1 (Sister)

サングラスを外して、帽子の中に長い髪を隠した。お気に入りのハイヒールの代わりに、動きやすい、踵の低いブーツを取り出した。
ベージュや白といった目立たない色に身を包み、鏡で姿を確認して大きく頷く。炎の色を纏うことを忘れた彼女の心は、しかし確かな高揚と歓喜に燃えていた。

ミアレシティのマンションの一室に鍵を掛け、ドアを軽く引き、しっかりと戸締まりができていることを確認してからパキラは階段を駆け下りた。
少し大きめの白いバッグが、これから始まる時間の長さを予感させた。

3時間ほど、ミアレの通りに構えられた店を冷やかして回ったり、もしくは何処かのカフェでひたすらにケーキを食べながら話に花を咲かせたり、
もしくは四天王の火炎の間にて、凍り付くような緊迫感を醸すバトルを楽しんだり、またあるいは彼女の自室で適当に寛いだり、
そうした何もかもを楽しんでから、遅くならないうちに彼女を送り出すのが二人の中に流れる「いつも」の時間であった。
友人とも同士とも定義できそうな一人の少女との時間は、しかし友人としての節度を守った時間、すなわち3時間以上連続することはないのだろうと思われていた。
けれどつい先日、パキラは行きつけの喫茶店で、その「いつも」を逸脱した誘いを持ち掛けたのだ。

シェリー、私と一泊二日で何処かに出掛けてみない?』

『え?……私とパキラさんが、ですか?』

『そうよ。友達なんだから、旅行くらいするでしょう?お金なら全て私が出すわ。貴方は何も気にせずに、ただ時間だけ作って私に付いてくればいいの。どう?』

ただ私に付いてくればいい。
その、あまりにも個人の尊厳と意思を無視した横暴で遠慮のない言動が、しかしこの少女をこの上なく安心させるものであるのだと、パキラはとてもよく理解していた。

彼女は「自分で決める」ことができない。自分の意見を持たない。YesかNoで答えることが精一杯であり、時にはその意志表示すらしかねるようなところがある。
常識と良識はある程度持ち合わせていたが、それは彼女の意思から遥か遠くを独り歩きするだけで、何の知恵にも力にもなっていなかった。
ひどく要領の悪い子供だった。また悉く臆病な少女でもあった。
だからこそ、パキラはこの少女との関係を少し変えるにあたって、何もかもを自分が決めてしまわなければどうにもならないのだと心得ていた。

彼女は何も言わなければ、少女はきっといつまでもこの関係に甘んじ続けられるのだろう。
パキラが何年待ったところで、この少女が自ら意見や提案を発することができるようになる日など、来る筈がなかったのだ。
肝心なところを測り違えているこの少女に、教えなければいけないことは、山ほどあった。だからこそ今は、手を引いてやらねばいけなかったのだ。

案の定、そう言われた少女は困ったように、しかし少しだけ嬉しそうにクスクスと笑った後で「パキラさんがそうしたいなら、喜んで」と了承の意を示してくれた。

この少女はパキラの言葉を拒まない。拒める筈がない。
おそらくは今も、彼女は怯えているのだろうから。いつ自分がパキラに見限られてしまうのかと、ただ、恐れているだけなのだろうから。

朝の10時、カフェソレイユの前には既に少女が立っていた。カフェの窓を時折チラリと横目で窺いながら、おそらくはそこに映る自分の姿を確認している。
やっぱり変ですか?似合っていませんか?縋るようなか弱いソプラノでおそらくは出会い頭に詰め寄られるのだろう。
そんなことないわ、大丈夫。そう声には出さずに口だけを動かし、彼女のぐらぐらに揺れる自尊心を支えるための気構えをしてから、「シェリー!」と彼女の名前を呼ぶ。
ぱっとその顔に花を咲かせて少女は駆け寄って来た。

長袖のゆったりとした黄色のトップスに、フリルの付いた可愛らしいスカートを履いていた。白い二―ソックスには一本だけ、黒いラインがアクセントとして入っていた。
踵のない淡い色のパンプスを履き、見覚えのある、おそらくはミアレの高級ブティックで購入したのであろう、茶色いリボンをアクセントとするバッグを肩に提げていた。
帽子を被っていないのはおそらく、その長いストロベリーブロンドにヘアアクセサリーを付けたいがための処置だろう。
彼女のブロンドよりも少しだけ彩度の高い金色のコームは、ポニーテールに束ねたその髪を品のある輝きで彩っていた。
そんな「赤ではない何もかも」を身に纏った少女は案の定、少女は不安そうにパキラを見上げて口を開き、矢継ぎ早に疑問を重ねた。

「あの、やっぱりおかしいですか?何処かみっともないところとか、ありますか?私にこの色は似合いませんか?」

「どうして?」

たった一言、その一言でしかし少女はこの上なく安心したらしく、「よかった」と泣きそうな声音で呟くものだから、思わずパキラは吹き出してしまった。
別に少女がそうやって泣きそうに安堵することは珍しいことではない。彼女のその声音がパキラを笑わせた訳では決してない。
だって、ああ、よりにもよって今日、この日だったなんて!

「白が似合うと思っていたけれど、淡い黄色も貴方の明るい肌には映えるのね。変だなんてとんでもないわ、とても似合っているわよ」

「……変じゃないですか?」

「そうね、しいて言うなら今までのセンスが壊滅的だったんじゃない?
私は幾度となく、貴方に赤は似合わないと言ってきた筈なのに、この頑固な子はなかなか言うことを聞かないんだもの」

そう言って彼女のポニーテールをわしゃわしゃと掻き混ぜれば、くすぐったそうに肩を強く竦め、声を上げて笑い始めた。
不安そうに身を強張らせていた彼女の、緊張の糸を緩めることに成功したパキラは、やれやれと呆れたように溜め息を吐いた。
溜め息を隠すような遠慮すべき間柄では、もうなくなってしまっていたのだ。

もうそんなことで悩むのは止しなさい。貴方に似合わない色などありはしないのだから。
きっと赤だって、あんな風に纏いさえしなければ、とても上品に貴方を彩ってくれるに違いないのだから。
そんなことを考えながら、パキラはポケモンリーグで少女の喪服を目にした日のことを思い出していた。
『その服はやめてしまいなさい。貴方に赤は似合わないわ。』
パキラが少女にそう告げてから、もう直ぐ1年が経とうとしていた。

「あの、まだ行き先を聞いていませんが、何処に行くんですか?」

「その前に此処で何か食べていきましょう。好きなものを頼んでいいわ。決められなければいつものように、全部頼んでしまいましょう」

そう言ってパキラは少女の手を取った。はっと驚きに息を飲む音が聞こえたけれど、すぐにそれはクスクスと潜めるような小さな笑い声へと変わった。

パキラはその実、嬉しくて堪らなかったのだ。
だって今、自分が手を引いている少女は、あの人を悼むための同士でも、互いを憎み合うための仇でもない、ただ一人の親しい友人以外の、何者でもなくなっていたのだから。
この少女が赤を纏わなくなるとはすなわちそういうことだったのだ。彼女たちの背にべっとりと貼り付いていた喪の色が、過去の色となったことを意味していたのだ。

……さて、そんな訳でパキラは彼女の手を引いたままにカフェソレイユへと入ったのだが、席に着く前に見知った顔と視線を合わせることとなってしまう。
ビビットな色の髪を帽子に隠し、いつもの赤を身に纏っていないとはいえ、流石に同じ場所で長らく働いてきた相手の顔は彼女も忘れようがなかったのだろう。
現にその女性、カルネは彼女の顔を見つけて、しばらくの硬直の後に「あら、」と意外そうに、しかしパキラであることを確信するように声を零した。

パキラは少女の手を取っていない方の人差し指を立ててすっと口元に構えて笑みを作り、「私の名前を呼んでくれるな」と鋭い目で彼女を威圧しつつ静かに懇願した。
彼女は至極楽しそうに微笑んで頷き、しかしそのまま通り過ぎることはせず「ごきげんよう」とだけ告げて、パキラが手を引くその少女に視線を移した。

「此処で合うなんて珍しいわね。そちらの可愛い子はお友達?」

ああ、この人は、赤を身に纏わない少女を少女だと認識することができないのだ!
長年、同じ場所で働いてきたパキラのことは見抜けても、赤を棄てた少女は完全に、彼女にとっては別人の様相を呈していたのだと、そう気付いてひたすらにおかしかった。
けれど同士でも仇でもなくなってしまった彼女のことを、他者に「友人」だと紹介することは少しばかり気恥ずかしく、
それ故にパキラは一瞬の思索の後で得意気にその単語を選び取った。

「……ええ、そうよ。私の可愛い妹なの」

笑い出したくなるのを堪えるようにするりと言い放ったその嘘が、しかし真実であればいいと、これ程願った日はなかった。
ああ、この子が私の妹であればよかったのに。そうすれば、貴方の手をいつまでも取っていられる理由の何もかもが整うのに。

そうしてカルネがカフェソレイユを出た途端、しかし、珍しいことが起こった。
パキラの後ろで姿を隠していた少女が、声を上げて笑い始めたのだ。
普段から消え入りそうな、頼りない声音しか操らず、たまに軽快に喋り始めたとしてもそれはパキラの自室などの二人きりの場所に限られていた、そんな彼女が、
まるで「普通の少女」であるように、あまりにも朗らかに、楽しそうに肩を震わせて笑ったのだ。
「どうしたのよ?」と尋ねれば、彼女は伏せていたライトグレーの目を真っ直ぐにパキラへと向けて、紡いだ。

「此処へ来る途中、プラターヌ博士とすれ違ったんです。彼も私に気付きませんでしたよ。……赤を捨てれば、私は誰にも気付かれなくなれるんですね」

「あら、それは喜ぶべきことなの?貴方はカロスから忘れ去られたいのかしら?」

からかうようにそう尋ねれば、少女は逆にパキラの手を引いて空いている席へと歩みを進めた。自然に離された手で椅子を引き、パキラに奥のソファを勧める。
くるりと振り返り、「どちらでもいいかなって」と告げる彼女の頬は、チークを置いたようにほんのりと淡く紅い。

「だって私が赤を捨てても、パキラさんだけは私を私だと解ってくれるから」

少女の世界には、きっと少女自身とパキラしか存在しないのだろう。普通なら歓喜して然るべきである筈のその言葉に、しかしパキラはやれやれと微笑み、座る。
彼女の危なっかしさと、それが生む倒錯的な幸福には、もう慣れてしまった。


2016.3.13
(姉)

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