◇
目を覚ますと少女がいなかった。ただそれだけのことにフラダリは戦慄した。
自らの背をさっと滑り落ちる冷たいものの正体を勘繰る暇などなかった。ベッドから飛び降り、乱暴にドアを開けて廊下へと飛び出した。
けれど階段へと足を掛け、2段飛ばしで下りようとしたところで彼の足はぴたりと止まった。
「……おはようございます、フラダリさん」
探していた少女が、階段の踊り場に佇んでいるのを見つけたからである。
彼はひどく、どうしようもなく安堵し、膝から徐に崩れ落ちた。これに驚いたのは少女の方で、「どうしたんですか?」と慌てて階段を駆け上がってきた。
こちらに伸びた腕を強く掴めば、益々、彼女は不安そうにその眉をくたりと下げて困惑の色を示した。
「……あの、」
「君がいなくなったかと思った」
遮るようにそう吐き出せば、か細い息のひゅうと震える音が聞こえた。
どれくらいの力でこの腕を握ればいいのだろう。どれくらい力を込めればこの腕は折れてしまうのだろう。よく、解らなかった。上手く頭が働かなかった。
ルームウェアのままで廊下へと飛び出したことも、髪を整えていないことも、顔すら洗っていなかったことも、全て、全て今になって一度に彼の背へと圧し掛かってきた。
何より、彼女は無事だったのだ。彼はこれ以上、その震える足で立ち続けることなど不可能だった。
「シェリー、寝ぼすけさんを部屋に連れて行ってあげて。30分後、朝食の準備ができた頃に下りていらっしゃい」
階下から飛んでくる優しい悪魔の声音に頷いた少女は、行きましょう、と促すように立ち上がった。
縋るようにこちらを見上げたその目はただただ依存の色を極めていて、鉛を蓄えたような暗さをしていた。
ずっと寝ている筈なのに、少しも眠れていない彼女の、その目の下には濃い隈が彫られていた。
昨日までと何も変わらない少女。けれどただ一つの変化をその身に宿した少女。
……その背に流れるストロベリーブロンドが、白いリボンで1つに束ねられていた。ただそれだけの、ささやかな変化。けれどフラダリは驚いた。驚かざるを得なかったのだ。
彼女が髪を梳き、更にそれを束ねたのは、この家にやってきて以来、初めてのことだったから。
*
あの子はもう十分に休みました。十分に拒んで、十分に怯えました。さあ、貴方の出番はここからですよ。
そうしたメッセージが、彼女の白いリボンには込められているように思われた。……もっとも、あの女性に直接、確認を取った訳では決してない。
昼も夜も多忙を極めている彼女を呼び止めることは困難を極めたし、
仮に確認を請うたとして、彼女はクスクスと悪魔のように笑いながら「そうかもしれませんね」とはぐらかしてしまうような気がしたからだ。
だから彼は己の確信だけを頼りに少女を呼んだ。
「シェリー、外に出てみないか?」
己の確信は間違っているのかもしれない。この誘いは悉く愚かな様相を呈していたのかもしれない。
それでもフラダリは毎朝、こう尋ねずにはいられなかったのだ。ただ、差し出すことしかできなかったのだ。
飽きる程に繰り返したその提案を、もう一度だけ紡ぎ直す。少女の頬は強張るが、鉛色の目は男に向けられたまま、逸れることはなかった。
「君が恐れることなど何もない。もし何かあったとして、必ずわたしが守ってみせる」
「……本当に?」
いつもなら「嫌です」と一言で切り捨てられるか、もしくは黙って首を振られるだけでなかったことにされたその提案が、彼女の動揺と沈黙をもってしてまだ、続いている。
そのことに驚きながら、もしかしたら、と男は思い上がる。沈黙という形の懇願が、彼女の頑なな拒絶を溶かすその瞬間を待っている。
彼女の怯えの色は今に始まったことではなく、彼等はこうした時間をずっと過ごしていたのだと思えた。
最初からずっとこうだったのだ。今更、何を怯えることがあったというのだろう。何も変わらない。男も少女も愚かなままだ。それでいい。構わない。
「君はわたしが守ってみせる」
だがその前に着替えさせてくれないか、このような不格好では守られる君に恥をかかせてしまう。
そう付け足せば、彼女は小さく笑った。本当に僅かな、瞬きの合間に見えた幻であったのかもしれないが、確かに彼女は笑っていた。そう思うことにした。
*
赤い帽子、黒いスニーカー、赤と黒のハイウエストアンサンブル、それら全てを身に纏い、少女は小さく息を吐いた。
ただの衣類や靴が、今の少女には重い鎧のように思われているようだった。
靴紐を結ばないまま立ち上がろうとするその肩を、そっと押さえて引き戻し、代わりにフラダリが膝を折って足元の黒い紐へと手を掛けた。
慣れた手際であっという間に靴紐を結ぶ男を、少女は「やめてください」と拒むことも、黙ってその手を振り払うこともせず、ただ茫然と見ていた。
「何処か行きたいところは?」
「……いいえ、特には」
「では、行きたいところが見つかるまで町を歩くことにしよう。はぐれるといけないから、握っていなさい」
少女の眼前に手を伸ばせば、彼女は躊躇うことなくそっと握り返した。絹のように滑らかなその指は、しかしほんの少しの力加減を誤るだけで手折られてしまいそうだった。
壊れ物を扱うようにそっと包み込めば、彼女は不思議そうにぱちぱちと瞬きをしてから、縋るように祈るようにこちらを見上げた。鉛色の目は努めて平静を保つ男を映していた。
ドアを開ければ、アスファルトの一角に集まっていた数羽のポッポが一斉に飛び立った。
耳をつんざく大きな羽音と、目の前に飛び込んできたポケモンの姿に、しかし彼女は驚きこそすれ、恐怖に顔を強張らせたりはしなかった。
この少女は疲れすぎて、休みすぎて、拒絶さえできなくなったのかもしれなかった。あるいは自分が頑なに拒み続けた拒絶の「理由」を、思い出せずにいるのかもしれなかった。
「自分の隣をフラダリが歩くことがどれ程に畏れ多いものであったか」を、この少女は忘れている。だからフラダリに靴紐を結ばせるままにしている。彼女は拒まない。拒めない。
それ程に異常だったのだ、この、カロスから遠く離れた町で彼女が過ごした時間というのは。それ程の孤独だったのだ、あの青い牢獄で少女が明かした夜というのは。
それでよかった。それがよかった。もういっそのこと一から生まれ直してくればいいとさえ思えた。
けれどそうした倒錯的な思考が悉く無為なものであることも、今の、十分に休んだフラダリにはよくよく解っていた。
どんなに朗らかな笑顔を浮かべていたとしても、どんなに生きることを楽しんでいたとしても、それが彼女でなければ何の意味もなかった。彼女でなければいけなかったのだ。
だから今、どんなに弱り果てた姿であったとしても、彼女がこうして生きているという事実を強く噛み締めて、絶対に手放すまいと心に決めなければならなかったのだ。
そうした、愛しさを思い出すに足る長さだったのだ。あの部屋で、二人が過ごした時間というのは。
「貴方が買ってきてくれた、橙色の、甘いゼリー」
「!」
「あれは、この町では買えないんですか?」
つい先日、隣町のエンジュシティで購入した羊羹のことを指しているのだと、フラダリは直ぐに気が付いた。
エンジュシティの真っ赤に揺らめく木々を切り取ったかのような、鮮やかな橙色の羊羹が町の和菓子屋に売られていて、思わず手に取ってしまったのだ。
色合いが、彼女の連れている赤いフラエッテに似ているように思われたのだ。彼女は赤が好きなのではないかと、そう思うに十分すぎる鮮やかさをあのフラエッテは宿していた。
そして案の定、彼女はその和菓子を気に入った。フォークで口に運び、「美味しい」と零したあの夜のことを、フラダリはしっかりと覚えていた。
彼女の願いを叶えてやりたいと思った。だが、早すぎるのではないかとも思った。
ここ数週間、ずっと家から出ることをしなかったこの少女に、急にそこまでの外出をさせていいのだろうかとフラダリは少しばかり案じていたのだ。
焦ることはない。どうせ明日も彼女は生きるのだ。それならば一つくらい、先延ばしにする事項があったところで構わない。
約束された今を生きる二人には、それくらいの思い上がりはきっと許される。
「……すまない、あれは隣町で買ってきたものなんだ。似たようなものがこの町のデパートにあるかもしれない、それでもよければ今から、」
そこまで告げて、フラダリは息を飲んだ。少女が、駆け出していたのだ。
2016.11.7