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少女は鞄の中身をひっくり返し、傷薬の類を消費して、男の連れていたポケモンを回復させてくれた。
いつも不安そうに肩を強張らせ周囲を窺っている、その様子からは想像もつかないような淀みない手つきで彼女はポケモンに処置を施した。
彼女は彼女が思っている以上に、優秀で、賢い人間なのではないかと男は思ったが、そんなこと、自らが彼女に敗れたのだから当然のことだったのだと考え直し、笑った。

ありがとう、と暗闇の中で少女にお礼を告げれば、ただそれだけのことに彼女はまた泣いた。
「貴方のような立派な人にお礼を言われることが恐ろしい」とでも言うような、困惑と歓喜と否定とが渦を巻く、ひどく混沌とした嗚咽だと思った。

そんな、悉く自己を卑下しどこまでも俯く彼女は、しかし彼女が「立派」だとする男を完璧に打ち負かしたのだ。
ポケモンバトルで叶わなかったことは勿論だが、その心さえも少女の歪なそれに押し負けていた。
彼女の言葉は男のそれよりもずっと強い影響力と支配力を持っていたのだ。少なくとも、男にとってはそうであった。
故に自己を卑下し俯くべきは寧ろフラダリの方にあった筈なのに、それでも尚、少女は自らが「下」であるという心地を崩さない。
彼女はもう既に、この男に何もかもを優った状態でそこに在ったというのに、彼女はまだ彼を「立派」とし、そんな彼の隣で息をする自分の価値を自身の足で踏みにじる。

男は少女を恐れていた。彼女が少女の形をした化け物にさえ思えた。

「フラダリさん。貴方はもういなくならない?」

けれどそうした化け物は、自らの神と崇めるこの男にどこまでも縋っている。
神は惜しみなく愛を与えなければならなかった。たとえそれが、自らに牙を剥いた化け物であったとしても。

「いいえ、きっとわたしは君を置いていくのだろう。しかしそれは少なくとも今ではない。きっと何十年も先だと信じている。
だから、君もそう信じていてほしい。今、いなくなることなど在り得ないのだと解ってほしい」

「……何十年も、先に」

「そう、ずっと先の話だ。そしてわたしにも、同じように信じさせてくれないか、シェリー。……君は決して、いなくなってはいけないよ」

少なくとも、わたしより先には絶対に。そう続ければ、長い沈黙の後で大きく頷いてくれた。
使わなかった傷薬を鞄に詰め直し、ホロキャスターの液晶に示された時刻を確認してから、彼女は再び小さく笑った。
けれどその笑い声は、先程までの美しいものではなくなっていた。息を潜めるような、音を立てることを恥じるような、彼女らしいささやかな笑い声だった。
「何か?」と尋ねれば、彼女はこちらへと顔を向けて首を振った。

「私も、貴方も、いなくなってはいけないんですね。今から、私と貴方はカロスからいなくならなければいけないのに。もう誰も、私と貴方がいなくなることを咎めないのに」

いなくなってもいい。その言葉に男はすぐさま思い当たった。思い当たったからこそ笑うことができた。
彼女は自身と男とを「死んだ」ことにしようとしているのだと、だからいつもの調子を取り戻しつつも自由な表情を作ることが叶っているのだと、気付いて、やはり笑うしかなかった。

「君をこの世界から消してしまえば、君が「いなくなる」ことを咎める者はもうわたしを置いて他にいなくなる。
……そのことが不安なら、君は今からでもカロスへ戻ることができる。フレア団を壊滅させた君のことを、カロスの誰もが歓迎するだろう」

選びなさい、と続けようとしたその口が塞がれた。旅の道具をいっぱいに詰め込んだ少女の鞄が男の顔面に投げつけられたのだ。
強すぎる打撃に彼が面食らっていると、鞄がそっと取り上げられた。やり過ぎたかしら、と案じるように眉を下げた彼女が心配そうに男を見下ろしていて、男は声を上げて笑った。
彼女を見守り支えるだけでは見ることの叶わなかった、彼女のあらゆる表情が顔を覗かせ始めていることに男は気付いていた。

これからは寧ろそうした彼女の表情で溢れていくのだと、何もかもに存在を忘れられた男にはいよいよそれしかなくなるのだと、そうした倒錯的な幸福に酔い痴れた。
土で汚れた二人だけのこの暗闇に芽生えたそれを「幸福」と呼ぶべきか否か、彼には冷静な判断ができなかった。
この空間を占めるそれを正常に評価してくれる人間などいる筈がなかった。……だからもう、幸福、でいいのではないかと思った。
だって男は何もかもを奪われ過ぎたのだ。彼の願った何もかもは叶わなかった。絶望と呼ぶに相応しい心地である筈だった。
それならばせめて、唯一手を伸べる距離に在るこの幸福を、決して手放すまいと欲張ったところで、きっと罰など当たるまい。

「ああ、君はこんなこともできたのだね!知らなかったよ」

「ご、ごめんなさい」

「謝らなくていい、わたしは喜んでいるのだから」

わたしはそうしたおかしな人間なのだから。
そう付け足してから、尚も謝罪の言葉を紡ごうとする少女の口を男は手で塞いだ。メガリングを中央に収めたその大きな左手を、少女は宝物でも抱えるように両手で包んだ。
人肌に染まり過ぎたその宝物は生温い温度を彼女に伝えてきた。彼の温度が正しく人のそれであったことに、少女は少し、ほんの少しだけ驚いた。
人を凌駕した存在に温度という概念などない筈だと、だから神の力を手にした彼の手はきっと悉く冷たいのだろうと、無知で愚かな少女は本気で思っていたからだ。

二人の人間の力では及ばないことでも、ポケモンの力を借りれば造作もないことへとあっという間に変貌を遂げる。この地下からの脱出もその一つであった。
二人の力ではびくともしなかった大岩を、少女の繰り出したサーナイトは「サイコキネシス」であまりにも容易く浮かせてしまった。
男の繰り出したギャラドスは「アイアンヘッド」で道を塞ぐ瓦礫を砕いた。落ちてくる天井の破片は、少女のゲッコウガが全て「みずしゅりけん」で押し退けた。

そうして上へ上へと進み、最後の瓦礫を退けようとしたところで、少女の赤いフラエッテが二人を引き留めた。
彼が見つけていた小さな隙間からは僅かな月明りが差し込んでおり、もう地上は夜を迎えていたのだと二人は気付いて、驚いた。
その隙間から外へと抜け出したフラエッテは、暫くして再びその隙間から中へと戻ってきて、二人の方を交互に見てこくりと小さく頷いた。
「二人を知る人間が近くにいないこと」を示す頷きだと、それを確認するための視察だったのだと、解っていたから少女はお礼を言った。彼は赤いカサブランカを誇らしげに震わせた。

大きく開けた隙間から、少女の方が先に外へと這い出た。彼女は直ぐに振り返り、男の方へと手を伸べた。
男の大きな体を引き上げるには、その手はあまりにも小さく、その腕はあまりにも細かった。
解っていながら男は少女の手を取った。彼が取れるものなどその頼りない手の他になかったのだから当然のことだった。
けれど男の予想に反して、少女はぐいと彼を地上へ引き上げた。
勿論、男も自ら足を浮かせて這い出ようと努めていたが、気休め程度にしかならないと思っていたその腕が思いの外、強い力を持っていたことは事実だった。
その不安そうな目に、頼りない腕に似合わない力だった。だから男は驚き、そして安心した。この少女はもういなくならないだろうと確信できたからだ。
その不安定な確信は、しかし男が生きている間は真実の形を守り続けるだろう。

「……」

セキタイタウンの夜は静かに佇んでいた。やわらかな風が遠くの木々を揺らす音が、夜の闇を伝って彼等の鼓膜を僅かに震わせるのみであった。
この静けさに息を潜めて、この町でひっそりと暮らすことも不可能ではないのかもしれなかった。
けれど、この少女が「カロスにはいられない」と言うのだから、当然のようにその選択肢はなかったことになった。男はその提案を頭の中で殺した。声にすら出さなかった。

「……死ねなかったことを悔いているか?」

そう尋ねれば、少し迷うような素振りを見せた後に小さく首が振られた。深く俯いたその姿が、あの路地裏で膝を抱えて泣いていた頃の彼女に重なった。
あの日と比べると、彼女のストロベリーブロンドはほんの少しだけ長くなっていた。時は確かに流れ、彼女が確実に死ぬことのできたあの瞬間はもう過去のものとなっていた。
男はそれを喜んでいた。少女は少なくとも、生きなければならなくなったこの瞬間に絶望してはいないようだった。

「明日、ミアレステーションの電車に乗って、カロスを発とう。それまでは君のしたいようにするといい」

彼女は固まったまま暫く動かなかったが、やがて鞄を腕に抱えて何かを探り始めた。ガサゴソと中身の擦れる音と、風のやわらかな囁きが沈黙を埋め続けていた。
ようやく取り出したそれは男の眼前に差し出された。その缶コーヒーのデザインには覚えがあった。
男がポケモン研究所を訪れた時、あの博士はいつもこれを土産に持たせてくれていた。

「よければ、どうぞ。私は飲めないから」

何故飲めないのか、と尋ねようとして男は笑った。彼女が苦いブラックコーヒーを飲むことができなかったとして、しかしそれは当然のことであったのだ。
何故なら彼女はまだ14歳だったのだから。小さなカロスの救世主は、コーヒーよりもずっと甘いものを好むような、幼い子供である筈だったのだから。
そう、この男でさえ忘れかけていたのだ。あの博士がそれを忘れていたとして、無理のないことであったのかもしれなかった。

「君は何も飲まないのか?鞄の中にミックスオレが余っていたようだが、」

「私は飲みません」

彼女らしくない明確な音に男は面食らった。
彼の言葉が終わるのを待たずして、急いた心地で発せられたその拒絶。それが何を意味しているのか、男にはまだ、思い至ることができなかった。
少女はその場に膝を追った。瓦礫の山をしばらく歩き、平らな場所を見つけて腰を下ろした。膝を抱えて顔を伏せた。長いストロベリーブロンドが彼女を隠すようにふわりと広がった。
コーヒーを貰ったことの礼すら拒絶するようなその姿勢に当惑しながらも、彼は彼女の隣に腰を下ろした。缶のプルタブに手を掛けた。
ふわりと漂うコーヒーの香りを肺まで満たし、更に苦い液体を喉に流し込めば、当惑に満ちた彼の呼吸などなかったことになった。

空を見上げた。田舎町の美しい夜空を共有したい相手は、しかし彼の一切の言葉を拒絶するように俯いたままであった。
依存と拒絶を繰り返す、このアンバランスな少女と生きるのは、思いの外、骨が折れそうである。


2016.10.1

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