◇
さあ、ここからはいい話をしましょうか。
彼女は時空を切り裂くように、パチンと両手を合わせて音を鳴らす。その手が離された向こう側で、彼女の顔はやはり微笑みの形を作っている。
テーブルの上に置かれていた小箱を、クリスはその笑顔のままにフラダリの方へと滑らせた。
開けてみてください、と楽しそうに細められた彼女の目がそう促していたので、フラダリはその小箱に手を掛け、そっと開けた。
淡い桃色や緑色の、花の形をした何かが、綺麗に16個、並んで収められていた。
「これは……?」
「和三盆という砂糖菓子です。コーヒーやエスプレッソにとてもよく合うんですよ。
キッチンの脇にあるコーヒーミルを自由に使ってくださって構いませんから、是非、お好きな豆でコーヒーを淹れて、あの子と一緒に味わってみてくださいね。
とても美味しいんですよ、ラムネみたいに口の上でふわっと溶けるんです。……あ、フラダリさん、もしかしてラムネをご存知なかったかしら?」
先程までの真剣な会話をなかったことにするかのような、ふわふわとした笑顔にフラダリは毒気を抜かれる。
唖然とした表情のフラダリに、しかし彼女は動じることなく、嬉しそうに「私の大好きなお菓子なんです」「貴方が気に入るかどうかは、解らないけれど」と言葉を重ねる。
彼女が綴った「殺さないで」という懇願は、折り畳まれてそのまま、青い封筒の中に入っている。その砂糖菓子のすぐ横に、手紙は仕舞われることなく佇んでいるのだ。
にもかかわらず、彼女は先程までの緊迫した時間をなかったことにしてふわふわと笑っている。フラダリは彼女の丸い文字をなかったことにすることができない。
こうした感情の切り替えができない自分というのが異常であったのか、それとも、まるで時空を超えたかのように先程までの空気を忘れた彼女の方が異常だったのか、
……やはり、混乱の渦に落ちたフラダリが結論を出せる筈もなかったのだけれど。
「私からのお話は以上です。明日からは……二人は何処かにお出かけしますか?」
「いえ、暫くはこの家を出ないつもりです。彼女も疲れているようですから」
「ふふ、そうでしたね。時間はたっぷりありますから、ゆっくりしていってください」
手紙と和三盆の小箱を重ねてフラダリに持たせた彼女は、テーブルに手をついて席を立とうとする直前、
「あ、そうだ!」と、今まで忘れていたことを恥じるように眉を下げ、こてんと首を傾げた。
肩を掠める程度に切り揃えられた、青いウエーブのかかった髪が、まるでころころと変わる彼女の笑顔の種類を熟知しているかのように、陽気に、快活に揺れた。
「何か、尋ねたいことはありますか?私に答えられることであれば答えますし、必要なものがあれば用意しますよ」
その言葉でフラダリは、この場のイニシアティブが完全に自身へと移ったことを悟った。けれど、その権利を手にするにはもう、何もかもが遅すぎたのだ。
会話の主導権がこちらに渡ったところで、このふわふわと微笑む女性に何もかもを尋ねることが許されたとして、しかしそんなものは何の役にも立たない。
この家は幸福の形をした青い檻だ。フラダリもあの少女も、この女性の罠に嵌められていたのだ。罠にかかった獣が今更、何を喚き立てたところで彼女の心には届かない。
「貴方には何が見えているのですか?」
人畜無害そうな笑みを湛える彼女を、フラダリはにわかに恐れ始めていた。
彼女は自らの望みを叶えるためなら、時空を歪め、時さえ越えるのだろうと思われた。
「わたしのこと、カロスで起きた騒動のこと、シェリーのこと、全て貴方は知っていたのですか?知っていて、わたしと彼女を此処へ呼んだのですか?
わたしがこうして狼狽することも、あの子が自分のポケモンを拒むことも、貴方の計算通りだったのですか?
我々がこの町へやって来ることも、あの駅で貴方が階段を踏み外すことさえも?」
「いいえ、残念ながら少し違うんです。私は縁を読むことはできないから」
相応の剣幕をもってまくし立てたそれらの言葉に、しかし彼女は全く動じなかった。
彼女は「縁」を読むことが叶わない。縁だけはこの、何もかもを持ち過ぎた女性にも読むことが叶わない。
その言葉の意味するところが解っていたから、フラダリは驚愕を通り越して絶望した。
こうして自らが愕然とした表情を見せることさえも、彼女の「物語」には既に記されていることであったかもしれないと、気付いてしまって、いよいよ恐ろしくなったのだ。
「階段を踏み外したのはまた、別の理由なんですよ。貴方達に会いたいと思って駅へ向かったら、また別のお友達を見つけてしまったから」
「……貴方には友達が多いのですね、クリス」
それは、もう何の感情だったのか忘れてしまう程に、延々と掻き混ぜられ続けた「何もかも」の底へと突き落とされたこの男の、精一杯の世辞であり、足掻きであったのだろう。
けれど彼女はその言葉に、今日一番の驚きを見せて笑みをさっと消した。
それでも、フラダリが彼女の表情の変化に驚くより先に、彼女はクスクスと困ったように笑い始めた。メゾソプラノの笑い声が、一瞬の驚愕をなかったことにした。
やはり、彼女は笑うのだ。
「ありがとうございます。そんなことを言われたのは初めてです」
*
ドアを閉めた瞬間、ベッドに腰掛けていた少女は弾かれたように振り返った。
そしてフラダリの方を見るなり、驚いたようにその目を見開いて駆け寄ってきたのである。
「大丈夫ですか?」
動揺を悟られないように頷いて笑いつつ、彼はスーツに隠した手紙がポケットからはみ出ていないか確かめるためにそっと俯いた。
彼らしくないその動作に、彼女は益々不安そうに眉を下げた。
「私、逃げた方がいいと思うんです。だってあの人、私のことも貴方のことも知っていたんですよ。いずれ、此処はカロスの人にも知られてしまう。そうなる前に、」
「いや、大丈夫だ。もう話はつけてある。彼女は我々を此処に匿うつもりのようだ」
その言葉が完全に予想外であったというように、少女は愕然とした表情のままに沈黙する。
不安の海にどっぷりと沈んだ少女から、恐怖の味のする塩を取り払うためにフラダリは更に言葉を連ねる。
「わたしから話しておいた。我々には時間が必要だと、わたしはいずれカロスに戻らなければならなくなるだろうが、それは少なくとも今であってはいけないのだと。
彼女は快く応じてくれた。我々のことを公にしたりしないと、できる限りの助けをすると。
……彼女は弁護士であると同時に、優秀なポケモントレーナーでもある。此処にいる限り、君は辛い思いをすることなどないだろう」
「……どうして、」
震える声で彼女は口を開く。
そうして縋るように飛び出した「質問」というのが、悉く彼女らしい、歪んだ、愚かなものであったから、いよいよフラダリは息を飲む他になかったのだ。
「どうして貴方はカロスに戻らなければならないんですか?」
この少女にとって、何もかもを捨てて二人でカロスを飛び出すことが、どれ程この上ない「救い」であったのかを、いよいよフラダリは悟らざるを得なくなってしまった。
フラダリと共にセキタイタウンのあの穴から抜け出し、ミアレの夜を駆け、始発の電車に乗ってジョウト地方へと向かった。
ただそれだけのことで、彼女は彼女を形作る何もかもから逃れたのだと、そう、本気で思っているのだ。あまりにも真っ直ぐな妄信にフラダリは眩暈がした。
彼女は見た目の美しさに反して悉く幼く、そうした幼稚な妄信故に、彼女は彼の優しい嘘を「嘘である」と見抜くことができなかったのだ。
『私は、私が持っていない全てのものが欲しい。』
あの言葉にはもう一つ、重大な意味が隠れていたのだと、フラダリは随分と遅れてようやく悟る。
彼女は自分の持っているものを全て捨てた上で、「シェリー」をすっかり忘れてしまったその上で、更に全てを得ようとしていたのだ。
時間を、自信を、笑顔を手に入れたとして、それを手にする者はしかし、カロスを旅した「シェリー」であってはいけなかったのだ。
彼女の形をした、彼女ではない何か。この少女はそれになりたかったのだと、そう理解していよいよフラダリは言葉を失った。
シェリー、残念だがそれはできない。誰もがあの女性のようになれる訳ではない。
「わたしがカロスで何をしてしまったかは、君が一番よく解っているだろう」
「……そうですか」
絞り出すように発したその言葉に、少女は殊の外すんなりと了承の意を示した。
もっと駄々を捏ねられると思っていた。乱暴に首を振りながら錯乱してもおかしくないと身構えていた。
それ故に彼女のそうした「聞き分けの良さ」が、ひどく不穏な、気味の悪いものに思えてならなかった。
フラダリのその予感は当たっていた。彼女は至極嬉しそうに笑ったのだ。
「私は貴方に殺されたくて此処にいる」と、セキタイタウンの穴の底で紡いだ、あの時と全く同じ、美しい笑顔を作っている。
フラダリの不在が自らの死因たり得ることが、悉く幸福であるというように笑っている。フラダリはそうした彼女を直視することができない。
そうした幻想的なスパイスに身を委ねる彼女に「我々は何処にも逃げることなどできないんだ」などと、悲しい真実を告げることなど、できる筈もない。
「……和三盆という砂糖菓子を貰ったんだ」
「クリスさんに?」
「ああ。コーヒーにとてもよく合うのだと言っていた。近いうちにコーヒー豆と牛乳を買って、試食してみよう。この家にはミルもあるそうだから」
ミル、が何であるのかを、おそらくこの少女は理解していないのだろう。それでも少女は嬉しそうに笑った。
「私がコーヒーを飲めないと言ったこと、覚えていてくれていたんですね」と、つい半日前の出来事を覚えていたことに対して、本当に、……本当に嬉しそうに微笑むのだ。
依存と放棄を極めた彼女の、細められた目は悉く暗い。
2016.10.28