冥界の秤が傾くまで

知らない旋律だった。彼女らしくない、あまりにも覚束ない音運びだったものだから、あたしは少しだけ驚いた。
新しい曲でも作ろうとしているのかしら。……いや、それならば楽譜と共にペンを傍へと置くはずだ。
もしかしたら、誰かに曲を紹介されて、それを聞くだけでは飽き足らず、自分で弾こうとしているのかもしれない。
あたしは花の水を替えようとしていたことなどすっかり忘れて、その知らない音の出所を探ることに執心していた。

あの彼女を苦戦させるなんて、余程難しい曲なのだろう。
その「超絶技巧」と称すべき難題を母へと紹介してきたところに、あたしは彼女の実力に寄せられた信頼を見て、嬉しくなった。
彼女がその難題を解く瞬間をこの耳で聞き届けてみたいと思い、あたしはもうしばらく、この空間にとどまることを選んだ。
一輪挿しの置かれた小さなテーブルの脇に腰を下ろし、防音工事の施された白い壁へと凭れかかるようにして楽な姿勢を取った。
目を閉じて、彼女のぎこちない音が、徐々に確かなステップを刻み始める様子を、狭い小部屋の中で静かにただ聞いていた。

高音の細かい指の動きは彼女の十八番だ。キラキラと星が瞬くように奏でられるそれは私に、様々なものを想起させる。
たとえば、強い風の吹く日に4番道路へ出かけると、満開に咲いた花の赤や黄色が空へと舞い上がることがある。
この、高く小さく軽やかな音は、あの花びらに似ているようにも思う。
またたとえばこの前、お姉ちゃんとエンジュシティに出掛けた時に、丸い棘がたくさん付いた、不思議な形の硬いお菓子を食べた。
金平糖、と呼ばれるそれを全て食べきってしまったときの、袋の中に残っている小さな砂糖の欠片。あれにも少し、似ていると思う。

そうした、ささやかに鮮やかな美しい高音を飲み込むかのような、灼熱の地を這うが如き低音が、
彼女の左手によりひっきりなしに紡がれ続けているものだから、あたしは、そちらについても耳を傾けざるを得ない。
彼女はできるだけ柔らかく、優しく、その低音を花びらや金平糖のあたたかい受け皿にしようと努めて弾いているようだった。
けれども低い音というものの特質が故に、あたしにはどうしても、そのゆっくりと緩慢に這うものが恐ろしく聞こえた。
灼熱の窯。きっとそこに落とされた彼女のトリルは、その細い指によって紡ぎ出された花びらや金平糖は、
呆気なく燃えて、砕けて、溶けて、なくなってしまうに違いないと思われたのだ。

最初こそ、その覚束なさに驚いたものだけれど、しばらくすればもう、彼女の指はいつもの調子を取り戻していた。
力強く叩く。遊ぶように叩く。わざと音を儚くしてみせる。
薄く目を開けて、すっかりその新しい曲と同化してしまった彼女を盗み見る。
彼女の細い体はまるで昔を思い出させるように揺れている。あたしを不安にさせる揺れ方で、そこに在る。

妖精と遊ぶように、ささやかに鮮やかなお菓子や花を空へと散らすように、高音は踊る。
灼熱を這うように、そこに放り込まれた何もかもを失わせるように、低音は穿つ。
その中央にいる彼女は、全ての音を指先に抱え込む一人の少女は、あまりにも美しい何かを奏でている。

死んでしまいたくなる程に美しい、何かを。

「貴方はまた誘いに乗ってしまうの?」

「いいえ、違うわ」

自らの口からそのような、あの頃を思い出させる言葉が出てきたことに驚き、
そしてピアノを弾くことに夢中になっていたはずの彼女が、聞き手であるあたしの言葉に間髪入れず返答したことに、更に驚いた。
あたしの動揺を許すように柔らかく笑うこの女性は、「あら、そんな顔をして」と困ったように笑う彼女は、もう「少女」の姿をしてはいなかった。
あたしの不安を煽ったあの姿はもう何処にもなかった。

「今のわたし……命を謳歌するようになったわたしにこの曲を紹介したいと、そう言ってくださった方がいるの。
思っていたよりもずっと難しい楽譜だったけれど、とても楽しかったわ。なんだか、命の天秤に触れさせてもらっているみたいだった」

「命の天秤?」

「ええ、死ぬことって、やっぱり全てに避けられずやってくるものなんだわ。すべからく公平に、平等に迎え入れられるべきなの。
まだわたし達の順番は来ていない。だからもう少し、……いいえ、許されるときまでずっと、一緒にいましょうね」

今はこうして、時折少し、ほんの少しだけ憧れているくらいが丁度いいのだと、そうしたことをこの女性はすっかり分かっている。
あなたはわたしより先に行っては駄目よと笑う彼女には、正しく時が流れている。彼女はもう、分かっている。
大きく息を吸い込んだ。一瞬だけ、止めた。真似をするように彼女も息を止めてしまい、それがおかしくて息を吐くついでに笑った。

「なんだか悔しいわ。まるでその人の方が、あたしよりもずっとお母さんのことを分かっているみたいじゃないの」

参考曲:リスト「死の舞踏」

© 2024 雨袱紗