「あんたが悪いのよ。」
Kはそう言っていつもの皮肉めいた笑いを浮かべた。私が押し黙ったことで、彼女にこの場におけるイニシアティヴを譲ってしまったことが原因だった。
埃を被った部屋で、私は微動だにすることも出来なかった。少しでも動けば窒息しそうな程の量の埃が舞うのが目に見えていたからだ。
何より私は、あの毒舌ではあるが飄々としたKに怒鳴られたことに愕然としていた。このゴーストをここまで恐れたのは初めてだった。
「あたしは、コトネのことをYから聞いたのよ。「昔の私に似た子がいる。」って。
不器用で、生き辛そうで、でも一生懸命な子なんだって。その必死さが私に似ていて、少しだけ懐かしい気持ちになるんだって。」
Kはふわふわと宙を漂っていたかと思うと、床に着地し、自分の杖を彼女自身の頭上にかざして聞き慣れない言語で長い呪文を唱えた。
するとその姿が私にも見えるようになる。先程、廊下で出会った時のように、実体を持った人間としてのKがそこにいた。
これは闇の魔術に分類されるもので、実体のある身体をゴーストの状態にする、つまりは幽体離脱を行ったり、ゴーストを実体に置き換えたりするものだという。
微量ながら対象者の生命力を削るという副作用を持つその魔法を、生きている時に使えば獄中決定だと彼女は説明し、笑った。
闇の魔術には、その内容の過激さもさることながら、魔法を使った時の副作用が莫大なものや、生死に関わるものなどが分類されることを、私は知識として知っていた。
このおかしな魔法は「人の生死を誤魔化すもの」であり、微量ではあるが「生命力を削る」ものであることから、闇の魔術に分類されたのだろう。
闇の魔術は禁じられているだけでなく、一流の魔法使いでも使いこなせない難解なものであることが多い。
この魔法もその一つらしいと、私はおぼろげに察し始めていた。
「Yはこの魔法を必死になって勉強したの。あんたに力を貸してあげたいんだって、その為にはゴーストじゃ駄目なんだって。」
「…。」
「最初は、お人好しなあいつの単なる気紛れだったんでしょうね。あんたに友達の一人でもできて、寮に馴染めば、そっと離れていくつもりだったみたいよ。
Yがあんたの隣にいる時間は短ければ短い程良かった。自分と居続ければ、またあんたが嘲笑の的になることをYは解っていたからね。」
「…どうして、」
その答えは聞かずとも解っていた筈だった。それでも私は尋ねてしまった。
しかし掠れた声で紡がれたその言葉をKは笑わない。手間を取らせないでよと邪険に扱ったり、説明が面倒だわと嫌そうな顔をしたりしない。
Kはゆっくりと、しかしはっきりと言葉を並べた。それは私の逃げ道を完全に塞いだ。
「Yの霊力はゼロに近いのよ。でもあんたには見えたのね。」
聞かなければ良かったと思った。その瞬間、私の頭の中を占めたのは紛れもない後悔だった。
何かどす黒いものが私の喉元でうごめいているのを感じていた。
それは吐き気を伴ってせり上がって来る。私は手で口を押さえたが遅かった。
埃まみれの床の上で私は嘔吐した。胃液の酸が喉を侵食する。粘性を帯びたそれは手から零れ落ちて、埃の中に醜く弾けた。
嫌だ、嫌だ、いやだ。
もう何も聞きたくなかった。確信が私を蝕み続けていた。
吐き出すものはもう何もない筈なのにせり上がる不快感は留まるところを知らない。
「でもまさか、あんたがこんなにもYに依存するとは思わなかったわ。
「そんなところも昔の私に似ている。」って、あいつは困った顔で笑っていたけど。」
「…止めて。」
「そもそも「Yだってそんな出来た人間じゃないんだから、あんたみたいな人間といても疲れるだけよ。」って、私は最初に忠告したのよ?
でもYは強情だから、どうしても引かなかった。まあ途中からはあんたの依存がエスカレートしたせいで、引くに引けなくなったんじゃない?」
「喋らないで、K.。」
「夏休みを利用して、あんたの頭の中からYの記憶を徐々に消していく予定だったんだけど、まさか戻って来るなんてね。
…ああ、Yなら今はいないわよ。慣れない魔法を1年間使い続けたから、夏休みの間はひたすら休んでいるんじゃないかな。あいつ、体力は昔からないからね。」
「黙れ!!」
私はマグカップをKに投げ付けた。半透明の彼女に当たる筈もなく、それは壁にぶつかって派手な音を立てて砕ける。
煩い、うるさい。これ以上喋らないで、私の頭を掻き乱さないで。私の大切なものを抉り取らないで。
全ての世界が音を立てて崩れていた。魔法が解ける時には痛みを伴うものだというその不条理を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。
「どうして!?どうしてこんなことをするの、どうして何も言ってくれなかったの!
信じていたのに!あの子は私を裏切らないって信じていたのに、貴方のことだって信じていたのに、一人じゃないって信じていたのに!」
手に触れたものを手当たり次第に投げ付けていた。正気だとかそういった類のものを私は何所に置いて来てしまったのだろう。
しかしもうそれで良い気がした。正気を私が拾い上げたとして、それはもう使い物になりはしないからだ。
「私はずっとおかしな子だったの?何もないところで笑ったり、何もないところで話したり、何もないところに幸せを見出していたおかしな子だったっていうの?ねえ!」
私が今まで隣にいたと思っていたその存在は、皆には、…私以外の誰にも、見えていなかったのだ。
私はホグワーツにやって来た日から、ずっとずっと狂人だったのだ。
だから皆、私を見て笑っていたのだ。嘲りを含んだ目で私を見ていたのだ。私はずっと、何もない空間に意味を見出していた、おかしな子だったのだ。
私はずっと一人だったのだ。
「嫌いよ、大嫌い!貴方もあの子も大嫌い!
裏切り者!嘘吐き!私の1年間を返してよ、私の幸せを返してよ!」
これ以上に残酷な裏切りを私は知らないと思った。埃まみれの空間の中で私は声にならない悲鳴と共に、そんな言葉で全てを責め続けていた。
だってどうしろというのだろう?私はどうすれば良かったのだろう?
私はもう正気がどういったものだったかを忘れ去ってしまっていた。この1年間はそれを可能にするに十分な期間だった。
「私の天使を返して!」
するとKは至極楽しそうに微笑んだ。
「残念だけど、Yは少なくともあんたの天使じゃないわ。彼女はもう誰にも依存しない、誰のものにもならない。そうした気高い人間なのよ。あんたと違ってね。」
それ以上、私は聞いていられなかった。ドアを乱暴に開けて飛び出した。
走った。走った。止まらなかった。
校舎を飛び出し、チコリータの入った鞄や荷物を置き去りにして、広い芝生の上を駆け抜けた。
途中で足を取られて転んだ。私は両手でその緑をむしり取った。指から血が出る程に強く地面を引っ掻いた。涙が止まらなかった。
「どうして、どうして…!」
つまりはそういうことだったのだ。
私が彼女の名前を忘れたのは、名前を知るということが彼等にとっての禁忌だからで、
皆がシルバーといる時の私ではなく、彼女といる時の私を見て笑っていたのは、私が何もないところに意味を見出していた狂人だったからで、
彼女が私以外の人間との関わりと徹底して避けたのは、私にそうであることを知られないようにする為で、
あの部屋が埃まみれの物置と化していたのは、私が入り浸った白い空間が、彼女が闇の魔術で見せた幻覚だからで、
彼女が私を拒み続けたのは、そうするしかなかったからで、それは世界の共有がなされないと彼女がとうの昔に諦めていたからで、
そもそもこの関係には終わりがいつも口を開けて待っていたのであって、つまり、
彼女はゴーストだったのだ。
2013.12.14