花と霞

カロスのレンリタウンに向かう列車は閑散としていた。乗客は驚く程に少ない。
ビジネスで地方を跨ぐことはそう珍しいことでもないが、そうした仕事関係でこの路線を利用する人々は、朝の早い時間に集中する。
昼の2時というこの時間帯、しかも平日では、観光客の姿もなかなか見かけることはない。
空っぽの列車は、それでも休むことなく線路を走り続ける。

「あ、見て。知らないポケモン」

しかしそんな閑散とした列車の3両目、そこには一組の男女が向かい合って座っていた。
彼等はイッシュ地方のカナワタウンから多くの駅を乗り継ぎ、ようやくカロスを訪れようとしていたのだ。

その女性は、開け放った窓から景色を眺めていたのだが、見知らぬ紫色のポケモンを視界に収め、思わず声をあげる。
窓から吹き込む風が、彼女のやわらかな桜色の髪を揺らす。
ここ数年、毛先を整えるために切る程度でずっと伸ばされてきた彼女の髪は、しかし、今は肩より少し上のところで綺麗に切り揃えられている。
その髪型は、向かいに座る白髪の男性のそれと意図的に似せられていた。同じ髪型で現れた彼女に、目を丸くした男のことを思い出し、女性は思わずクスリと微笑む。

「ねえ、ダーク」

男の名前を呼んだ彼女は、しかしそこでようやく、男性がその頭を車両の壁に預け、眠りについていることに気付く。
いけない、と彼女は自らの唇に片手を添えて思わず呟いた。何故ならその男性は、自らの名前にとても敏感なのだ。
それまでの彼が置かれた環境がそうさせたのだろう。即座に主の命に反応できるように。それは彼が長年の経験で培った処世術だった。
その迅速な反応が、眠っている時でさえも効力を持つことを女性は知っていたのだ。

案の定、ダークと呼ばれた男はその目を僅かに開き、掠れた声で「どうした」と問いかける。
彼女は首を振り、困ったように微笑んだ。

「ごめんなさい、起こすつもりはなかったの」

「構わない。どうせもう直ぐ、レンリタウンの駅に着く筈だ」

男はありふれた黒い服を身に纏っていた。しかし顔には、今までその半分を覆い隠していた真っ黒のマスクがない。
彼は主の元に仕え、働く時、いつでもそのマスクを身に付けていた。
最早、身体の一部と化してしまったそのマスクは、日常においても外されることはなく、長い付き合いであるその女性ですら、その素顔を数える程しか見たことがなかったのだ。

主の忠実な配下であった男は3人いた。男に引き取られた3人の間に血の繋がりはなく、年齢こそ同じではあったものの、彼等は全くの他人だった。
そんな彼等の顔を、その黒いマスクは隠していた。顔の大半を覆うその黒は、彼等の表情と個性を奪っていたのだ。
顔を奪われ、個性を消された彼等は、「3人の忠実な僕」として、主に仕え続けていた。
そのマスクは、他人に顔を見られないように付けられていたものだと思われていたが、実のところは、主がその3人を区別することのないように用意したものだったのだ。
主は3人を見分けない。見分ける必要などない。そのような扱いを受けて彼等は育った。その異常な日常は、彼等にとって当然のものとなった。

『あれと親しいダークはお前だったか。』

それ故に、その主が零したその言葉は、雷となって男に確かな衝撃と驚愕を与えた。
異常な環境下において正常なものは寧ろ異常であるのだ。男は困惑し、しかし「あれ」が自分と親しい一人の女性を指しているのだと気付き、即座に肯定の返事をした。

その、緑の髪と赤い目を持つ主が、3人に黒いマスクを外すように命じたのはつい最近のことだ。
彼がかつて率いたプラズマ団と言う組織が、一人の少女によって再興され、そこへ彼が再び戻ってきた、あの直後だ。
組織は慌ただしく動いていて、3人もかつてのように、その男の下で働くつもりだった。顔を隠して、個性を殺して、普段通りに仕えるつもりだった。
そんな彼等に、男はマスクを外すように命じた。
それを聞いた目の前の女性は、とても嬉しそうに微笑んだのだ。

『よかった。ゲーチスは貴方を見てくれるようになったのですね。』

その変化が一人の少女によるものだと、知る人間は少ない。
「愚かなことだ」と蔑んだその感情に、他でもない彼自身が絆されていたのだと、そう知る人間は数える程しかいない。
その少女もまた、とある男と共にカロスの地を訪れていたのだが、これはまた、別の話だ。

「バーベナ」

男は彼女の名を呼ぶ。バーベナと呼ばれた女性はその掠れた声に少しだけ首を傾げる。

「どうしたの?」

彼女は男の顔を見た。長い間、黒いマスクで覆い隠されていた男の肌はとても白く、血が通っていないかのように思わせる。
蝋のように白いその顔に、射るような目と高い鼻、そして口が付いている。
ああ、貴方はそんな顔をしていたのね。そんな風に口を動かして私の名を呼ぶのね。マスクを通さない曇りのない声は、そんな響きを持っていたのね。
バーベナは感慨に思わず目を細める。春の風がそんな彼女の髪を揺らす。

「……」

しかし、用のあった筈のその男は、その後に続ける言葉を失い沈黙する。
どうしたのかしら。バーベナは思ったが、しかし直ぐに微笑み口を開く。

「ダーク」

「どうした」

「いいえ、なんでもないの」

クスクスと笑いながら彼女は肩を僅かに竦めてみせる。
どうしてかしら、とバーベナは思う。どうして彼の名をこの口が紡ぐ時、心臓は緩やかに跳ね、頬にはぼんやりと温かさがこもるのかしら。
それは他の誰でもいけなかった。他の誰の名を紡いだとして、目の前の男の名前には敵わないのだ。

「ねえ、貴方もそうだったのかしら?」

だから、私の名前を呼んでくれたのかしら?

「……想像に任せよう」

「ええ、そうしますわ」

とても楽しくなってバーベナは笑った。彼女の心臓が僅かに跳ねる音や、ほんの少しだけ赤く染められた頬が、彼と共鳴していればいいと思った。
けれど、そうでないのなら、それはそれでよかったのだ。また一つ、不可思議な彼のことを知ることができたということだから。
共鳴は喜びとなり、重ならない音は好奇心と高揚を彼女にもたらした。
きっと、こうして時間は過ぎていくのであろうと確信できた。

「あ、また」

バーベナは窓の外で飛んでいる、オレンジ色の小さなポケモンの群れを指差す。
高いさえずりを列車の中に落としていったその群れに、彼女はポケットから図鑑を取り出すが、間に合わなかったらしい。
イッシュに住むその少女から託されたその図鑑を、できるだけ多く埋めること。今回の旅の目的はそこにあった。
しかし、その表向きの目的さえも、彼等の主である赤い目をした男の承諾がなければ立てられないものだった。
つまり、これはその男が二人に与えた長い休暇なのだ。

そして、二人のもう一つの目的はきっと、今も果たされつつあるのだろう。

「今日はレンリタウンを軽く観光しましょう。大きな滝があるんですって。近くで見てみたいわ」

「宿はどうする」

「この町のポケモンセンターに泊めてもらいましょう。カロス地方の地図もそこで貰える筈ですわ」

「……そうか」

彼は頷き、バーベナの優しい色の髪が風に揺られるのを、見ていた。
彼女も微笑み、彼の美しい白髪に手を伸べる。サラサラとした糸が指の間から零れ落ちていく。
綺麗な髪ねと呟けば、怪訝そうな顔をして彼はバーベナの髪を指差す。ありがとうと返して彼女は嬉しそうに肩を竦める。
風が止み、汽車がレンリタウンの到着を告げる。


2015.1.18

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