バイカラーではいられない

(ハッフルパフ3年の夢見がちな少女とグリフィンドール6年のクディッチ選手の、極彩色の出会い)
SS企画9-3の拡大版

「ヘレナ、そろそろ食べ終わらないと遅刻するわ」

「いいわよ、どうせゲーチス先生の授業なんて分かりっこないんだもの」

既に朝食を食べ終えている親友は苦笑しつつ席を立つ。私はまだロールパンを食べ終えることができていない。
朝は食欲が湧かないのだ。10時くらいになってやっとお腹が空いてくる。売店に売られているもの全てが美味しそうに見えてくるのもこの頃だ。
8時の私には、テーブルの上に並べられたサンドイッチやロールパンは食品サンプル以下のものにしか見えない。
このテーブルの上にある食べ物が私の心を満たしたことは、あまりない。

「でも遅刻すると寮点を引かれてしまうわ」

「それじゃあ欠席すればいいのよ。私なんか、いてもいなくてもゲーチス先生にとっては同じなんだもの、構わないわ」

「もう……気付かれても私は庇ったりしないからね」

金曜日、ハッフルパフの1限目は魔法薬学だった。今日を終えれば楽しい休日だというのに、その至福の時に立ちはだかる敵が大きすぎる。
あの先生は端から私達に薬学を教えるつもりなどないような、そうした高慢で捻くれた授業しかしないのに、
それでいてこちらが理解しようとしないことが解ると途端に楽しそうな顔になって、10点、10点、また10点と減点の嵐を吹き荒らすのだ。

先生にも所属寮なるものがあるのだから、彼等にも寮点の制度を設ければいいのに、と私なんかは思う。
そうすれば、バーベナと一緒に、10点、10点、また10点とスリザリンの教員点を奪うのに。苦い顔をするゲーチス先生を、笑ってあげることができるのに。
……ああ、でもバーベナはそんなはしたないこと、しないかしら。彼女はいい子だから。私などには勿体ないくらい、美しく眩しい心を持った女性だから。

バーベナはきちんと朝食を食べる。いただきますとごちそうさまを静かに、けれどはっきりとした声音で口にする。
私は小さなロールパンさえ食べることができず、並々と注がれたグレープフルーツジュースもいつも7割方残している。そんな挨拶だって、する方が稀だ。
バーベナは遅刻も欠席もしたことがない。どんなに嫌な授業でも「さあ、行かなくちゃ」と笑顔で授業の用意ができる。そもそも嫌いな授業、などというものがないようにも思える。
私は遅刻をしたことがない科目がない。どんなに楽しい授業だったとしても、席に着きたくないときというのは確実にある。そして私は「さあ、行かなくちゃ」などとは、思えない。

「あ、彼だわ。……それじゃあヘレナ、2限目に会いましょう」

「ええ、行ってらっしゃい」

そんな彼女は最近、王子様を見つけたらしい。たった今、ぱっとその顔を綻ばせて駆け出したのだって、そんな王子様のところへ駆けつけるためだ。
グリフィンドールの5年生だと言っていたその白髪の男性は、けれど分厚い黒のマスクで顔の大半を覆っているせいで、私にはどうにも不気味だ、という風にしか思えなかった。
けれど彼女はそんな相手を指して「笑った顔が素敵なのよ」と紡いでみせた。彼女は既にあのマスクの下の顔を知っているのだと、そんな事実に私の心は少しだけ締め付けられた。

おしとやかな彼女は、けれど王子様を自分で見つけに行った。
お転婆である筈の私は、けれど王子様に見つけられるのを待ってばかりだ。

「……」

白い髪とピンク色の髪がゆらゆらと揺れている。男の人なのに、随分と長い髪だなあと、私はそんなことをぼんやりと思いながら、ロールパンを千切って、千切って、また千切る。
細かくしたところでロールパンを食べていないという事実は揺らがないのだから、その白い小麦の塊はなくなってなどくれやしない。ふわふわとトレイの上に広がるばかりだ。
解っている、解っていた。けれど千切りたかったのだ。どうせ食べたところで私は満たされない。私を満足させてくれるものは、此処にはない。

ならば食べなくてもいいのではないか?そんな悪魔の囁きが聞こえた気がした。そして私はバーベナのように美しくないから、ころん、とその囁きの下へと転がってしまうのだった。
そうよ、出たくない授業に出なくてもいいと、そうした信念をもって私は1限目を欠席するのよ。それと同じことじゃない。
朝食を食べなくたって、何の問題もないわ。私の信念に則ったまでのことよ。このロールパンを、食べないことの方がきっと正しいのよ。

などと言い聞かせつつ私は席を立つ。勿論、魔法薬学の教室には向かわない。そもそもこの鞄の中に、魔法薬学の教科書は端から「入っていない」。
どうせゲーチス先生の授業は理解できない。どうせ教科書は役に立たない。どうせ私は授業を聞かない。それならば、何処にいたってきっと同じこと。

中庭には読書を楽しむ男性や、ポケモンと日向ぼっこをするグリフィンドールの女生徒たちで溢れ返っていた。
ああ、朝食を早めに切り上げると始業までの時間をこんな風に楽しむことができるのだ。
私はこれまで知ることの叶わなかった自由な時間を目の当たりにして、どうしようもなくわくわくした。

私の歩みはこの広い中庭でも迷わない。放課後、バーベナと一緒に本を読むのは、決まって大きな木の下であったのだ。何処に行こうかな、と考える必要などまるでなかった。
パートナーであるゴチムを芝生の上に置いて、お気に入りの本を枕代わりにぽんと敷く。そして仰向けに寝転がり、木漏れ日から差し込む綺麗な光をぼんやりと見つめるのだ。
天然のステンドグラスは私に光の雨を降らせていく。ああ、私も花のように木々のように、お日様をご飯にして生きていける生き物であればよかったのにと、本気で思う。

バーベナは物語に限らずいろんなものを読んだけれど、私は専ら易しい物語を、何度も何度も読み込んで諳んじられるようにするのが好きだった。
同じものを何度も何度も見ていると、まるで別物のように思われることがある。同じ物語を毎日毎日唱えていると、新しい発見を得ることがある。
物語はいつだって極彩色であり、私は本という魔法の虜だった。薬学よりずっと面白い。

目を閉じれば最初の一文が浮かんでくる。もう諳んじることさえできる、お気に入りの童話だ。

……もし私が可愛い青のエプロンドレスを着ていたとして、バーベナが同い年の親友ではなく2つか3つ年上のお姉さんだったとして、
時計を持ったミミロルを追い掛けて穴の中に入ったとして、「私を飲んで」というメモ書きと共にお洒落な小瓶が落ちた先にあったとして。
そうした全ての空想が私を幸せにする。色んな童話の中に私を放り込んで、色んな世界を旅した。私の身体は此処にしか居られないけれど、心は何処にだって行けるのだ。

これら童話の主人公に、私が「私」を重ねていることを、知っているのは私の他には誰もいない。私だけの秘密、私だけの世界だ。杖を振らなくても、魔法はこの中に在るのだ。

葉っぱの擦れる音や、遠くの廊下を駆け抜けるクラスメイトの足音、空から降ってくる鳥ポケモンの羽ばたき、そうした全ての音色に耳をすませる。
傍にやって来たゴチムの頬をそっと撫でれば鈴を鳴らすように可愛く笑った。釣られて私も、笑顔になった。
そうして私は、半分も食べられなかった小さなロールパンのことも、ゲーチス先生の魔法薬学のこともすっかり忘れて、本当にあの世界へと出かけていく。
ゆるく重たく降りていく目蓋を邪魔する人は誰もいなかった。少し風が冷たいけれど、構わなかった。

さく、さくと足音が聞こえてくる。いつも私を起こしに来てくれる親友の気配だと、解っていたから私はもう少しぐずっていたくて閉じた目にぎゅっと力を入れる。
ああでもバーベナ、貴方ってそんなに煩く芝生を踏む人だったかしら。

「ヘレナ、そろそろ起きないと貴方の好きな飼育学が始まってしまうわよ」

肩を揺さぶられては流石に目を開けざるを得ない。私は目を擦りながら起き上がって、大きく伸びをする。
此処で一人、眠ってしまっていたのだろう。惜しいことをした。もう少し起きていて、あの本の中の世界に私を躍らせていたかった。
けれどこんなことは日常茶飯事だ。いつもこうしてバーベナが起こしてくれる。彼女は私の怠惰に関してはとても寛容だけれど、それも1日1コマだけの話だ。
2時間以上の無益な怠慢を彼女は絶対に許さない。解っていた。でも駄々を捏ねていたかったのだ。私は美しくないから、そういうことだってしてしまうのだ。いつものことだ。

けれどそんな「いつも」は、私が体を起こした瞬間、心地良い衣擦れの音と共に肩を滑り落ちたローブによって、あっという間にその色を変えた。

「!」

衝撃、困惑、混乱。それら全てが頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
そのローブが私のものでないことはすぐに解った。サイズが大きすぎるし、ラインが黄色ではなく赤色であったからだ。
これはグリフィンドール生の、おそらくは大柄な人のものだ。けれどどうしてそんな人がローブを、私の肩に?
こんなところで眠る私に近付く人なんか、いないと思っていたのに。私の空想に踏み入った人は今まで一人もいなかったし、これからだって、いない筈だったのに。

私が王子様に見つけられることなど、在り得ない筈だったのに。

「優しい人のおかげで風邪を引かずに済んでよかったわね。今日は少し肌寒いから、貴方がくしゃみをしていないか心配だったの」

混沌とした感情のままにその大きなローブを手に取り、裏返せば、裾のところに小さく名前の刺繍が施されているのを見つけることができた。
金色の糸が紡ぐ名前に、私は覚えがあった。この名前は何処かで見たことがある。でもどんな人であったかは全く思い出せない。顔も、背丈も、声も、全く知らない。
けれど少なくとも言えるのは、この人は大柄な男性であるということだ。私の、会ったことのない人であるということだ。

「返しに行かなきゃいけないわね。私は放課後、用があるから、ヘレナだけで行ってらっしゃい」

「……ええ、そうする……」

同じものを何度も何度も見ていると、まるで別物のように思われることがある。同じ物語を毎日毎日唱えていると、新しい発見を得ることがある。
物語はいつだって極彩色であり、私は本という魔法の虜だった。
けれど、ああ、現実の物語は空想の中のそれよりもずっと突然で、衝撃的で、それでいてとても、とても。

2017.3.14
(ここからガンピさんとヘレナさんのラブストーリーが始まったりそうじゃなかったり)
この二人の組み合わせについては大好きなお姉さんにアイデアを頂きました。すえさん、いつも素敵なツイート、ありがとうございます。

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