16

夏休み初日の夜、余程の事情がない限り、ホグワーツに残ることは許されていない。
私はチコリータの入った鞄や、その他の大荷物を校門の前に置き去りにしたまま、その中へと歩みを進めた。
言うまでもなく、この奇怪な現象の招待を確かめる為だ。私は焦っていた。焦り過ぎていた。
そのせいで廊下を3回は転んだ。通り過ぎるゴーストが笑ってはやし立てた。彼等を睨み付ける余裕すらなかった。私は医務室の隣にある扉を叩いた。
彼女はその「余程の事情」を抱えた人間であり、まだホグワーツに残っている筈だった。

「ねえ、いるんでしょう?此処を開けて?」

いつものようにドアをノックした。降りた沈黙に耐えきれずに私はすぐさま言葉を紡いだ。

「私よ、コトネよ。声で解るでしょう?大丈夫、私の他には誰もいないよ。」

彼女は私以外の人間と、一貫して関わりを持とうとはしなかった。
ドアを開けてくれないのはそのせいだということに思い至った私は、自分の名前と、この場に私しかいないことを告げた。
しかし返事はない。夏である筈なのに寒気すらした。
そうだ、きっと何処かへ出かけているのだ。そうに違いない。此処で待っていればきっと彼女は現れる。
それとも行き違いになってしまったのだろうか。彼女は予定を少し早めて故郷に帰ってしまったのだろうか。
そんなことを思っていると、聞きなれた声が背後で響いた。

「あーあ、どうして戻って来たの。」

私は弾かれたように振り向いた。そこにはいつものように、宙に浮かんだ半透明のKがいる筈だった。
しかし目を擦っても、その身体の向こうにある筈の壁が見えることはない。
他人の空似だろうか。私は奇跡を信じてそんなことを思った。しかし彼女はその期待を裏切り、あまりにも見慣れ過ぎた皮肉めいた笑みを浮かべたのだ。

「…K、なの?」

「他に誰がいるっていうのよ。」

呆れたように両手を掲げて笑った、その左手を私は素早く掴んだ。
その温度は私のものとひどく似ている。まるで生きているようだ。ホグワーツの制服は大昔から変わっていない為、違和感のなさすぎるその姿は私の目を鋭く抉った。
私は鈍い頭を回転させながら何とか結論に辿り着こうとした。

「どうして?」

「あたし達みたいなベテランは、こんなことも出来るのよ。凄いでしょう?」

「そんなことを聞いているんじゃないわ!」

私は彼女の胸倉を掴もうとしたが、その手は宙を空振りした。Kの姿は半透明になり、いつもの見慣れた彼女がそこに現れた。
あたしの力じゃこの程度が限界だけどね。彼女はそう言って、その端正な顔を傾けてドアの方を示す。

「あんたはもう、解っているんでしょう。」

私はどんな顔をしていたのだろう。よく覚えていない。
泣いていたのかもしれない。もしくは薄気味悪く笑っていたのかもしれない。あるいはただ表情の類を削ぎ落としたような、死んだ顔をしていたのかもしれない。
いずれにせよ、私はそのドアを開けた。開けてしまったのだ。

その時間を夢見ていたいなら開けるべきではなかったのだ。全てに気付かない振りをして、直ぐにジョウト地方に帰って、シルバーと姉に謝罪すれば良かったのだ。
彼女の名前を思い出せないことに違和感を抱きながら、いずれは全てを忘れていくことに心を委ねていれば良かったのだ。
しかしそれをKは許さなかった。何より私が納得がいかなかった。
それに、私は信じていたかったのだ。彼女のことを。もう名前も思い出せない彼女のことを。
だから私は、ドアを開けた。

重い扉はとても鈍い音を立てて開いた。真っ黒な空間がそこにあった。私は杖を取り出して「ルーモス。」と光源発生呪文を唱えた。
明るくなったその部屋の空気は澱んでいた。キラキラと舞っているものが埃だと気付くのに時間が掛かった。
壊れた箒や大きく欠けた机が無造作に並べられていた。使われなくなった医務室のベッドが、灰色のシーツを纏ってそこにあった。
その色が本来のものではなく、うず高く積まれた埃によるものだということに私は長い時間を掛けてようやく気付いた。
床を照らせば足跡が確認出来た。その動線はたった今、私が入ったものだけでは明らかに足りなかった。
ベッドに掛けられたシーツにも不自然に白い部分が見えた。それはおそらく私が、

「あ…。」

そうだ、私はこの部屋に幾度となく入ったのではなかったか。
しかし此処ではない。私は宙を漂うKに詰め寄った。

「あの部屋は何所?」

「…。」

「私と彼女が過ごしたあの場所は何所?」

此処ではないのだ。あの部屋はこんなに埃を被ってなどいない。こんなガラクタ置場ではなく、白い壁と白いカーペットが目に眩しい、清楚な部屋だ。
空気のように軽い布団を被って眠ったあのベッドも、彼女が愛用していたコーヒーのポットも、此処にはない。此処ではないのだ。私達の空間は此処ではない。

「あんたはもう少し物解りのいい人間だと思っていたんだけど。」

Kは吐き捨てるように呟いた。その目には明らかな嫌悪の色があった。
彼女は制服から杖を取り出し、私と同じように光源発生呪文を唱えた。ふわふわと宙を泳いで、とある段ボールの上に置かれたものを杖で照らす。
それはあまりにも見慣れ過ぎたものだった。

「Yが、あんたの為にわざわざ買ってきたのよ。」

ピンク色のマグカップは、この埃を被った空間の中で異彩を放っていた。
私は震える手でそれを手に取った。手に馴染むそれは明らかに、私の為に用意してくれたものだった。
それでも私の口は否定の言葉を選んだ。

「『Y』って、誰?」

Kはその言葉に顔をしかめた。それでも私は止められなかった。
言葉を重ね続けないと恐怖に押し潰されてしまいそうだった。これ以上頭を働かせたら、私のなけなしの正気は粉々に砕け散ってしまうような気がしたのだ。

「知らないよ、K。私はそんな人、知らない。
ねえ、彼女は何処?この場所にいる筈なの、此処に戻って来る筈なの。
だって私はずっと彼女といたんだもの。この1年間、ずっと彼女といたのよ?ねえ、そうでしょう、貴方だってずっと見てきたでしょう、私は彼女の友達なのよ。」

「これ以上馬鹿げたことを言うのなら、その口を縫い付けるわよ!」

そのあまりの剣幕に私は瞠目した。それはおおよそ彼女に似合わない表情だった。
Kは明るく照らされた杖を真っ直ぐにこちらへと向けていた。泣き出しそうな顔で一思いに言葉を吐き出したのだ。

「知らないわ、あんたは何も知らない。
Yはお人好しで情に脆くて、怖がりで臆病で、それでいて強情で気丈で頑固で、あんたみたいな人が大嫌いなのよ。
私はYと同じ時代を何十年も見てきたのよ。たった一年、Yにくっ付いていただけのあんたに何が解るっていうのよ!」

それでも彼女の言う「Y」の存在を、私はどうしても認めたくなかったのだ。
だって一人は嫌だ。信じていたのに。

2013.12.13

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