「ズミさん、最近調子がいいですね」
同僚にそんなことを言われて、ズミは真面目な顔で考え込む。
確かにそうだ。自分の調子はすこぶる良かった。新メニューを次々と考案し、その内の何品かは実際にお客様に振舞われた。
その殆どが一人の少女の為に為されたことだと、同僚達は長い時間をかけて察しつつあった。
少女が初めてズミの料理を口にしたあの日から、今日で二週間が経とうとしていた。
「当たり前だろう。今のズミさんには彼専属の天使が付いているんだ」
「……その言い方は止めなさい。お客様に聞こえたらあらぬ誤解を招いてしまいますよ」
自分と少女とはそうした関係ではなかった。毎晩のように料理を振る舞い、話をする。その関係に未だ名前はなかった。
それは断言出来ることだが、しかし少女のおかげで料理人としての生活に張合いがあると感じているのも事実だった。
あれから少女が口に出来るものは少しずつ増えていった。
野菜を柔らかめに煮込んだポトフ、スパイスを効かせたリゾット、少しビターなカラメルソースをかけたカスタードプディング。
そんなものをズミは作り続けていた。その全ての料理が少女の好みにより少しずつ変化していった。
チョコレートに目がないのだと思っていたが、彼女は二つ以上の味を同時に舌で転がすのが好きらしい。
ビターチョコレートや苦いカラメルソースは彼女にとても喜ばれた。そんな彼女を見ることでズミは報われた。
フルコースを振る舞える日も遠くないだろうと確信出来た。
「そうそう、今日は特別なお客様がお見えになりますよ」
「誰です?」
そんな自分達の関係を何処まで知っているのか、同僚は意味あり気に笑って紡いだ。
「プラターヌ博士ですよ」
*
全ての料理が素早く平らげられていく。
美味しいねと常套句を紡ぎながら、彼は決してその人畜無害そうな笑みを崩さない。
しかしそんな博士もズミが認めた人間であり、鋭いことにその変化を指摘してみせた。
「味が少し変わったね」
「!」
「ボクもこっちの方が好きだよ」
ああ、この博士は全て知っているのだ。ボク「も」と紡いだ、無駄のないその一言に全てが凝縮されていた。
自分が今も少女に料理を振る舞い続けていること、それを彼女が少しずつ口にしてくれるようになったこと。
彼はあの時、誰よりも少女を案じていた。そしてズミよりも遥かに大人だ。彼女の変化は容易に察することが出来たのだろう。
「ボクが腫れ物に触るように、彼女に接していたことは認めるよ。ボクにはそうすることしか出来なかった。彼女を傷付けないようにすることで精一杯だった。
だって少しでも力を加えたら、壊れてしまいそうだったんだ。だから荒療治である君のやり方が許せなかった」
「……」
「馬鹿げているよね。そうして思い切った行動に出られなかった結果、ボクは既に一人を失っているのに」
デザートのティラミスを掬いながら彼は疲れ果てたように笑った。
そこには後悔、やるせなさ、諦念、そんな様々なものが輻輳していた。
だからこその深い目がそこにあり、それはズミにはまだ持ち得なかったものだった。
「それは、貴方が私よりも長く生きてきたからでしょうか」
「そうだね、人は歳を重ねると臆病になるみたいだ。……ねえ、君はボクみたいになっちゃ駄目だよ」
そんなことを言う彼にズミは苛立った。
きっと自分はどう足掻いても彼のようにはなれない。全ての可能性に怯え、傷付けることを恐れ、だからこそ最大限に優しく人に接しようとする。
そんな素質は、重ねた歳の差だけが為したものではないとズミは気付き始めていた。
プラターヌとズミは同じではない。しかしだからこそ、少女にズミとは全く別のものを与えることに成功していたのだ。
ズミは久しぶりに声を荒げていた。
「貴方は自分の行動が彼女にマイナスの影響しか与えていないと本気でお思いですか」
「え……」
「貴方の優しさを彼女は解っています。だからこそ、それに甘えることが出来なかった。貴方を大切に思っていたからです。
それは彼女の落ち度であって、博士、貴方の責任ではない」
少女をあの時まで支え、生かし続けてきたのは紛れもなく目の前の人間だ。
自分の荒療治がたまたま彼女の琴線に触れただけのことで、本当に報われるべきは寧ろ彼の方だったのだと。
しかし自分は手を伸ばしてしまった。奇妙な出会いから始まった少女との関係は、少しずつ、けれど確かに二人を変えた。
それに感謝しこそすれど、目の前の彼を責めたり、無力だったと嘲笑う理由は何処にもないのだ。
「もっとも、私もこの役目をお譲りする気は更々ありませんが」
「やだな、取ったりしないよ。これは君にしか出来ないことだ。……ありがとう」
幾分か穏やかな顔で彼は笑った。
「君の荒療治に反発しながら、ボクは何処かでそれがプラスに働くことを望んでいたんだと思うよ」
「……つまり最初からこの厄介事を押し付けるつもりだったのですか」
「結果的に、君がそれを好いてくれて嬉しいよ」
何処までも食えない博士だとズミは苦笑した。
しかしズミは嘘をついてはいない。厄介な役目だと思いながら、それを手放せずにいるのはズミの方でもあるのだ。
ラストオーダーを告げるベルが鳴った。席を立つ人が疎らに見受けられる中、彼もティラミスを綺麗に平らげてスプーンを置いた。
「此処のフルコースを食べられる日を、シェリーはとても楽しみにしているよ。
……なんて、ボクが言わずとも知っていたかな?」
勿論ですと返したかったが、足早に立ち去った彼の後ろ姿はそれを許さなかった。
しばらくして、いつものようにドアの開く音が聞こえる。
2013.11.22