吐き、裏切り者、嫌だ、触らないで、嫌い、大嫌い。」

それはなんとか言葉の形こそしていたものの、悲鳴に近い金切り声で発せられていた。
喉が焼けるように痛かった。もっと奥に手を突っ込まれて、大切なものを抉り取られていくような、そんな奇妙な不快感が頭にこびり付いて消えなかった。
私は呪詛の言葉を紡ぎ続けた。彼は杖を取り出して私に向けた。

「ステューピファイ。」

失神呪文だ、と理解するのと、コトン、と明かりが落ちたように私の目蓋が閉じられたのとが同時だった。
糸が切れたように地面に倒れる筈だった私の身体を、彼はしっかりと抱き留めた。
彼の腕はひたすらに温かい。どうせならその温度は私なんかに差し出すべきではないと思った。

2013.12.14

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