17

この世界にいるどれ程の人が、何の未練もなく死ぬことが叶うのだろう。
プラターヌは「あの日」以来、ふとそう考えることがある。

「プラターヌ先生、こんにちは!」

今日も今日とて分厚い本を抱えて、プラターヌの眼前にふわりと降りてきたこのゴーストも、おそらくは何かしらの「未練」があるから、こうして残っているのだろう。
命を手放すと同時に手放して然るべき「魂」を、彼等は命の巡りの中に預け渡せずにいる。そうした未練を持つ魂を、ホグワーツというこの場所は寛容にも受け入れている。

何もかもに折り合いをつけて平穏に笑うには、80年という時間はあまりにも短い。

ゴーストという存在は、その未練を取り払うために、此処にいる。彼等は何もかもに折り合いを付けるために、このホグワーツで生き直している。
平穏な状態で命の巡りの中に戻れるように、彼等は今日もこうして漂っている。
きっとこの中に「彼女」もいる。彼女は今日もきっと、何処かで誰かを勇敢にしている。そしてそれと同じ数だけ、今日も何処かで誰かに忘れ去られている。
彼女が望んだから、そうなっている。

12月も半ばに差し掛かろうとしていた。プラターヌは「彼女」のことを忘れたままだ。
忘却呪文に期限など存在しない。あれは記憶を封じ込める魔法ではなく、記憶を抹消する魔法なのだ。
消えたものを再び引きずり出すことなどできない。故に彼が「彼女」の姿を、声を、名前を思い出すことは、二度とない。

それはおそらく「悲しい」ことではなかったのだろう。
生きているプラターヌと、生きていない彼女とが、それぞれの在るべき場所に戻っただけのことで、何ら悲しむべきことではなかったのだろう。
彼は悲しくなかった。けれどどうしようもなく寂しかった。それが当然の感情だと解っていたから、彼はもう動じなかった。

「そうだ、先生。私はもう無名のゴーストじゃなくなったんですよ!」

「えっ、それはどういうことだい?」

「尊敬していた人から、アルファベットを受け継いだんです。今日から私のことは「C」と呼んでください!」

優秀なゴーストに「呼称」が授けられることはプラターヌも知っていた。
彼等は本名を口にすることを許されていないので、往々にして無名であることが多い。アルファベットや番号で名乗りを上げることが許されるゴーストは、ごく一部だ。
知り合ってから11年間、この本好きのゴーストはずっと無名だったのだが、ようやくアルファベットを名乗ることが許されたらしい。

どういった仕組みで呼称の認可が下りているのか、死んだことのないプラターヌには全く想像もつかなかったのだが、
尊敬していた人と同じアルファベットを名乗れるということが、この11年来の友人にとって喜ばしいことである、ということだけはしっかりと理解できた。
故に彼は特に何の躊躇いも持たずに「おめでとう!」とこのゴーストのことを祝福した、ゴーストは、……いや、Cはふわりと陽に溶けるように笑った。
色がないこと、透けていることを除けば、彼女もまた、生きているかのようだった。おそらく此処にいる全てのゴーストが「そう」だった。

「ねえC、君に訊きたいことがあるんだ。いいかな?」

「あら、ゴーストに質問だなんて、プラターヌ先生も随分と大胆になりましたね」

……生きている者が死んでいる者のことをあれこれと詮索するのはマナー違反である。
プラターヌもそのことはとてもよく心得ていた。おそらく今からプラターヌが為すことは禁忌のギリギリのところを走っているのだろう、ということも解っていた。
それでも、尋ねておきたかった。そしてそのような無礼を働ける相手がいるとするならば、それはこのCを、11年来の友人であるゴーストを置いて他にいないのだと、思っていた。
Cは困ったように肩を竦めてクスクスと笑いながら、右の手の平をすっとこちらに向けて「どうぞ」と促す仕草を取り、彼が今から働こうとしている無礼を許してくれた。

「ゴーストを、生きているように見せる魔法があることは知っているかい?」

『君の話を信じるなら、彼女は本当に質量のある人間の姿で君の前に現れていたということになる。
それを可能にする魔法は確かにあるが、魔法があることと、それを使いこなせるのとは別の話だ。並の魔法使いにできることでは決してない。』
プラターヌが「彼女」を忘れたあの日、フラダリはプラターヌに3つの疑念を話した。
そのうちの一つが「彼女がまるで生きている人間であるかのように見えていた」ことへの疑いであり、プラターヌはその疑念に適切な答えを用意することができなかった。
……というのも、プラターヌはゴーストになったことがないのだから、そのような魔法を調べる必要がまるでなかったのだ。

ゴーストの形に変化をもたらす魔法を使いこなせる誰かが存在するとすれば、その「誰か」はゴーストであると考えて然るべきだ。
そして案の定、Cは「ええ、勿論知っています!」と大きく頷いて、プラターヌの知り得ない情報を教えてくれた。

「実は、その魔法を作った方がこのホグワーツにいるんですよ。ただものすごく難解な魔法だから、彼女にしか使いこなせないんじゃないかしら」

「……その人に、ボクも会えるだろうか?」

「あはは、きっともう何処かで会っていると思いますよ!Kさんはその魔法を自分に使って、ホグワーツを気ままに練り歩くのが大好きですから」

命のない者に質量を持たせる魔法は確かに存在している。その魔法を作った人物は、今もゴーストとしてこのホグワーツに留まっている。
Cが「彼女」と口にしたところからして、その「K」というゴーストは女性なのだろう。
けれど「K」にしか使うことのできない程に難解なその魔法を、どうしてあの子が使いこなせていたのか、その疑念はどうにも晴れてはくれなかった。

「あと、君は忘却呪文を自在に使える?」

「オブリビエイトですか?使えますよ。忘却呪文なんて、生きているように見せる魔法に比べたらずっと簡単です。無言呪文として使える人もいるくらいですから」

『それに、彼女と過ごした時間に関する記憶が、君の中に残っているということも気になる。
わたしが噂で聞いた限りでは、彼女と関わった人間は、彼女が「いた」ことさえ忘れてしまうようであったから、君の忘れ方は少し、不自然だ。』
フラダリが口にした二つ目の疑念は、プラターヌの「忘れ方」にあった。
彼はあのゴーストと過ごした時間の全てを、彼女と交わした言葉の全てを覚えており、彼女を「彼女」だと断定する要素だけが彼の記憶から引き抜かれてしまっていたからである。
忘却呪文にそうした選択性を持たせることもできない訳ではないのだが、これも同様に高等な、手間のかかるものであった。
けれどCの尺度で「ずっと簡単」とするところからして、長く此処にいるゴーストの大半は、そうした呪文を使いこなせるようになっているものなのかもしれなかった。

けれど何故、彼女はそのような手の込んだ忘却呪文をかけたのだろう。それに何故、彼女の身体は数か月の間、ずっと透けなかったのだろう。
解らない。Cは惜しみなく情報を与えてくれはするが、それはあくまでも判断材料であり、それがそのまま「答え」になることは在り得ない。
答えを下さい、と求めたとして、そんなものはおそらく誰にも差し出せない。

「ふふ、貴方が何を探ろうとしているのかはよく分かりませんが、あまりこちらに深入りしすぎると危ないですよ。貴方は生きているんですから」

笑顔でそう告げつつ手元の本に手を掛け、パラパラと捲り始めたCにプラターヌはさっと顔を青ざめさせた。いけない、まだ、一番問いたかったことを問えていない。

「待ってくれ、まだあるんだ。君達は本名を呼ばれると消えてしまうのかい?」

『貴方は彼女の「名前」を覚えていると言っていたが、そのようなことは在り得ないんだ。
ゴーストは自分の本名を口にすることが許されていないし、大抵の場合、彼等の本名は彼等自身の「消滅の呪文」になっている筈なのだから。』
フラダリの最後の疑問は、プラターヌをも驚かせていた。彼はこれまで幾度となく、彼女の名前を呼んでいた筈であったからだ。
旧友の言っていることが本当ならば、彼は幾度となくあの少女を消滅の憂き目に遭わせていたということになる。

『××、待ってくれ、』
あの時、名前を呼んだのがいけなかったのだろうか。彼女の名前を呼び過ぎたから、彼女は形を保っていられなくなったのだろうか。
そのような懸念をプラターヌはあの日以来、ずっと持っていたのだが、Cは声のトーンをすっと落として、彼のそうした懸念を冷たくあしらった。

「確かに多くのゴーストが、生前の本名を消滅の呪文にしています。でも死者の本名なんて、知ろうと思えばいくらでも知ることができるでしょう?
だから本名を知られたところで、そう呼ばれたところで何の支障もありません。大事なのは命のない人間が、命があった頃の名前を唱えること、命を乞うことにあるんです」

「……それじゃあ、君の名前をボクが呼んだとしても、君はいなくなったりしないんだね?」

「プラターヌ先生、もうやめましょう。このまま続けていると、貴方のことを嫌いになってしまいそうです」

Cは、プラターヌの11年来の友人は、半透明のゴーストは、毅然としたメゾソプラノで、彼がこれ以上の詮索をすることを厳しく禁じた。
責められている。そう理解するや否や、プラターヌは罪悪感と羞恥に顔を赤くした。
どうして踏みとどまれなかったのだろう。どうしてこの友人への配慮を欠いてしまったのだろう。どうして知りたいなどと願ってしまったのだろう。どうして。

いよいよ泣き出しそうになって、プラターヌは子供のように深く俯いた。
そして事実、この長くホグワーツに存在し続けているゴーストの前では、22年しか生きていないプラターヌなど幼子同然であったのだろう。
だからCとて、無礼を働いたプラターヌという「子供」に対して、いつまでも憤っている訳にはいかなかったのだ。
困ったように眉を下げて笑い、声をいつもの調子に戻して「ふふ、冗談ですよ!」と告げることが、彼よりもずっと長く存在し続けた彼女の、ゴーストの矜持であったのだ。

「私は欲張りなので、貴方がちょっとくらい無礼なことをしたところで、貴方のこと、嫌いになんかなれないんです。
でも、覚えておいてくださいね。私達の世界は、貴方が思っているよりずっと悲しいところなんです。命を持ったままの貴方が易々と踏み入っていいところではないんですよ」

この半透明の友人が口にする「悲しい」は、殊の外、プラターヌにずしんと重く響いた。
悲しいのだ。ゴーストに色がないこと、その身体が透けていること、触れられないこと、質量がないこと、それは悲しいことなのだ。
命がないということは、悲しいことなのだ。

けれど「彼女」は違った筈だ。彼女は鮮やかだった。彼女に触れられていた。彼女は、悲しくなどなかった筈だ。
彼女もプラターヌも、ただ、寂しいだけであった筈なのだ。


2017.3.23

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