カロスはその土地によって気候の変化が大きく変わる。
西の海に面するショウヨウシティやヒヨクシティでは一年中温暖な気候であるが、逆に東の標高が高いところ、フロストケイブやエイセツシティでは積雪が絶えない。
今から向かおうとしているレンリタウンもまた、ミアレシティやコボクタウンの温暖な気候とはかけ離れた、冷たい寒さが肌を刺す町であった。
持って来ていた黒いトレンチコートを羽織った。少女は鞄から檸檬色のマフラーを取り出してふわりと巻いた。
大きな滝とレトロな駅のあるこの町は、しかしミアレシティのように活気に溢れている訳でも、コボクタウンのようにどこまでも静けさを貫いている訳でもない。
常に聞こえてくる滝の水音が、僅かに行き交う人の靴音を飲み込んでいた。圧倒的な自然の響きは人の歩みをなかったことにしてしまうのだ。
「住むならこういうところがいいわね。ポケモンリーグからもそう遠くないし」
「パキラさん、引っ越すんですか?」
「……どうしようかしら。まだ決めていないけれど、でもこの町は悪くないでしょう?」
彼女は少し迷った後で「ミアレシティよりは、静かでいいと思います」と、好き嫌いを抜きにしたそういう評価で言葉を濁した。
上手い逃げ方を思い付いたものだと思いながら、そのポニーテールを乱暴に掻き混ぜる。クスクスと笑いながら華奢な方が竦められる。巻き残ったマフラーがふわふわとはためく。
水音に少なからず難色を示したファイアローをボールに戻し、感謝と労いの言葉を掛けてからポケットに仕舞った。
鞄を提げていない方の手で少女の手を引き、階段を上がって滝の落ちる水辺へと歩みを進めた。
踵の低いブーツが水たまりを踏みしだく度に、ちゃぷんと波打つ気配がするが、しかしその音は目の前で激しく流れ落ちる滝に掻き消されて彼女たちの耳には届かなかった。
小さな小さな水しぶきが頬に降ってくる。その冷たさに少女は小さく悲鳴を上げるが、しかし文句を言うことなく、寧ろ積極的にパキラの隣をそれなりに大きな歩幅で歩いた。
「滝なんて、どこにでもあるありふれたものだと思っていたんですけれど、でもこうして間近で見ると、なんだか少し怖いですね」
怖い、と口にしながら、しかし少女は歩みを止めない。パキラがもうそろそろこの辺でいいだろうと立ち止まってからも、その手を自然に離して滝へと近付く。
そろそろ引き止めないと水を被って大変なことになってしまうような気がして、呼び止めようと名前を呼んだが、しかしこの水音では声を届かせることも困難であるらしい。
そのまま彼女の細い腕が滝へと伸べられ、凄まじい速度で流れ落ちるその水を、彼女は人差し指で受け止めた。
僅かに顔をしかめた少女のそれが、驚きでも冷たさでもなく、凄まじい水圧が指を叩くことで生じた痛みによるものだと、理解してパキラは溜め息を吐いた。
何をしているの、という呆れの声すら彼女には届かない。そして痛そうに眉をひそめるにもかかわらず少女は滝から指を引かない。
幾分か歪で破滅的なところのあるこの少女は、自らの痛覚を刺激するこの滝をお気に召したらしい。
それがいいことなのか悪いことなのかパキラにはよく解らなかったが、少なくとも自分のいないところで危ないことをされるよりはずっといいと思った。
そしてどんな形であれ、少女がこの滝を気に入ってくれたという事実は、パキラの心臓を仄甘く揺らした。
「早く指を引きなさいよ、冷たいでしょう!」
大声でそう告げれば、それはようやく少女の耳にも届いたらしく、くるりと振り返ってから、しかし決して滝から指を離すことをせずに、あまりにも幸福そうに笑った。
「冷たくて気持ちいいですよ!」
少女らしくない大声がどうにも楽しいものに思えてならず、パキラはやれやれと肩を竦めて笑いながら彼女の隣に並んだ。
そっと指を滝に伸べれば、思っていた以上の水圧が指先を襲った。
肌を刺すような、おそらくは氷点付近まで冷え切ったその水は、冷たさよりも圧倒的な痛みを肌に容赦なく着き刺してくる。
こんなものに何十秒も触れているなんて冗談じゃない。そう思って手を引っ込めたが、少女は未だ人差し指でその痛みを甘受していた。
「あれ、止めちゃうんですか?」と不思議そうに尋ねる少女に、実はおかしいのは自分の方なのではないかとパキラは少しだけ不安になる。
しかし少女の手首を掴んで滝から引き剥がせば、「冷たくて気持ちいい」という言葉に反してその指先は真っ赤になっており、後でしもやけとなることは必至であるように思われた。
そんな悲惨な状態になった指を見遣り、「あーあ」と笑いながらパキラはその指を自らの両手で包む。
冷えないようにと温めようとして触れたパキラの掌は、しかし少女の細い指によって急激に冷やされていった。
けれど冷たくなどないと言い聞かせるように、更に強く力を込めた。少女は不思議そうに首を捻り、クスクスと楽しそうに笑った。
「どうしたんですか?」
彼女自身も、気兼ねなく大声で言葉を発することのできるこの状況を楽しんでいるようだった。
おどおどしていて、内気で、臆病で、そう認識していた少女の全てがこの滝の前では消え失せてしまったように思えて、パキラは少しばかり動揺する。
しかしその変貌のチャンスを無駄にする訳にはいかなかった。パキラは意味あり気な笑みを浮かべてから手を離し、滝を指差した。
「水音が大きいから、此処でなら何を叫んでも、誰にも気付かれないわね!」
ザーッと、今も激しく音を立て続けているその滝の存在を示せば、少女ははっと息を飲むように不自然な呼吸をした。
しばらくの沈黙の後で、「……本当に気付かれませんか?」と念を押すようにパキラに尋ねる。
確認のために彼女を少し離れたところへと追い遣り、そこから「シェリー!」と大きく叫べば、彼女の顔が歓喜にぱっと花開いた。
「本当だ、聞こえませんね!」
大声を出せることが嬉しいのか、それとも誰にも聞こえない言葉を紡げることが嬉しいのか。
パキラは少女の心を読みかねていたが、大きく頷いて彼女が次に取るであろう行動を静かに待った。
彼女はもう一度滝へと向き直り、先程のように指を滝へと伸べることはせず、ただそのライトグレーの目で真っ直ぐに、あまりにも激しい流れを睨みつけていた。
けれどやはり声を張り上げることへの躊躇いがあるのか、しばらくして彼女は困ったように笑いながらパキラを見上げる。
やはりこの少女は自分から動きだすことができないのだと呆れながら、しかしそのために自分がいるのだと心得ていたから、
パキラは手本を示すために思い切り息を吸い込んで、放った。
「私だってティラミスを食べたいのよ!」
「!」
「いつも貴方に譲っているけれど、私だってあのほろ苦いココアの味を気に入っているのよ!だから一口くらい寄越しなさいよ!たまには全部譲りなさいよ!」
滝に向かって一気に言い放ったパキラを、少女は呆気に取られたように見上げていたが、やがて肩を震わせ、お腹を抱えて笑い始めた。
こんな風に思っていることを全て吐き出せばいいのだ。この滝の下では全てが許される筈だと、パキラの示した手本により、少女はようやく納得するに至ったらしい。
意を決したように滝へと向き直った。お腹を抱えるように添えていた両手を、胸のところに構えて押さえつけた。かなり強い力を込めているらしく、指先が白く染まっていた。
そうして、あまりにも長い時間が経った。滝の音だけが沈黙を埋め続けていた。
やはり難しいことだったのかもしれない。
これまでYesかNoとだけ意思表示をすることさえ困難であった少女が、いきなり思いの丈を吐き出せと言われて、言葉を選び取れる筈がなかったのかもしれない。
貴方が叫びたいことを思い付いた時に、また来ましょう。そう告げようとしたその時だった。
「それ」はまるで雷のようにパキラの心へ深々と突き刺さったのだ。
「カロスなんか大嫌い!!」
指先を動かすことさえできなかった。息を飲むことも忘れていた。心臓さえ止まった気がした。
想像を絶する金切り声で発せられた彼女の言葉は、心臓のその奥を強く握り締めるように両手で胸を押さえつけたまま紡がれた彼女の、剥きだしの「本音」は、
しかしパキラがひとたび触れれば壮絶な音を立てて弾け飛び、彼女の下へ戻ってくることは二度とないのではないかと思われた。
それ程に、彼女の口からその言葉が出てきたことはパキラにとって衝撃的だったのだ。
いっそ奇跡と形容できそうな程の、壮絶で残酷で、けれども美しすぎる感情の発露だったのだ。
「私のことを褒めるばかりの皆も、それでいて私のことなんか何も見ていない皆も、
あんなに大きく咲いていた毒の花をなかったことにしてしまう皆も、フラダリさんのことを簡単に忘れてしまう皆も、嫌い!大嫌いよ!」
「……シェリー、解ったわ、よく解ったから、」
もうやめて、と告げようとしたけれどできなかった。この子にこうした叫びを促したのは他でもないパキラ自身であったことを思い出したからだ。
故に自分はその言葉を最後まで聞き届けなければならないのだと、思い直して言葉をつぐんだ。
「いつだって楽しそうなあの子達も、私を敵視ばかりする男の子も、私にカロスエンブレムを押し付けたプラターヌ博士も、
私がどうしようもない人間であることを知っている筈なのに私を手放さない貴方も、そんな貴方にずっと縋り続けている私も……!」
大嫌い。
最後のその言葉は音にならなかった。少女はわっとその場に泣き崩れた。
ふわりと僅かに遅れて地に落ちたマフラーのはためきは、凍り付くように冷たい水を吸い込んで色を変えた。
この子はもしかしたら、この旅行を最後に私の元から去ろうとしていたのかもしれない。
2016.3.13
(楔)