8月4日、ラジオ体操を終えたあなたが急ぎ足でカフェへの道を駆けていると、暑さにうんざりしたような顔で道を歩いてくるランスと出会いました。
あなたが元気よく「おはようございます!」と挨拶をすれば、彼は額に汗を滲ませながら、弱々しく「おはようございます……」と返してくれました。
「ランス先生は夏、苦手なんですか?」
「いや、そうでもなかった筈なのですが、今日は特に暑いので流石に参ってしまいましたよ。早朝から30℃を超えるなんて、いつから日本は灼熱の国になってしまったのでしょうね」
するとランスの前にずいと飛び出した、大きなコウモリのようなポケモンが、その立派な翼をやや乱暴に羽ばたかせて、あなたとランスに強い風を送ってくれました。
あなたは驚いて声を上げましたが、ランスはそのポケモンに優しく微笑み、
「こら、そんなに激しく仰ぐとお前が暑くなってしまうでしょう」と、彼を気遣うようにやわらかく窘めるのでした。
何処をどう見ても、彼に「冷酷」なところを見つけることができず、あなたはおかしくなってクスクスと笑いました。
「冷酷先生が冷酷なのは、算数の問題くらいですね」
「……おや、私の自作した算数の問題集を見たのですか?」
「はい、難しい問題ばかりで、びっくりしました。私はきっと、殆ど解けないと思います」
ランスは得意気に「そうでしょう?」と笑いながら、ポケモンを連れてカフェへと入っていきました。
お姉ちゃんはランスを歓迎しつつ、棚からポケモンフーズを取り出して可愛らしいお皿に盛り付けていました。
コーヒーでいいですか?いえ、今日は甘いものが飲みたい気分なので。それじゃあ苺のシェイクにしましょうか。いいですね、それをお願いします。
そうした遣り取りの後で、彼女は大きな冷凍庫からシェイクの材料となるべきものを次々に取り出し始めました。
「冷酷先生が朝早くに来るなんて珍しいですね。何か用事があったんですか?」
「ああ、そうでした。マスターの姪っ子にこれを渡そうと思いまして」
そう告げて、ランスはあなたに紙袋を差し出しました。
あなたがそれを受け取り中を覗けば、そこには見覚えのあるラムネの瓶が4本入っていて、あなたは思わず笑顔になって、わあと歓声を上げてしまったのでした。
「今日もヒビキのところへ行くのでしょう?あの子達と一緒に飲みなさい」
やはり「冷酷先生」はちっとも冷酷じゃないなあ、とあなたは思いながら、とびきり大きな声で「ありがとうございます!」と告げました。
いえいえ構いませんよ、と笑いながら、ランスはカウンターに置かれたピンク色のシェイクを手に取りました。
やや太いストローで一気に三分の一ほどを吸い上げた彼は、おそらく冷たさに頭を痛めたのでしょう。神妙な顔をして、深く俯いてしまいました。
お姉ちゃんは笑いながら「セラも飲む?」と尋ねてくれました。
そしてあなたが「飲む!」と答えることを解っていたかのように、既にその手には小さな苺シェイクのグラスが握られているのでした。
「冷酷先生の真似をしちゃ駄目よ」
と、彼女はカウンターへと身を乗り出して、あなたに囁くような小さな声音でそう告げたのですが、
隣で深く俯いたランスがその姿勢のまま、「聞こえていますよ」と唸るような低い声でぴしゃりと言い放ったので、あなたは思わず彼女と顔を見合わせて笑ってしまいました。
ランスは残りのシェイクを少しずつ飲み、ゴルバットがポケモンフーズを食べ終えるのを待ってから、あなたにこう告げて、カフェを出ていきました。
「この町には貴方にとって楽しいことが沢山あるでしょう。貴方が色んなものに目移りしたとして、そのことで貴方を責めるのはどう考えても間違っている。それは解っています。
けれどもどうか、ヒビキのことを忘れないでやってくれませんか。彼は貴方がこの町に来てからとても、……ええ、とても楽しそうにしているんですよ」
*
「ランス先生?うん、毎日会っているよ」
ヒビキは彼のことを「冷酷先生」とは呼ばないのだ、と思いながら、あなたは彼の説明を聞いていました。
お昼にこの家でそうめんを食べ終えたあなたは、ヒビキと一緒に片付けをしていました。あなたがお皿を洗い、ヒビキが食器拭きで食器の水気を綺麗に拭き取りました。
キッチンに二人で並び、あなたとヒビキはそうした、他愛ない会話をしていたのでした。
「僕はいつも家の庭でラジオ体操をするんだけど、ランス先生はラジオを持って、毎朝、僕の家まで来てくれるんだ。スタンプも毎日、押してもらっているんだよ。
たった一人のラジオ体操のために、毎朝早起きしてこんな森の中にまで来るなんて、変わっているよね」
まったくもって冷酷ではない、とあなたは思いながら、「そうだね」と頷いて笑い、ヒビキにコップを渡しました。
少なくとも、あなたの暮らしていた街の小学校では考えられないようなことでした。
……そもそもあなたはこれまでの夏休み、ラジオ体操というものを7月の間しかしたことがなかったのです。
夏休みの間、ずっとラジオ体操がある、という生活は、あなたにとってこの上なく珍しいもので、
けれども毎日、学校に通っているように皆と顔を合わせることができるのは、とても嬉しいことだとあなたは思っていました。
「セラちゃんはお手伝いができて偉いわね。うちの子供達は洗い物をしてくれないから、とても助かっているのよ」
ヒビキやコトネのお母さんが、ソファに腰掛け洗濯物を畳みながらそう告げました。
学業面でもスポーツ面でも優秀でありそうなコトネが、手伝いを渋っているという事実にあなたは少しだけ驚きました。
「あれ、もしかして、私が叱られているの?シルバーだって洗い物、しないでしょう?」
「俺は洗い物こそしないが料理は手伝っている。今日の錦糸卵だって俺が作ったんだ。お前はチコリータと遊んでいただけじゃないか」
シルバーが得意気に笑いながらそう告げました。
あなたの母が作れなかった錦糸卵を、お姉ちゃんと遜色ないくらいに作ることができるのですから、シルバーの料理の腕前は相当なものなのでしょう。
コトネはというと、そもそもキッチンに立つことがあまり好きではないようでした。
立派なお菓子作りの本を殆ど使わないままにヒビキへと譲ってしまったところからも、察することができる嗜好でした。
あなたが「錦糸卵が作れるなんて凄いね」とシルバーを褒めると、彼はコトネに見せていた得意気な表情から一転して、
照れたような焦ったような複雑な顔になり、「……カフェのマスターに教えてもらったんだ」と、小さな声で告げました。
彼女はどうやら頻繁に、子供達に料理を振る舞ったり、またその料理の仕方を教えたりといったことを行っているようでした。
あなたが洗い物を終え、ヒビキが食器を拭き終えたのと同時に、コトネがテーブルからすっと立ち上がり、冷蔵庫へとスキップで駆け寄りました。
デザートに皆で飲もうよ、と告げて取り出したのは、あなたが今日、ランスから預かってきた4本のラムネでした。
よく冷えたラムネを、コトネとシルバーが2本ずつ持って外へと駆けていきます。チコリータとヒノアラシも二人の背中に続きました。
あなたとヒビキがゆっくりとした足取りで外へ向かおうとすると、ヒビキの母が「セラちゃん」とあなたを呼び止めました。
「シルバーくんは人見知りなところがあるの。コトネやヒビキに向けるような言葉を、まだ恥ずかしくて貴方には向けられずにいるんだと思うわ。
でもそのうち、貴方にも同じような調子で接するようになると思うから、それまで少し、待ってあげて」
まるでシルバーが自らの、本当の子供であるかのような言い方に、あなたはとても驚きましたが、その驚きをなるべく顔に出さないようにと努めて、はいと大きく頷きました。
コトネがあなたを呼ぶ声が外から聞こえてきて、あなたは慌てて走り出しました。イーブイも高い声で鳴いてから、あなたの後ろへと続きました。
時刻は昼過ぎ、一日の中で最も暑い時間帯でしたが、この家の周りには大きな木が沢山生えているため、涼む場所には事欠きませんでした。
一際大きな木には朝顔の蔓が絡みついていて、もうすぐ咲くと思われる蕾が、その中に宿した赤や青の色をほんの少しだけ、覗かせていました。
シルバーは既にその木の下でラムネを開けていて、先にヒノアラシへと飲ませていました。
コトネはあなたとヒビキにラムネを手渡してから、何を思ったのか自らのラムネを勢いよく振りました。
「おい、コトネやめろ、待て、それをこっちに向けるな、」
「ほらほら、皆逃げないと泡を被っちゃうよー!」
炭酸の強い飲み物を、開封前に勢いよく振ってしまえばどうなるのか、などということは、この場にいる誰もが知っていました。
チコリータもヒノアラシもマリルも、さっとコトネの手元から距離を取りました。
唯一、何も分かっていないイーブイが、興味を示したようにコトネの方へと笑顔で駆け寄ったので、
あなたは「危ない!」と声を上げつつ、イーブイを抱き上げるために近寄ってしまいました。
……それが、よくなかったのでしょう。
パン!と、運動会のピストルを鳴らしたような大きな音が聞こえて、ラムネの中身が盛大に吹き出されました。
けれども小さなイーブイがそれを被ることはなく、そのラムネの泡は、イーブイを抱き上げるために駆け寄った、あなたにだけ盛大にかかってしまったのでした。
わ、と驚いて尻餅をついたあなたでしたが、周りからどっと笑い声が起こったのを知ると、にわかに怒りが湧いてきました。
折角、先生に貰ったラムネなのに、こんな風に無駄にしてしまうなんて!
そうした旨の抗議を行おうとしましたが、泡の一部を吸い込んでしまったらしく、鼻と喉に強い痛みを感じて咳き込みました。プールで水を吸い込んだ時に起こる、あの現象でした。
瞬間、コトネもシルバーもヒビキも笑うことをぴたりと止めました。チコリータもヒノアラシもマリルも、途端に沈黙してしまいました。
あなたが涙目になりながら顔を上げて、今度こそ抗議の声を上げようとコトネを見据えて、そして。
「……」
泣きそうに顔を歪めた彼女と、目を合わせることになってしまったのでした。
2017.9.8