A5:A heart attack

ミアレシティにある高級レストラン。閉店後のそこへ遊びに行くことは私の習慣になりつつあった。
そこでズミさんと他愛もない話をしながら、ちょっとしたデザートをご馳走して貰う。洗い物を手伝った後に、夜も更けたミアレの通りを二人で歩く。
3日と開けずに繰り返されるこうした時間を、私は甘受し始めていた。
これはそんな最中に起こった事件である。

「ちょっと待ってください!」

私は大声を上げていた。その大音量に彼も驚いたようで、慌てて私から距離を取った。
しかしそれは一瞬で、見るからに悲しそうな顔をした彼に私は半ばパニックになって弁解の言葉を用意しなければならなかった。

「……シェリー、嫌でしたか」

「ち、違います!  そう、そうじゃなくて……」

ああ、何をやっているのだろう。私は自分の失態にただただ意味をなさない言葉を羅列するしかなかった。もう此処まで来ると自分の不甲斐なさに感心してしまう。
ほかのどんな局面で怯んだとしても、今この瞬間にだけは「待って」などと言ってはいけないことくらい、気付けたはずなのに。

私はまだ、恋人という甘美な魔法から抜け出せずにいた。そしてそれを甘受し続けてもいたのだ。
しかしそうした魔法に甘んじるのならば、然るべき予備知識くらい身に着けておくべきだったのだ。
つまり恋人なのだから「キス」の一つや二つくらいするであろうという、予備知識だ。
……いや違う、そうした知識が無い訳ではなかった。私はそうしたことへの関心を人並みに持っていたし、人を好きになること、愛することへの憧憬は人一倍あった。
それなのに、どうしてこんなにもみっともない真似をしているのだろう。好きな人の、ましてや私を好きになってくれている人からのそれに怯むなんて。

「……ごめんなさい、ズミさん。嫌だった訳じゃないんです。本当です」

ではどうして「ちょっと待って」などと言ってしまったのか。
この人生最大級の失態には訳がある。すなわち私は「キスの種類」を知らなかったのだ。
人を好きになることへの憧れだけは人一倍あったくせに、それから先のことの知識を全く備えていなかったのだ。
唇と唇とを重ねるだけのキスしか存在しないと思っていた私は、そうではなかった彼のキスに驚き、そして、あろうことか恐怖を抱いた。

噛み付かれているみたい。

即座にそんな言葉が脳裏を掠め、気付けば私は彼の肩を押し退けていた。
まさか「そんなキスを知らなかったのでびっくりした」などと言えるはずがない。ましてや「キスなんて想像もしていなかった」だなんて口が裂けても言えない。
私達は恋人だ。故にそういうことが許されるはずだと、きっと彼は思っている。思っているからこそこういう行動に移したのであって、それを私が否定する訳にはいかない。

「すみません、怖がらせてしまったようですね」

彼は本当に悲しそうに笑った。私はどうにかして釈明の言葉を探していたが、結局そのどれもが音として吐き出されることなく、私の脳内で踊り、消えていった。
洗い物に濡れた手をタオルで拭き、訳もなくそれを畳んだり広げたりした。幼児のようなその仕草に益々情けなさを覚えて、私は俯いていた。
怖がらせた、という彼の言葉を否定することはできない。確かに怖かったからだ。そしてある種のショックも受けたのだ。
ああ、慣れている、と。

彼は大人だ。私よりも一回り以上年が離れている。
きっとそれなりに経験も豊富なのだろう。だからあんなキスができるのだ。私はそうしたキスの存在すら知らなかったのに。
過去に嫉妬しようとは思わないが、彼と違ってそうした経験を持たない私があまりにも子供に思えて、恥ずかしくなったのだ。

彼はかつて私に「恋をしたことがない」と言った。その言葉を疑っている訳では勿論ない。
けれど恋をせずとも、誰かに想いを告げられればそれを受け取ることくらいできる。
そのまま、お付き合いめいたことをすることだって、その流れでキスをすることだって、きっとできる。
そういうことだ。そういうことを考えてしまう程に、彼のそれは躊躇いも戸惑いも見せることなくなされたものだから、私は勝手に悲しくなってしまったのだった。

そして私と彼との間に生じていた心理的な隔絶も、私に少しばかりの衝撃を与えていた。
私は彼と手を繋げたことに満足していた。暫くはそれだけで良いと思っていたし、彼との時間を過ごせるだけで満たされていたのだ。その先のことなんて考えもしなかった。
しかし、彼はそうは思わなかったらしい。そのことも私を困惑させていた。
あまり感じたことのなかった年齢差、そして認識と経験の差。それらが生む隔絶を、こんなところで確認させられることになるとは思わなかった。
そうか、彼は大人の男の人なのだと、彼は私とは違うのだと、私は改めて痛感させられたのだった。

そういう訳で、今の、彼から為してくれたキスを拒んだ私がいる。私は勝手に驚き、勝手にショックを受けて、勝手に悲しんでいる。
けれども目の前で彼が眉を下げているものだから、彼らしくない謝罪を重ねているものだから、私はどうにかして、彼に非はないことを使えなければいけなかった。
こんな気持ちを知られるのは恥ずかしいとか、幻滅されるかもしれないとか、そうしたことの全てを捨て置いて、私は言葉を紡ぐ必要があったのだ。
だって、貴方がこんな顔をしている。私が、そうさせてしまっている。

「……前に、私を解りたいって言ってくれましたよね」

「ええ、そうですね」

「私の話を、聞いてくれますか?」

すると彼はその憂えた表情を少しだけ和らげ、僅かに微笑んでくれた。
勿論です、だなんて、私には勿体ない言葉をくれる。私は彼のことを信じ始めていた。この魔法の中で生きていく覚悟を固めつつあった。

「私は子供で、ズミさんと手を繋いだことにとても満足していたんです。だから、その先のことを考えたことがなくて、びっくりしてしまって……」

恥ずかしさのあまり、まともに彼の顔を見られない。私はタオルをきつく握り締めた。

「慣れているなあって思って、自分が情けなくなって、私、本当に子供で……。ごめんなさい」

尻すぼみになった私の言葉を、彼は黙って聞いていた。
調理場の換気扇の音が、閑静なこの空間に淡々と響いていた。沈黙を破ってくれるその音に私は少しだけ感謝しながら、彼の言葉を待った。

「いいえ、私こそ、貴方の気持ちを考えずに先走ったことをしました」

彼は優しい。自尊心が高く、ポリシーに反することを許せない彼は、しかし同じように他人のことも尊重してくれる。
だから私を解りたいと言った彼に私の気持ちを暴露した今、彼はそれを咀嚼していつものように笑ってくれるはずだった。私はどこかでそのように期待していた。
事実、そのように彼はしてくれた。彼にも謝罪をさせてしまうことになると分かっていながら、私を解りたいと言ってくれた彼に甘んじてしまったのだ。

しかし次の瞬間、彼は今までに見たことのないような笑みを浮かべた。

「では今、考えてください」

……「何をですか」と聞き返せる程、私は野暮にはなれなかった。頭の中が益々沸騰していくのが解った。
つまり彼と手を繋ぐという、そうした行為より先のことを、驚きや当惑以外の感情で表せと彼は言っているのだ。
彼らしくないと思った。彼は私に何かを強いたり、何かを急かしたりすることは未だかつてなかったように記憶していたからだ。
しかしそれがどうしようもなく嬉しいと、そう思ってしまう私はおかしいのだろうか。
私はおかしくなってしまったの、と自身にそっと問うてみたけれど、私は答えてくれなかった。魔法に掛けられている人間に正常な思考などできるはずもなかったのかもしれない。
そして私は、魔法に掛けられた私のことが嫌いではない。

「嫌ではないし、貴方と、そういうことができて嬉しいと思います。……私が驚かずに済むように、キスってどんな風にするものなのか、少しずつ、教えてください」

彼は本当に安心したように微笑んで頷いた。けれども先程のそれをもう一度繰り返すつもりはないようだった。
きっと「びっくりした」と言った私に気を遣っているのだろう。彼らしいその優しさを嬉しいと思いながらも、私は背の高い彼の首に手を伸ばした。

彼が私のしようとしていることを察して、驚いた表情のままに軽く背を曲げて、私の目の前に顔を持ってきてくれて。
……という一連の現象を、私は「奇跡」以外のどんな言葉で表せばよかったのだろう。
だからこそこの一瞬ですべきことを見誤る訳にはいかなかったのだけれど、やはり私は私のまま、子供っぽい、ただ触れるだけのキスをすることしかできなかった。

ごめんなさいと、早速謝罪の言葉を紡ごうとした。そうすれば私自身が安心できる気がしたのだ。
けれどもその、私の安心させるための私の言葉を、彼の真っ赤になった頬が奪い取っていったので、
私は驚いたように困ったように笑いながら、やはり同じように顔を染めて笑うほかになかったのだ。

2014.2.13(2019.2.17 修正)
(心臓発作)

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