土壁は溶ける

※ED後(少しばかり歪んだ描写を含みますのでご注意ください)

「ポケマメってすごく美味しいんだよ。私、マラサダよりもこっちが好きなんだ。一番のお気に入りはオレンジ色の柄付きポケマメなの。一つあげるから、一緒に食べようよ」

少年よりも少しばかり年下の少女は、まるで彼の妹にでもなったかのように、ひょこひょこと彼の後ろを付いて回っていた。
彼が走れば少女も走り、彼が止まれば同じく足を止める。饒舌の過ぎる彼女は、ひっきりなしに他愛のない話題を湯水のように提供し続ける。
少年がその全てに対して愛想のない返事しかしなかったとしても、彼女の言葉は止まないし、彼女の笑顔は曇らない。それが少年には少しばかり、恐ろしい。

常にぴたりと傍にくっ付いてる少女と、それにうんざりしているグラジオを見て、何も知らないエーテル財団の職員は「仲がいいなあ」とはやし立てる。
冗談じゃないと少年は思った。そんな低俗な言葉でオレとこいつを括らないでほしいと思った。
そうした憤りの念を込めて職員を睨み付けたところで、自分の目つきが悪いのはいつものことであるから、思うように少年の憤りは伝わらない。難しい。

彼は確かにこの、自分よりも年下でありながら凄まじいポケモンバトルの実力を持ち、度胸が据わっているが故にどんなところにも臆さず飛び込んでいくその姿を、尊敬していた。
少年にないものを確かに持っているこの子供に、一目置いていた。彼女の実力と度胸、そして勇気は彼の目標であり、そしていつか超えねばならない大きな壁であった。
そして壁は、這い上がるものだ。寄り添ってベタベタと慣れ合うものではない。
だからこそ、超えるべき壁であるこの少女が、まるで兄を慕うかのように自らの後ろを付いて歩き、ひっきりなしに言葉を紡ぐというこの状況は、彼を酷く混乱させた。
ふざけるな、と憤りたくなるに十分な不自然さを孕んでいたのだ。

壁は、いつもいつでも相応の度胸をもって、どっしりと構えていなければいけないのではなかったか。
伝説のポケモンを携えたリーグチャンピオン、そうした唯一無二の存在である筈のお前がそんな風に、オレのような人間に媚びを売ることなど、許されないのではなかったか。
それともこの少女の矜持は、その程度だったというのだろうか。

「煩いぞ、ミヅキ。静かにしてくれ。代表が残していった仕事の処理に追われているんだ。お前と仲良しごっこをしている暇なんか全くない」

「じゃあ私も手伝う!力仕事を任せてくれれば二人分働けるよ、何かない?」

追い払おうとしても、このように食い下がられてしまう。グラジオはうんざりしていた。
それでも「いい加減にしろ」と怒鳴れなかったのは、彼が一度もこの少女に勝てたことがないからだ。
イニシアティブは完全にこの年下の少女の側にあり、彼は現状、この超えるべき壁の愚行を、ただやんわりと咎めることしかできずにいるのだ。

「お前はリーグチャンピオンだろう?チャンピオンはチャンピオンらしく、あの寒い山の頂上を守っていればいい。
オレはオレの守るべき場所で、オレのやるべきことをやっている。同じことだろう?」

諭すようにそう言い聞かせるグラジオの眼前に、少女は鞄から取り出した奇妙な模様のビーンズを「はい!」と突き出してニコリと笑った。
この、恐ろしく強くて恐ろしく度胸の据わった、愚鈍で強情な少女には、何を言っても無駄なのだ。そんなことは解っている。
この少女を説き伏せる唯一の手段が、この少女を超えることであることもよくよく解っている。
だから今は、この黄色い柄付きのビーンズを受け取る以外に為す術がない。残念なことに、そうするしかない。

この煩い少女が彼の前からぴたりとその姿を消せば、自分がいよいよ寂しくなるだろうということだって解っている。
解っているから彼は怒鳴れない。イニシアティブは完全に少女の側にあった。どうすることもできなかった。

彼女は「そうだよね、私はあそこにいるべきなんだよね。解っているよ」と歌うように告げてから、「でもね」と少しばかり拗ねたように続きを語る。

「あの場所に来る人たちは皆、いい人ばかりなんだよ?優しくて親切で、誰もキラキラしていないんだよ」

「は?キラキラ?」

「だから君しかいないんだ。あのキラキラした人達は、皆、物語の舞台から下りちゃったんだもの。つまらない。
でも君は違う、君はこのアローラからいなくならなかった!私、とても嬉しいんだ。だから君と仲良くなりたいの。君しかいないの、グラジオ」

雷に打たれたような衝撃だった。
君しかいないの、という彼女の最後の言葉が、少年の母の優しい声音に重なった。歪んだ愛され方をしたこの少年は、そうした歪みに悉く敏感であった。

この、妹と同じ年頃の、無垢で無邪気で、世間の如何をも知らないような少女は、その実、とても残酷で冷徹なのだと知った。
彼女は、彼女にとって価値のあるものだけを傍に置きたいのだ。キラキラしていないと「つまらない」のだ。
グラジオは「つまらなくない」から、この少女にとって、他の人間は皆、輝きを宿さない、取るに足らない存在であるから、……だから彼女はグラジオの傍を歩くのだ。
この少女が常軌を逸した懐きようを彼に対して示していたのは、そういうことだったのだ。

「あの場所で挑戦者を待っていても、リーリエやルザミーネさんやグズマさんは来てくれない。キラキラした宝石みたいな人は皆、遠くへ行っちゃった。
だから私、あのリーグにずっといても輝けないの。あの舞台はキラキラしていないんだもの。なんだか、ひどく寂しいんだもの」

まるで自らの母を思わせるようなその行動理念に、少年はぐらぐらと激しい眩暈を覚えた。
けれど今の少年に、自らを慕うこの少女の目を覚まさせてやる術はない。
彼にはこの少女を打ち負かすだけの力も、彼女に飽きて捨てられて、また一人になってしまうかもしれないというリスクを背負うだけの度胸もない。

……この、伝説のポケモンを携えた、恐ろしく強い力を持った少女が恐ろしかった。
それでいてひどく知性に欠け、無礼かつ無作法な振る舞いを絶やさず、遠慮を知らないこの子供が、ひどく哀れで、悲しかった。
こんな歪な少女が、このアローラ地方の頂点に立っているという事実が、どうしようもなくおかしいものに思われてならなかった。

けれどもしかしたら、それが真理であるのかもしれなかった。並の良識を持った人間では、大きな場所の頂点になど立てないのかもしれなかった。
カントーへ療養に向かった彼の母や、一度は彼を用心棒として雇った組織のボスや、……そしてこの少女でさえも、悉く歪で、危なっかしい。彼等は皆、おかしい。

「不味かったら吐き出すからな」

だからこそグラジオは、少女の小さな手から乱暴に豆を受け取る必要があったのだ。
許されないことをしたルザミーネを見限ることができず、不器用で歪なグズマの元を去ることもできなかった彼が、
この、彼女よりも彼よりもずっと危なっかしいこの少女に目をかけたとして、それはしかし当然のことだったのだ。
彼にはそうした気質があった。彼もまた少女に似ていたからだ。彼が目をかける対象というのは悉く世間の標準から外れた、歪んだ存在ばかりであったからだ。
彼の最愛のパートナーも、彼の生みの親も、彼を雇った組織のボスも、そして少女も、それぞれがそれぞれの歪みを呈していて、だからこそ彼はそうした存在の傍を選んだのだ。
それこそがこの少年が少年たる所以であったのだから、どうしようもなかった。

彼女はぱっとその顔に花を咲かせ、「大丈夫だよ、絶対に美味しいから!」と、胸を張って太鼓判を押した。彼は顔をしかめつつ、豆に少しだけ歯を立ててみた。
まるで角砂糖を齧っているような甘さがおかしくて彼は笑い始めた。よくもとんでもないものを食わせてくれたなと、軽く彼女を憎む準備さえ始めていた。それでよかった。

「ね、美味しいでしょう?」

けれど至極真面目な期待の色をその目に宿して、彼女は少年の反応を心待ちにしていたから、
成る程どうやら彼女は本気でこの、砂糖菓子のような豆を美味しいと思っているのだと気付き、さてどうしたものかと苦笑しながら首を捻った。

こんな奴が超えるべき壁だなんて笑わせる、と思った。それでよかった。どうせ少年はこれから益々強くなって、いつか必ずこの少女を超えるのだ。
彼女の突き抜けた、純な歪みを指摘するのはそれからでも遅くない。
この、強くて度胸の据わっていて、それでいてひどく偏った愛着を持つ、寂しがり屋のこの少女が、道を踏み外さないように隣で警戒しているのも、案外、悪くないかもしれない。
いつか、彼女の純な歪みが正しい形を取ればいい。取れなかったなら、その時は自分が止めればいい。
そのための力を付けるための猶予は、他でもない、この少年を慕う彼女自身が与えてくれる。

「ふふ、グラジオもそんな風に笑うんだね。嬉しいなあ」

いつも冷たい表情しか映してこなかった少年の、困ったような呆れたようなその笑顔だって、きっと悉く歪んでいたのだ。

願掛けをしてみようか、と少年は思った。自分の笑みがぎこちないものでなくなるのと、彼女の順な歪みが正しい形になるのと、果たして、どちらが早いだろうかと考えたのだ。
そして暫く悩んでから、「全く同じであればいい」などと思ってしまったのだ。

この知性に欠ける少女のおかげで少年が自然な笑みを浮かべられるようになるまでの時間。少年の気苦労のおかげで少女が危ういながらも正しい形を取るまでの時間。
その瞬間が全く同時期に訪れればいいと思った。もし自分の方が早かったとして、彼女の「その時」が訪れるまで待てばいいだけの話だ。

「ああ、そうだとも、お前のせいでオレは生温い感情ばかり覚えていくんだ」

「あれ、そうなの?変だなあ。私はグラジオと出会ってから、楽しいことばかり増えていくんだけどなあ」

待つことはその実、彼にとって苦ではない。
おかしいね、と首を捻るこの饒舌な少女のおかげで、きっと待っている間も退屈しないだろうから。退屈な時間は、彼女の他愛もない話が埋めてくれるだろうから。
……折角だから一度、ポケモンリーグへ向かってみようか。そうすれば彼女の「ポケモンリーグチャンピオンとしての時間」も、少しばかり楽しいものになるかもしれないから。

2016.12.1

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