10

「白い子がレシラムで、黒い子がゼクロムだよ」

朝の図書館、いつもの場所でクリスさんは、あの大きなドラゴンポケモンのことを、「子」というなんとも間抜けで頼りない単語を用いて説明してくれた。
この奔放でマイペースな女性にとっては、あの凄まじい威圧感を持ったポケモンも、生まれてばかりの小さなチコリータも、等しく「子」なのだろう。
彼女らしい独自の分類に私は苦笑した。そういうことに呆れていれば、昨日のことを忘れられる気がしたのだ。

図書館組のメンバーは、去年と全く変わっていない。
変化があるとすれば、今年、晴れてホグワーツの教師になったアクロマ先生が、学生服ではなく白衣のような白いコートに身を包んでいることくらいだ。
「おめでとう」と、おおよそ先生に対して使うべきではない口調でぞんざいに祝福する私を、けれども彼は困ったように笑うだけで、咎めたりはしなかった。

トウコさんやNくんは初めて見るかもしれないけれど、実はこの学園には稀に、ああいう、大きな力を持った存在が訪れることがあるんだ」

ウツギ先生がそう説明してくれる。
Nは「やはりそうだったんですね」と頷いているが、私にはウツギ先生の言う通り「初めて」のことであったため、
あの二匹の登場が意味するところに、まるで見当がついていなかったのだ。

「彼等はこの魔法界に長く生きている存在だからね。この場所に訪れる危機をいち早く察知して、人間に知らせに来ているんだよ。
ホグワーツに訪れたのは、彼等が仕えるべき「主」を探しに来るためだね」

「そんなにも偉い存在なら、人間の力なんて借りなくたっていいような気がするけれど。自分で片付ければいいだけの話じゃないの?」

「人間を嫌っているポケモンならそうしていると思うよ。でもほとんどの場合、彼等は必ず人間の前に姿を現すんだ。
彼等の守りたい世界に住んでいるのは、ポケモンだけではないからね。人と力を合わせなければ守れないものがあると、彼等は解っているんだろう」

その言葉を受けて私は、朝の図書館に集う精鋭達をぐるりと見渡した。
どの生徒も思い思いに自らの学問に勤しんでいて、あの大きなゼクロムとレシラムがホグワーツに姿を見せた理由など、全く拘泥していない様子であった。
だからきっと、気にしない方がいいのだろう。私も早く、ゼクロムとレシラムのことなど忘れてしまえばよかったのだろう。

「あの類のポケモン達は、僕なんかよりもずっと見る目があるからね。彼等が選んだ存在なら、僕も安心して任せられる」

「任せるって、レシラムとゼクロムを?あんな大きな存在をただの生徒に任せるなんて冗談じゃないわ。先生が面倒を見た方が確実でしょう?」

トウコさんは、ゼクロムのことが嫌いなのかい?」

私は、ぞっとした。
ウツギ先生のその言葉には、蔦が生えているような気がしたのだ。
蔦の形をしたその言葉は、私の腕に、喉に、ぐるぐると絡みついて、もう二度と離してはくれないような風であったからだ。
アクロマさんも、クリスさんも、グリーンもレッドも、Nでさえも、誰もウツギ先生の言葉を止めないのだろうと、私は察せてしまったからだ。

「……別に、ゼクロムのことは嫌いじゃないわ。私とNのことをあちこちで噂する声が聞こえてくるのが、鬱陶しいだけ。
私もNも何もしていないわ。ただあの二匹に近付いただけじゃないの。私達に何を期待しているのか知らないけれど、私はそんな大きな役目、真っ平御免よ」

「近付いたじゃないか」

小さなその言葉に、図書館が沈黙した。
それは滅多に言葉を発さないレッドの声で、私は勿論のこと、この場にいたほとんどの人間が驚いていた。
唯一、クリスさんだけがいつものように、レッドが口を開くことをずっと前から予見していたかのような笑顔で「そうだよね」と静かに、同意した。

「ああいうポケモンは、普通の人を近くに招かない。そうでなくとも普通の生徒は、あの迫力に圧倒されて近付けない」

「……」

「でも君は近付いた。ぼく等はそうやって招かれてきた」

ぼく等、という言葉に、レッドの隣に座っていたグリーンが肩を竦めて笑う。本のページを捲りながら、クリスさんがそっと微笑む。
ランス先生が大きく溜め息を吐いて、去年の秋、私達をこの図書館に招いたときを再現するように、全く同じ抑揚で「地獄へようこそ」と紡ぐ。
ウツギ先生は私の逃げ道を塞ぐように、私が拒絶する理由を奪うように、にっこりと微笑んだまま「Nくん、レシラムは嫌いかい?」と尋ねる。

「……いや、スキだよ」

Nがポケモンを嫌ったことなど一度もない。ウツギ先生でなくとも、私でなくとも、彼を知る全ての人間が予測できた答えだ。
そんなありふれた答えを声に出させる理由を、私はとてもよく解っている。
「君の片割れだけにこの役目を負わせるつもりかい」と、ウツギ先生は無言の内に私を脅迫しているのだ。

『私達を利用してやろうとする狡いウツギ先生のことは、私達が逆に利用してしまえばいいのよ。』
……ああ、クリスさん。私にはそんな力なんてない。私はこの先生を利用するだけの策など持ち合わせていない。
だからどうしても避けたい事柄に対して、嫌だと、冗談じゃないと、駄々を捏ねる子供のように振舞うことしかできない。

「嫌よ、嫌、絶対に嫌。だって皆は私をどう見るの?あんなポケモンを連れている「招かれた」私を見て、皆は、」

トウコさん、でもね、」

「私、やっとここで、私らしく在れると思っていたところなの。自分のしたいように生きて、自分の言いたいことを言える、この場所が大好きだったの。
私はもう、周りの期待に応えなくていいし、周りに勝手なレッテルを貼られることもない。
ホグワーツを守るためとか、伝説のポケモンに招かれる栄光とか、そんなもの要らない。私らしくあるために、そんなものは邪魔でしかない」

いつ、私がそんな栄光を欲しいなどと言ったの。いつ、私がこの魔法界を守りたいなどと大口を叩いたの。
何も言っていない。何も願っていない。むしろ私は拒んでいた。私は私らしく振る舞える場所でだけ、慎ましやかに生きていたかった。
そこに私の大切な存在がいてくれるなら、あとはもうどうだってよかった。自分のことくらい、皆、自分で守って然るべきだ。
自分の何もかもを犠牲にしてでも守りたいなどと思える存在がいるとすれば、それは私の場合、Nを置いて他にいない。
それ以上のものなど、私は絶対に背負わない。私の世界は私が回す。私の世界は私とNを中心に回っている。だから要らない。だから、邪魔だ。

「あんた、私のことが嫌いなんでしょう。本当はずっと私のこと、軽蔑していたんでしょう。だからこんなことするんでしょう!ねえ、そうよね」

「……」

「あんたは私がこういうことを嫌っているって、知っていた筈よ。私がどういう人間か、あんたはとてもよく解っていた筈よ。
だから、私の一番嫌いなものを差し向けるんでしょう。だから、一番残酷な方法で私を利用しようとしているんでしょう」

最低だ、最低。
この先生の誘いに乗ったのが間違いだった。こんな場所があることなど、知らなければよかった。
クリスさんにも、アクロマさんにも、出会わなければよかった。レッドやグリーンとも親しくならなければよかった。
私は世界を真に、私とNだけで回しているべきだったのだ。そうした閉じた世界で生きるのが私にはいっとう似合っていたのだ。

優しくない世界に突き飛ばされるくらいなら、いっそ最初から、優しい場所など要らなかった。

「それでも僕は、君が、君こそがゼクロムに選ばれるべきだと思っているよ」

そんなウツギ先生の言葉を跳ね退ける術を持たない以上、私はこうして駄々っ子のように、
ゼクロムとレシラムを、ウツギ先生を、アクロマさんやクリスさんやレッドやグリーンを、この朝の図書館を、恨むしかなかったのだ。

私は「英雄」にされようとしていた。

それはこれまでの私には悉く不釣り合いな、生まれて初めての体験であるにもかかわらず、私の魂はその単語をとてもよく知っているような気がした。


2017.12.25

© 2024 雨袱紗