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エアコンの効いたマンションの一室で、あなたは荷物をまとめていました。
大きなリュックサックに、お気に入りの服や帽子、日記帳や筆記用具といったものを、ぎゅうぎゅうに詰め込むことになるでしょう。
試しにそれを抱えてみると、ずっしりとした重さがあなたの両腕を痺れさせました。
少し減らさなければいけない、と思ったのですが、厳選に厳選を重ねた荷物の中から、このマンションに置いていけるものなど、もう何も残されていませんでした。

今日は7月31日。あなたはこれから住み慣れたこのマンションを出て、遠くの田舎町で暮らすことになります。
町の名前は「更紗町」。あなたはその名前のことを知っていました。
いいえ、あなたに限らず、おそらく日本に住む子供なら誰もが、その町のことを知っているのではないでしょうか。

「ポケモンと共に暮らす町」

皆は更紗町のことをそう呼びます。人とポケモンが共に暮らすという文化が、その田舎町には根付いている、というのです。
ポケットモンスター、縮めてポケモン。絵本や映画の中にしかその存在を見たことがなかったあなたは、ポケモンに強い憧れを抱いていました。
ポケモンと共に暮らすことを夢見ていた時期だって、確かにありました。
けれども近頃のあなたはポケモンというものに関して、少し「疑い」をかけ始めていたところでした。

ポケモンなんて本当にいるのかしら?更紗町なんてところ、本当にあるのかしら?
あの不思議な生き物たちは、人間の創り上げた夢の中の存在に過ぎないのではないかしら?

あなたはもう、テレビの向こうで微笑むサンタクロースに手紙を書いたりしません。あなたはもう、箒に跨って空を飛ぶ真似事をして遊んだりしません。
あなたは小学6年生です。来年から中学生になるあなたは、もう「夢を見ること」を忘れかけていました。
そんなあなたの前に「更紗町」と「ポケモン」という単語が再び現れました。夢の軽さではなく現実の確かな質量をもって、あなたの前に「更紗町行き」の切符が差し出されたのです。

「お父さんの海外出張が決まったの。お母さんは付いていくつもりだけれど、セラはどうしたい?」

「海外?私、英語なんてちっとも話せない。そんなところで暮らせないよ」

事の始まりは1か月前に遡ります。
あなたの父親が「海外出張」をするという知らせを、あなたは母親から聞き知るに至りました。
父親の働く職場では定期的に異動があり、あなたの家族はその度に、日本のあちこちへと引っ越していきました。
仲良くなった友達と別れること、数年に1回の頻度で住む土地が変わること。それらはあなたにとってもう「慣れたこと」でした。
そういった環境にいたあなたは、……それはあなたも自覚していなかったことなのですが、普通よりも新しいことに対する「恐れ」を抱きにくい性質を持っていたようです。

あなたは普通より少し、勇敢でした。

そんな勇敢なあなたでも、言葉の通じない土地に赴くことにはかなりの抵抗がありました。
知らない子に臆さず話しかけること、私も混ぜてと口にすること、それらはあなたにとって特別恐ろしいことではありません。
あなたはそう口にすることで、慣れない土地でも新しく友達を作ることができていたのです。
けれどもあなたは英語を喋ることができません。「何をしているの?」「私も混ぜて」と、あなたは相手に伝わる言語で口にすることができないのです。
あなたの「勇敢」は、しかし言葉の通じない土地では何の役にも立ちそうにありませんでした。恐れたあなたは大きく首を振り、両親に付いていくことを拒みました。

あなたの母親も、あなたのその返事を予想していたのでしょう。
彼女は困ったように笑いながら、そうよね、と相槌を打ちつつ、ポケットから1枚の写真を撮り出して、あなたに差し出しました。

そこにはあなたの知らない町が映っていました。
のどかな田園風景、アスファルトの隙間から顔を出した草花、暴力的なまでに鮮やかな山と空……。
都会に住んでいるあなたには馴染みのない景色でしたが、この写真が海外ではなく、日本のものであるということくらいは察しが付きました。
此処は何処なの、とあなたが尋ねるより先に、あなたの母親は答えを教えてくれました。

「更紗町よ。私の遠い親戚がそこに住んでいるの」

「!」

「夏休みの間、この町で暮らしてみない?彼女はきっとあなたを歓迎してくれると思うわ」

あなたはとても驚きました。
大人であり、もう夢を見ることなど忘れてしまっているかのような母親の口から、まるで夢を見ているかのような単語が、ぽん、と飛び出してきたのですから。

「更紗町って、あの更紗町?ポケモンと人とが一緒に暮らしているっていう、あの?」

「そうよ」

「更紗町って、本当にあったんだ……」

驚きを隠すことなくそう口にしたあなたに、母親はクスクスと肩を揺らしつつ笑いました。
行ってみたい?と尋ねずとも、あなたが更紗町に行きたがっていることなど、彼女には既に解っているようでした。

「お父さんの出張は1か月で終わるから、あなたも8月の暮れには帰っていらっしゃい。
少し寂しいけれど、……もうあなたも来年には中学生だもの。どこでどんな風に暮らしたいか、そろそろ自分で考えなきゃね」

あなたの両親は、親の仕事の都合であなたに何度も「引っ越し」「転校」を強いていたことを、後ろめたく思っているようでした。
けれども流石に小学生のうちから、親戚の家にあなたを預けることはできませんでした。
あなたのことが心配でしたし、何より両親はあなたを愛していたからです。大好きなあなたと、一緒に暮らしていたかったからです。
けれどもその愛情が故に、あなたが同年代の親しい友達を作れずにいるという現状を、そろそろ変えなければいけないと彼等は考えていました。

その候補地として、両親は遠縁の親戚が住む田舎町を選びました。
奇しくもそこは、あなたが忘れかけていた、小さい頃に幾度も夢見た場所、更紗町だったのです。

「私、行きたい!」

上擦った声であなたはそう告げました。
あなたの母親は大きく頷いて、あなたの頭をそっと撫でました。

1か月は、あっという間に過ぎていきました。
夏休みに入るや否や、あなたは夏休みの宿題に取り掛かりました。計算ドリルや読書感想文の類を、7月中に全て終わらせようという気概だったのです。
あなたは飛び抜けて優秀な成績である、という訳ではありませんでしたが、宿題を自力で終わらせることができる程度には、あなたは学校の授業を真面目に受けていました。
そうした具合に熱心に取り組んだおかげで、7月30日の夜には、自由研究と日記以外の宿題が全て終わってしまっている、という状態でした。

あなたの頑張りように、あなたの両親はとても驚きましたが、あなたをそこまで奮い立たせたものの正体を勘付いていたのでしょう。
嬉しそうに笑って「頑張ったわね、これで向こうではいっぱい遊べるわよ」と、あなたの心を読んだようにそう告げたのでした。

あなたの両親が乗る飛行機も、今日の昼過ぎに空港を出るようでした。
マンションを出て、バスに乗り、大きな駅へとやってきたあなたと両親は、そのホームで別れることとなりました。

「きっと素敵な夏になるわ。沢山遊んでいらっしゃい」

あなたの母親はそう言って、あなたを抱き締めてくれました。石鹸の香りのする母親の髪が、あなたの首筋をふわりとくすぐりました。
あなたの父親は笑顔であなたを抱き上げて、少しヒゲの生えた顔で頬擦りをしました。嫌がるあなたを下ろした彼は、ふいにさっと背中を向けて、

「あまり、危ないことをするんじゃないぞ」

と、弱く震える声でそう告げました。

二人を乗せた電車がホームを発車して、その最後尾がビルの景色の中に消えるまで手を振ってから、あなたは父親に貰った切符の束をぎゅっと握り締めました。
電車の消え去った線路の上には、夏の名物である陽炎がゆらゆらと揺れていました。
それはまるで、先程の父親の声のようでした。あなたの心のようでした。期待と不安に揺れる陽炎は、あなたを夢の町へと招こうとしていました。

あなたの夏休みが、始まります。

2017.7.30

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