「食べたくないって、どんな気持ちなのかしらね」
食堂で、向かいに座っていた彼女が突如としてそんなことを言い出した。
入江は自分の手が恐怖に冷えるのを感じていた。背中がふわりと泡立ち、眩暈がした。彼女のたった一言に錯乱した彼は、いつもの仮面を纏うことを忘れて鋭く紡いだ。
「もしそんなことをしてみろ、君を縛り付けて、無理矢理にその口をこじ開けてでも食べさせてやる」
その声音に彼女は持っていたフォークをぴたりと止めた。
白い皿に盛り付けられた、きのことほうれん草のクリームパスタは、彼女が自らの昼食にと選んだものだった。
彼女は「美味しそうだったから」という理由でそれを選び、つい先程までその顔に満足そうな笑みを湛え「うん、美味しい」と頷いていた。
そんな彼女が突如として紡いだ言葉に、入江は戦慄せざるを得なかったのだ。
けれど彼女にとってはそんな入江の表情や声音すらも、愉快な一要素でしかなかったようで、その端正な顔をふわりと崩し、声をあげて笑い始めた。
「あはは、酷い顔ね」
「……香菜ちゃん、人が悪いよ」
「あんただけはそれを言っちゃいけないと思うの」
先日の試合での話をしているのか、彼女は「演技に関しては入江さんの方が一枚上手よ」などと付け足し、再びそのクリームパスタに手を付けた。
くるくるとフォークを回して、パスタを絡め取る。料理に伏せられた目はしかし、笑っていなかった。彼女はそうした表情がとても得意なのだ。
そして再び顔を上げた時、彼女の目は入江を見てはいない。入江のずっと向こうに座っている、一人の少女と一人の精神コーチを見ているのだ。
賑やかなこの食堂では、中学生、高校生問わず、誰もが賑やかに食事を摂っていた。
コートでの殺伐とした雰囲気を、食事にまで持ち込む人間はそういない。
しかし「彼女」の試合はこれから始まるのだと言わんばかりに強張ったその背中が、彼女の異質さを物語っていた。
そして、そんな彼女の試合を観戦するかのように、隣には精神コーチである齋藤が座っている。
親子のようなその姿に、しかし入江は微笑むことができずにいた。
「本当に美味しそうに食事をする子だったのよ」
彼女の目が懐かしむようにそっと細められる。その目は入江を見ているようで、実はその視線は、入江の更に向こうに座る針金細工の身体を射抜いているのだ。
彼女が誰の話を始めているのか、入江にはよく解っている。解っているからこそ、その言葉にできることなら耳を塞ぎたいとさえ思ったのだ。
とても楽しそうに過去の「彼女」の話をする目の前の少女を、入江はどうしても直視することができなかった。
「よく、うどんやパスタを食べに行ったわ。部活帰りに、二人で。
あの子、意外と辛党なのよ。うどんに七味を当たり前のようにかけるし、カレーは必ずあたしよりも2段階上の辛さを注文するし。それにね、」
「君のせいじゃない」
その言葉に彼女のフォークがぴたりと止まる。しかし先程とは違い、彼女は笑っていなかった。
その目が縋るような揺らぎを孕んでいて、入江は思わず息を飲む。
ねえ、香菜ちゃん。君はよく、あの子が死んでしまいそうだと紡いでいるけれど、ボクにはそんな君の方が余程、危なっかしく見えるよ。
君は今、とても酷い顔をしていることに気付いているのかい?
そんな言葉を飲み込んで、入江は簡潔に、言い聞かせるように口を開いた。
「彼女は病気なんだ。君のせいじゃない。君は、悪くない」
「……知っているわ。そんなこと、あんたに言われなくてもあたしが一番よく、知っているのよ」
違うよ、香菜ちゃん。君は大事なことが解っていない。君の考えは、根本から大きく間違っている。
入江の心の中でそうした言葉達が激しく渦を巻いていた。けれどそれをこの場で口に出すことはどうしても躊躇われた。
親友の域を超えた親しさを見せる二人の少女の間に、何があったのかを入江は知らない。
歪な針金細工の身体に、この少女がどんな思いを抱いているのかを彼は知らない。「貴方の良き理解者」という二つ名を持つ入江は、しかし肝心なところで人の心を読めない。
「ねえ、入江さんには解る?」
更に残ったフォークをほうれん草やきのこに突き刺して、彼女は少しずつ口に運ぶ。
「美味しそうなものを見ても心が動かないってどんな感じ?自分の身体が思うように動かせないってどんな気持ち?生きることに疲れるって、どれくらい苦しいと思う?」
「……」
「死にたい訳じゃないの、生きていたいのよ。それでも身体は生きるための力を受け付けないの。頭では分かっていても、食べることができないの。
……普通の人の目には、狂っているように見えるのかもしれないね」
生きていたいのよ。
彼女は寧ろ、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
入江には残念ながら、彼女の言う通り、あの少女が狂気じみて見えたのだ。
食べ物を受け付けない彼女の身体は針金細工のように痩せ細っていて、それでいて毎日、倒れる寸前までU-17合宿のスタッフの業務をこなし、走り回っているのだ。
動くための力など、その身体には残されていない筈なのに。自身の気力だけで生き続ける彼女は酷く滑稽で、それでいて恐ろしかった。
「誤解しているのかもしれないけれど、あたしはあの子の病気に悲観している訳じゃないわ。あんな状態になってまで生きようとしてくれていることは、寧ろ嬉しい」
空になった皿をテーブルの端に寄せ、彼女は頬杖をついて楽しそうに笑った。
その美しく整った唇は確かに弧を描いている。描いているにもかかわらず、その目はやはり笑っていないのだ。
「嬉しい」という言葉を、これ程までに空恐ろしく感じたのは初めてで、入江は思わず息を飲む。
「あの子が病気になって、あたしの手の届かない所へ行ってしまったことが寂しいの。悔しくて仕方がないの」
「……香菜ちゃん」
「突き落としたのはあたしなのに、引っ張り上げることができないの。あたしが連れ戻さなくちゃいけないのに、できないの。……どうかしているわよね」
入江は自分の更に残っていたサーモンのムニエルをフォークに刺し、彼女の前に突き出した。
驚いたように目を見開いた彼女は、しかしその整った口を開いて食べ物を迎え入れる。
『食べたくないって、どんな気持ちなのかしらね。』
そう言った彼女はしかし、その境地に達していない。彼女は正気を手放してなどいないのだ。
彼女は正常だ。その証拠にその小さな顎がゆっくりとその料理を咀嚼し、細い喉をゆっくりと流れていく。
今にも泣きだしそうに微笑んだ彼女は、まだ正常だ。だから、あの少女に共鳴しないでほしい。どうか君だけは変わらないでほしい。
非情だと思われてもよかった。入江にはあの狂気じみた少女よりも、目の前でサーモンを飲み込んだ危なっかしい少女の方が大切なのだ。
「ああ、あたしって最低だわ」
「どうして?」
そう尋ねた入江に、彼女はクスクスと笑いながら、サーモンの脂に濡れた唇を震わせる。
入江はその姿に、先日の少女を重ねた。
カーテンを切り裂き、クッションを破き、花瓶を叩き割り、手から血を流して座り込んでいた彼女。
泣き腫らした目で入江を見上げ「貴方の良き理解者ともあろう人が、あたしの心を読めないの?」と、縋るように紡いだ彼女。
入江にはあの死にそうな少女より、目の前の少女の方が余程、恐ろしく見えた。狂気は寧ろそうした美しい笑みの裏にこそ潜んでいるものなのではないかと思ったのだ。
「だってこんなにも美味しいのよ。美味しいと、思ってしまうの」
まるで美味しいと思うことが罪であるような物言いをして、彼女はもう一度「美味しい」と繰り返し、笑う。
2015.6.26