「あんたが聞いているのは声じゃないわ」
図書館の閉館時間を少し過ぎた頃、私とNはいつものように、月明かりの照らす芝生の上を歩いていた。
人やポケモンがひっきりなしに踏みしだいている筈のこの芝生は、けれども部分的に枯れることもなく、均一的な鮮やかさを保ち続けている。
1年の頃はその不自然さが気になったりもしたけれど、もう5年近くここにいればすっかり慣れてしまった。
今は夏休み。来月から私は5年生になる。
いつもならイッシュの実家に戻るところなのだけれど、私とNは「新入生歓迎委員」としてホグワーツに残ることを選んだ。
明日からやって来る1年生に、あの子に、先ずはどこを案内してあげようかしらと、そうした予定を立てながら改めてホグワーツを散策した。
勿論、朝と夕方の図書館通いは変わらず続けていた。
その結果として先程の結論があり、私はこの数年間の成果を今、隣を歩くこの男に披露しようとしているところであった。
「急にどうしたんだい?」
「急じゃないわ。私はいつだって考えていた。あんただけが持っている、その狡い力の正体のこと、ずっとね」
私は生い茂る芝生に四肢を投げて仰向けに寝転がった。今日の月は上側に大きく欠けていて、細く千切れた雲がそれを僅かに隠していた。
Nは私の隣に、私よりも少しだけ上品に腰を下ろしつつ、やはりごろんと仰向けになった。
「聞かせてくれないか」と、彼のテノールが興味深そうに囁く。私は快諾しつつ、腕を頭の下に回してから説明を始めた。
「そうね、まずはあんたが反論できないような、断言できることから言うわ。
まず私のダイケンキのこと。彼は基本的に、人やポケモンとべったり慣れ合おうとはしない質なの。控え目で、ちょっとだけ臆病なところもある。
そんなこの子が、簡単に私のことや自分のことを、あんたにぺらぺらと話しているというのは、妙に不自然なのよ」
「でもボクはキミのトモダチから、あまりにも多くのことを教えてもらったよ。
キミの名前も、キミが本当はどういうヒトであるのかも、全てダイケンキが、カレの声が教えてくれたことだ」
解っている。こいつの言葉を疑うつもりは毛頭ない。
どんなに私が人間不信に陥ったとしても、全ての人間を敵に見るようなことがあったとしても、きっと私は最後まで、こいつのことだけは疑えない。
彼の言葉は真実である。けれども私のダイケンキの真実もまた、私の中には確固たる正しさで存在している。
その二つの真実が「噛み合わない」とき、そのどちらの真実も尊重したいと願うなら、私は探究しなければならないのだ。
二つの真実を結ぶ「何か」を、私は見つけ出さなければいけないのだ。
Nの正しさと、ダイケンキの正しさ。どちらをも同じくらい愛するために、私は知恵という武器を取らなければいけなかった。
『どうしてポケモンは人と共に在ることに喜びを見出すのか』Nはそれを知るためにこのホグワーツで学び続けている。
『どうして私達にはポケモンの声が聞こえないのか』私はNの願いを叶えるためにそれを明らかにしようとしている。
「私はずっと考えてきたわ。何故私にはポケモンの声が聞こえないのか。聞こえない人間ばかりなのは何故か」
私は杖を出して、傍にいるゼクロムとダイケンキを元の大きさに戻した。Nもそれに倣うようにして、レシラムとゾロアークの縮小呪文を解く。
翼を持つ二匹は大きく咆哮して月の夜へと飛び立っていく。私達の腕の中を選んで生まれてきたパートナーは、私達の傍から離れない。
「私達の世界でも、言語が違えば意思の疎通ができなくなるでしょう。あれと同じだと思うの。
言語の意味が分からないのなら、どんなに言葉を尽くされたとしても、それはただの雑音と同じだわ。
私達はポケモンの言語を理解できない。だからポケモンの声を「鳴き声」としか捉えられないのは当然のことよね」
……実はこの数年の間に、彼等の言語を理解しようと努めてみたことがあった。
けれども歴代の優秀な魔法使いたちでも解き明かせていない、ポケモンの言語の謎を、一介の学生である私が解明できる筈もなく、
幾度の挫折と試行錯誤を重ねた末に、「やっぱり、駄目だった」という、残念な結果を残すばかりであったのだ。
そもそも、彼等の喋る言葉には統一性がまるでない。ダイケンキの鳴き声に見える規則性は、けれどもゾロアークには全く当てはまらないのだ。
私のパートナーが高く短く鳴く、その音がたとえば「喜び」を示すものであったとしても、
同じように鳴くゾロアークにとってそれは「不満」を示すものになったりする。
それでも彼等は同じ「ポケモン」という共通の魂が故なのか、互いにとても高等な意思の疎通をやってのけてしまう。
同じ力を、私達はどうしても得ることができない。
ポケモンという、複雑で神秘的な存在の言語を紐解くには、人間の生き様はあまりにも「画一されすぎている」ように思われた。
「でもあんたは、そんな多種多様なポケモンの声を等しく私達の言語に変換する。どんなポケモンの声も等しく拾い上げる。
ダイケンキも、ゾロアークも、ゼクロムやレシラムの声も。お喋り好きな子も、寡黙な子も、Nには何でも話してみせる」
「そうだね。「話してくれなかった」ことは、未だかつてなかったような気がするよ」
「……ただ私は、あんたが、出会ってすぐのポケモンともすぐに信頼関係を築けるような人間には、どうしても思えないのよ。
「このトレーナーは信用できる、この男になら何でも話せる」って、あの時のミジュマルが考えていたなんてこと、あり得ないわ」
「おや、どさくさに紛れて随分と酷いことを言われた気がするね」
Nは私の言葉をそのまま受け止めて苦笑する。彼は私との会話の中に沈黙を殆ど作らない。
彼は人の言葉を疑うことを知らない。彼は私の本心を暴こうとしない。私が口にしたそのままが私の本心であると信じ切っている。
それは私を特別「信用している」というのではなく、この男は誰に対しても「そう」なのだ。
彼は言語化される「音」を信じすぎていた。その裏に何か、言葉とは真逆の本心が隠れている、などということを、考えもしなかった。
『さっきの「美味しくない」という声を、キミは発しなかっただろう。』
けれどもし彼が、隠しようのないところを拾い上げているのだとしたら。
偽れないところを、正直にならざるを得ないところを、ポケモンから聞き出してしまっているのだとしたら。
『ヒトは声に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だね。』
もし彼が拾い上げているのが、私達にとっての「声」ではなく、ポケモンの「気持ち」の方であったのだとしたら。
お喋り好きなポケモンの気持ち、寡黙なポケモンの気持ち、そうしたものを言語として汲み取る力。それが、彼の本質なのだとしたら。
「あんたはきっと、ポケモンの「心」を聞いているのよ」
彼は言葉を疑わない。彼は自らの拾い上げる言語の中に「嘘」が紛れているなどということを考えもしない。
けれどもその確信は、少なくとも彼の中では正しかったのだ。彼の拾い上げた声の中に、嘘など混じっている筈がなかったのだ。
彼が聞いていたのは心だから。心に嘘は吐けないから。
「私は悔しかったの。出会ったばかりのあんたが、簡単にミジュマルの言葉を拾い上げたあの日から、ずっと。
だから自分で納得がいく答えをずっと探していたわ。
私にはポケモンへの気持ちが足りないんじゃないか、私も努力すれば聞けるようになるんじゃないかって」
でも残念ながら、心を読むことは愛情や、ましてや努力で叶うものではなかったのだ。
そうした結論を出した私は、いよいよ「ポケモンと話をする」ことを諦めざるを得なかった。
それは心地良い諦念であり、その破天荒な力を有したNへの思いはやはり最初の「狡い」というところのまま変わらず、
でもその懐かしい気持ちさえも、こいつと5年近い時を生きてきた私には随分と心地良いものに思われたのだった。
「でもこれで納得できたわ。私の夢はこれで叶った。私にポケモンの声が聞こえない理由、私の真実がやっと手に入った。
でもこのままじゃホグワーツにいても手持ち無沙汰だから、ついでにNの夢を一緒に叶えるための勉強でもしようかなって、考えているところよ」
つまりNという人間は、ポケモンの声が聞こえる超能力者だとかそんなことは微塵もなく、
彼等の「話したくない」「この男は信用ならない」とかいう警戒を踏み越えて呆気なく心を読んでしまう、デリカシーに欠ける男だったのだ。
ただ、それだけの話だったのだ。
「……では、」
彼は私の粗削りな理論を受けて、沈黙していた。彼にしては長すぎる沈黙を置いて、ぽつりと口火を切った。
そしてその後に彼が紡いだのは、私の理論に対する指摘でも感想でも批評でも賞賛でもなく、
ただの私に対するいつもの、純朴を極めた問い掛けで、けれどもその音がいよいよ彼らしかったものだから、やはり嬉しくなってしまったのだった。
「ではキミは、ヒトの心を読むことができるのかい?」
私は芝生の上に寝返りを打って、Nの方に向きを変えつつお腹を抱えて盛大に笑った。
成る程、そういうことになってしまうのか!
この男はポケモンの心を読むことができるけれど、人の顔色や声音からその本心を汲み取ることが全くできないのだ!
だから、それを息をするようにやってのけてしまう、私にとっては当然のことを、そんな風に、まるで破天荒な魔法のように指摘してみせるのだ!
Nは、私の「人の心を読める」という力を、私にとっては当然の能力を、素晴らしい魔法であるように羨む。
私は、Nの「ポケモンの心を読める」という力を、Nにとっては当然の能力を、素晴らしい魔法であるように羨む。
なんておかしな二人だろうと思った。私達はつまるところ、どう足掻いても二人でしか一つの形を取ることが許されないのだった。
「そうよ、あんたが私を信じてくれていることだって、私にはお見通しなんだから」
愉快な心地でそうした大きなことを口走れば、彼はひどく驚いた様子で、その色素の薄い瞳を見開いた。
「そんなに驚くことだったかしら」とからかうように告げたのだけれど、次の彼の言葉に今度は私が驚かされることになってしまった。
「ああ、驚くべきことだ。確かにボクはヒトを疑わないけれど、ヒトが本音を隠す生き物であることも、心得始めていたところだったんだ。
でもキミは、キミだけは、何があってもボクに嘘を吐かないのだろうと、本心を隠したりしないのだろうと、そういう信頼を置いてしまっていたんだ」
「!」
「ボクはキミを信じているよ。でもそれは、ボクがヒトを疑うことを知らないからではない。そうであったのは遠い昔の話だ。
今は、キミがキミだから信じているんだよ。でもまさかそういうところまで読まれてしまっていたなんて、やはりキミは凄いね、トウコ」
大きな咆哮と共に、ゼクロムとレシラムが戻ってきた。雲はすっかり夏の風に押し流され、少しだけ欠けた月が青い芝生を明るく照らしていた。
私はNの手を握った。どうしたんだいと微笑みながらそっと握り返してくれた。その優しさを責めるように強く爪を立ててやった。彼は、許してくれた。
「奇遇ね、私も驚いているわ!」
明日は彼女が、シアが、ホグワーツにやってくる。
魔法使いに、ポケモントレーナーに、人一倍憧れていたあの女の子は、この破天荒な学園でどのような経験をするのだろう。
久し振りに会うあの子に「どう、これが私よ」と胸を張る瞬間が、Nの隣で気丈に笑う瞬間が、どうにも待ち遠しくて仕方ない。
2013.9.12
2018.1.1(修正)
Thank you for reading their story !