プラターヌが少女を自分の研究所に迎えて数日が経った。
自分の不規則な生活に少女を巻き込んでしまわないよう、夜に眠り朝に起き、食事を抜かさないよう心掛けていた。
彼女は何も言わないが、出した量の少ない食事には残さず手を付けるし、夜も一応眠っている。
一先ず、人並みの生活を受け入れてくれたことに彼は安堵した。先ずはこれで十分だと思ったのだ。
夜中に起きている少女を見つけた時は、一杯のカプチーノを持たせて朝までお喋りに興じた。
といっても、少女は何も喋らない。彼が勝手に紡ぐ言葉を、ただ頷いたり首を捻ったりして聞いているだけだった。
しかしそれが彼女なりの甘えだと信じたかった。彼女は話すことに強烈なコンプレックスを抱いていたからだ。
少しずつでも、カロスの言葉に慣れて欲しい。そんな思いで、出来るだけ簡単な言葉を選んで彼は話をした。
ポケモンと共にした旅は確かに少女をトレーナーとして成長させたが、カロス地方の人間になる手助けには些か足りなかったらしい。
自分とのどうでもいい世間話が、そうした練習の一助になればいいと思っていた。
彼に出来ることは、もうそれくらいしか残っていなかったのだ。
*
ミアレシティを豪雨が襲った。沢山の人の賑わいも、今日は雨音がその全てを攫ってしまったらしい。
多くの店がシャッターを下ろしている。研究所も同様で、出勤している研究員は誰もいなかった。
シェリーはプラターヌの自室にある窓から、土砂降りの町を見下ろしていた。
僅かに窓を開けると、容赦ない冷たさが肌を突き刺した。雨音が耳の奥で反響した。こんなに静かなミアレの町は初めてだった。
「凄い雨だね」
彼のその言葉に頷く。差し出されたカプチーノを両手に持ち、そっと口に含んだ。
彼は少女の言葉を強要しない。残酷なまでに優しい。そんなことをして貰える資格は自分には無いのに。
しかしそれを拒む力は彼女にはなかった。それ程に彼女は疲れ果てていたのだ。
「シェリー、絵は好きかい?」
「……はい」
「じゃあ、美術館に行こう。今日は仕事もお休みだからね。
君も、此処にこもってばかりじゃ退屈だろう?」
美術館は年中無休だ。雨が降ろうが槍が降ろうが開館しているらしい。
勿論、そのカプチーノを飲んでからで構わないよと言った彼の行為に少女は甘えた。
気にはなっていたその建物に、少女が訪れたことは今だ嘗てなかったのだ。
「無料、ですか?」
「そうさ、だから手ぶらで構わないよ」
怯えたように質問を紡いだ少女に彼は苦笑した。
自分に対してもこんな調子なのだ。赤の他人や同年代の子供達と打ち解けられなかったのも頷ける。
そして、それはきっとフラダリに対しても同じだったのだろう。
少女が言葉を紡ぐ余地はなかった。それを彼はフラダリカフェでの一幕で理解していた。
そんな少女が自らの信念の為に、言葉のないまま立ち向かった。少女の行動は言葉よりも雄弁だった。
ポケモンバトルという手段は少女にとって、言葉の代わりとなるものだと思っていた。
だからそれを使って彼と向き合った。言葉の代わりとなるものをぶつけ合った。
それが彼女のコミュニケーションの手段となるのなら、それでもいいと思っていた。しかし、それではどうにも足りなかったらしい。
歯痒い思いをしていたのはプラターヌだけではない。彼女もまた、自らの無力さにもどかしさを感じていたのだ。
彼より遥かに大きなものを持ちながら、それよりもっと浅いところでもがき苦しんでいたのだ。
*
エレベーターを降りて外に出ると、容赦無く雨が降りつけてきた。
慌てて傘を広げ、少女を手招きして中に入れる。その歩幅に合わせるようにゆっくりと歩いた。
いつものように他愛もない世間話を重ねる。雨音に掻き消されないように少し大きな声で紡ぐ。
少女はそれにただ頷いていた。
しかし美術館に着き、傘の雫を外の屋根の下で落とそうと振っていると、徐に少女が口を開く。
「私の友達は、」
「!」
「絵を、書くのが好きです」
少女から提起された話題に、彼は慌てて振り返った。
彼女の目は真っ直ぐに彼を見つめていた。ぎこちなく次の言葉が紡がれた。
「過ぎる一瞬を、永遠にしたいと言っていました」
彼女がいう「友達」のことを、彼は以前聞いて知っていた。
プラズマ団を全く違う形に再興させた若干14才の子供の話は、カロス地方にも届いていた。
あの時は、彼女と少女とが知り合いだという事実に驚いただけだったが、今になると、彼女にそんな友達がいてくれて本当に良かったと思う。
しかし少女は、その友達にすら劣等感を抱いていたらしい。それを次の言葉で彼はようやく知る。
「シアは、全てを失わずに世界を変えました」
「……」
「私には出来なかった。私は世界を守れる器じゃなかった」
少女は泣かなかった。
「それでも世界を守りたかった」
言葉が出なかった。少女が抱えているものの重さに目眩がした。
この少女をどうすれば救えるだろう。世界を守りたかったと紡いだ少女の荷物を、どうすれば取り除くことが出来るだろう。
「辛かったね」
やっとの思いで紡いだその言葉に、少女は僅かに微笑んだ。
心臓に手を突っ込んで抉られる心地がした。雨音が次の言葉を飲み込んだ。
2013.10.27