テーブルに運ばれてきた10種のスイーツを昼食代わりに、二人は2時間ほど、いつものように他愛もない話に花を咲かせていた。
このミルフィーユは先週言ったところの方が美味しかったとか、このフルーツタルトの苺は酸味が少なく絶品だとか、トマトのジェラートを食べたのは初めてだ、とか、
そうした何もかもをパキラは饒舌に語った。少女は殆ど相槌を打つだけで、パキラのそうした語りには滅多に口を挟まない。
けれど、それでも十分に楽しそうだった。寧ろ自分が積極的に口を開かなくてもいいというこの状況が、少女の気を楽にさせているのだろうとパキラも心得ていた。
「此処のティラミスは美味しい?」
少女は運ばれてきたケーキやジェラートの類に特に選り好みをすることなく何にでも手を付けたが、ティラミスだけは一度もパキラに譲ったことがないのだ。
彼女の好むそのほろ苦さがたまに欲しくなり、パキラは自分のスプーンを彼女の方へと向けて一口分だけ掬い取ることがある。
大抵の場合、彼女はそうしたパキラの行為に「これは私のですよ」と反論するが、しかし最後にはちゃんと分けてくれる。
そのことをパキラはよく解っているから、そうした過程さえも楽しんでいる。
「美味しいですよ、とても」
「へえ、本当に?私が味見してあげるわ」
「後一口しか残っていない段階になってそんなことを言うなんて、酷いなあ」
知っているわ、貴方が名残惜しそうに取っておいたその最後の一口、それを奪いたかったの。
しかし流石にそう告げることはしない。
そんなことで彼女を不機嫌にさせずとも、惜しそうに苦笑しながら最後の一口をこちらへと差し出してくれる、それだけで十分に楽しかったからだ。
少しだけ身を乗り出してくわえれば、少女はただそれだけのことが嬉しいのか、ライトグレーの目を細めてあまりにも幸福そうに微笑む。
舌を転がるココアのほろ苦さが、パキラの顔にも笑みを作った。
「さて、旅行先だけれど、」と切り出したパキラは、飲み残したコーヒーをくいと傾け、その香りを酸素と一緒に吸い込んでから、さも当然のように告げる。
「カロス地方を巡ろうと思うの」
「え……」
旅行だというからてっきり、ミアレの駅から遠くの地へと渡るものと思っていたのだろう。
あまりにも近い旅行先を提示されたことに面食らい、そして、少しだけ困ったように「そうですか」と相槌を打つ。
「他の場所がいいのなら、今からでも変えることはできるわよ」と意地悪な尋ね方をする。
主導権を握ることを悉く怖がる彼女が、自ら何処かに行きたいなどと口にする筈がないのだと、解っていながらパキラは敢えて少女の逃げ道を塞ぐ。
たとえこのまま自分が代案を提示しなければ、彼女の恐れ嫌うカロスを巡ることになると解っていたとしても、それでも彼女は自分の意見を示すことが恐ろしいのだ。
パキラはそうと解って尋ねたのだ。
「大丈夫です。カロスで、構いません」
「ふふ、そんな顔しないの。他の土地じゃなくていいと言ったのは他でもない貴方なのよ?私は一応尋ねたのだから、不機嫌になられてもフォローのしようがないわ」
などとうそぶいて席を立ち、長い伝票を人差し指と中指でひらりと摘まみ上げる。少女は鞄を抱え、不安そうにパキラの後ろへと続く。
その鞄をおそらくは、これから遠くの地へと運ぶことを夢見ていたのだろう。しかしパキラは彼女の期待に応えることを敢えてしなかったのだ。
パキラとて、慣れない土地に足を下ろす感動を少女と共有したいという気持ちがない訳ではなかった。けれどそんなこと、これからいつだってできるのだ。
四天王とニュースキャスターを務める彼女はそれなりに多忙ではあったが、2日程度の休みを滅多に作れない程にそれらの仕事にこの身を捧げている訳では決してないし、
少女がそうした遠くの地への旅行を期待するのなら、かなりの頻度でそうした機会を設けることだってやぶさかではない。
けれど、今日は彼女と出掛ける初めての旅行なのだ。いつもなら3時間で終わっていた彼女との時間を、24時間、いやそれ以上に奪い取れることの許された最初の日なのだ。
その日を過ごす場所はどうしても、この地でなければいけない気がした。
少女を楽しませるより先に、この地で、この少女に教えなければいけないことが、どうにも数多くあり過ぎるような気がしてならなかったのだ。
「シェリー、空を飛べるポケモンは持っている?」
「……ごめんなさい」
「それじゃあ私の後ろに乗りなさい。一度、コボクタウンに飛ぶわよ」
「いいえ」と答える代わりに「ごめんなさい」と紡ぐ。何も彼女に非などある筈がないのに、彼女はあまりにも軽率に謝罪を重ねる。
それは彼女が我が身を守るための術であると、心得ているから何も言わずに、ファイアローの入ったボールをミアレの大通りに投げ放つ。
先に飛び乗って手を伸ばせば、握ると同時にまたしても「ごめんなさい」と返ってくる。
こういう時には「ありがとう」の方がずっと優しいのだと、しかし彼女は知らない。知りようがない。
*
コボクタウンから西に伸びる7番道路を北に折れ、パルファム宮殿へと続く並木道でふと足を止めた。
パキラのブーツが立てる遠慮のない鋭い音と、少女のパンプスの柔らかで頼りなげな音が響く。
木々の間にさざめく二つの音が規則正しく重なっているのは、パキラが彼女の小さな歩幅に自らのそれを合わせているからだ。
時刻は午後1時を少し過ぎた頃であり、ほぼ真上の空から降り注ぐ木漏れ日が、足元の土をキラキラと照らしていた。
両側の草むらは比較的背の高いものであるらしく、そちらに目を移せば、観光客のものであるらしい帽子が、草むらから頭一つ分だけ顔を出して動いていた。
強い風が草の青い香りを二人のところまで運んでくる。木々を大きく揺らしてさわさわと鳴らし、長い時間をかけて再び静まり返った。
いい場所ね。
ぽつりとそう零す筈だったのだが、それより先に大きく溜め息を吐いた少女の、「空気が綺麗」と目を細めて発せられたたった一言に先を越されてしまった。
「貴方は此処を歩いたことがなかったの?」
「いいえ、歩きました。6番道路の橋の上にポケモンが眠っていて、そのポケモンを起こすための笛を……何故か、私が取りに行くことになってしまって」
最後の方は実に悲しそうな声音で、少女は自らの冒険を語ってみせた。
この少女は自分で何もかもを決めて動くことなどできない癖に、そうした、人との関わりに踏み込むことを極端に怖がるのだ。
放っておけばそれこそ、いつまででも一人でいてしまえるような、一人であることを当然のように思っているかのようなところがあった。
自ら動き出さなければいけないところを恐れ、自分に話し掛けてくる人を悉く恐れた。どうしようもなく、旅に向いていない性分をしていたのだ。
それでも彼女の旅は終局まで途切れることなく、今、その鞄にはカロスエンブレムが付けられている。
祝福されるべきは彼女ではない気がした。
彼女を「そのように」仕立て上げたカロスの連中の手腕が素晴らしいものなのであって、彼女自身はそうした人の思惑に、ただ振り回されていたに過ぎなかったのだろう。
「こんなに静かな場所だったなんて、知りませんでした」
「パルファム宮殿の華やかさだけが評価されがちだけれど、私は寧ろ、この並木道が好きなの。
ミアレシティの賑やかさとも、ポケモンリーグの厳かな雰囲気とも交わらないところにあるでしょう?」
私のお気に入りよ、と付け足せば、少女は慌てたように顔を上げた。
大方、こちらの気分を害さないように卒なく世辞を紡がなければという焦燥に駆られたのだろう。忙しないことだと思った。
普段は自分から何もすることができない癖に、そうした人の心を変に読み過ぎて、空回りして、結果、自分だけが傷付いたような顔をするのだ。
臆病で卑屈な少女だった。とても狡い少女だった。
「別に貴方がどう思っても構わないわ。貴方に好きになってもらいたくて此処を訪れた訳ではないから」
「あ、……ごめんなさい」
はいはい、と適当に相槌を打ちながら、パキラはいよいよおかしくなって笑った。
本当にどうしようもない子だと思った。自分がこんな少女の手を引かねばならない理由など、彼女が赤を身に纏わなくなった今となっては、もう何もないように感じられた。
解っている。そんなことはもう十分に解っている。けれどパキラは此処にいるのだ。少女から逃げていかないのだ。
「貴方はとても頻繁にその言葉を選ぶけれど、別に私は貴方の、臆病で卑屈でどこまでも狡いところに気を悪くしている訳ではないのよ。
それだって貴方の愛嬌でしょう?何をそこまで不安になることがあるの?」
「愛嬌……?」
未知の言葉に触れた子供のように、そのライトグレーの目が大きく見開かれた。強い風が吹いて、大きく擦れる木漏れ日が、その瞳を星のように瞬かせた。
その目に音を吸い込ませるようにはっきりと告げた。愛嬌という言葉を知らない彼女のために、できるだけ簡単な単語を選んで言い聞かせた。
「私は貴方の、臆病なところが好きなの。どうしようもなく卑屈で情けないところも気に入っているの。ごめんなさいと先手を打つ狡さだって、愛おしいのよ」
長く固まっていた少女の口が「どうして」という形を取る。
そこには「私がそうしたどうしようもない人間であると知っている筈なのにどうして貴方は私を捨てないのか」という、彼女の中核を為す疑問が含まれているように思えた。
ああ、この少女は私がどこまでも立派で素敵な女性だからこうして慕ってくれているのだと、私が立派で素敵な女性でなくなったらもう彼女は私を見限ってしまうのだと、
そう認識して、それこそが少女を構成する歪な価値観なのだと理解して、背筋を冷たいものが伝った。この子はあまりにも狡く、そしてあまりにも残酷だった。
けれどパキラはその歪さに染まらない。パキラは少女の心に共鳴できる程、優しい人間では決してない。
けれどそうした全てをこの少女に言い聞かせるには、この木漏れ日の指す小道は少し、静かすぎるような気がした。だからパキラは何も言わずに少女の手を取った。
2016.3.13
(教育者)