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「あれ」から1週間が経ち、無名のゴーストは先週の涙をなかったことにするかのような笑顔で食堂前の廊下に現れ、「プラターヌ先生!」と朗らかな声音で彼を呼んだ。
慌てて振り返れば、分厚い本を広げたままに、彼女がすうっと宙を駆けてくる。
プラターヌは苦笑しつつ「やあ、元気になったんだね」と安堵を示す言葉を紡ぐ。「ええ、もう大丈夫です」と、頼もしい音が降ってくる。

「それはよかった。常日頃から君は明るい子だと思っていたけれど、立ち直りもやはり早いんだね」

「あれ、そう見えましたか?これでも今回は随分と長く引きずった方なんですよ」

今回は、と口にしたところからして、彼女の別離体験は今回が初めての事ではなかったのだろう。
11年前、プラターヌがホグワーツに入ってきたときから彼女はずっと此処にいる。少なくとも彼女は11年前からずっとゴーストのまま、此処で暮らしている。
ゴーストがどういった風に現れてどういった風に消えていくのか、プラターヌは全く知らなかったが、おそらくゴーストには「分かってしまう」ものなのだろう。

プラターヌはその魂の行方を知ろうとは思わなかった。
生きている者にしか命の温度を感じ得ないように、生きていない者にしか魂の在処とその行き先は解らないのだろうと、
その、ともすれば神聖めいた神秘的な壁を、プラターヌはこのゴーストに質問することで壊したくはなかった。
生きている者と生きていない者との間には、どう足掻いても超えられないものが確かにある。そして、それでいい。

「君は、」

プラターヌはそう言いかけて、やめた。自分があまりにも残酷なことを問おうとしていることに気が付いてしまったからだ。
けれどこの聡明なゴーストは彼の言わんとしていることに気が付いてしまったらしく、クスクスと楽しそうに笑いながら首を振る。

「私はいなくなったりしませんよ。私の大好きな人の多くはまだ「こっち」にいますから」

「君には大好きな人がとても多いんだね。……ごめん」

彼女は大きく目を見開いて、不思議そうに首を傾げた。
けれど11年の付き合いである彼女にも、プラターヌの謝罪が挨拶のようなものであることなどよくよく解っていたから、
その疑念をいつまでも引きずったりせず「いいんですよ」と、解らないなりにプラターヌを許していた。

授業、応援していますね。そう告げて彼女は本を開き、宙をふわふわと漂いながら図書館の方へと向かっていく。
プラターヌの後ろにいた二人の女生徒が「わ、何あれ!」と、宙に浮かんだ本を指差してそう叫ぶ。
おそらく二人にはあのゴーストが見えていないのだろう。そういうものだ。ゴーストとは万人に知覚してもらうことの叶わない、ひどく曖昧で儚いものなのだ。

けれど彼女はそんな「非存在」を意味する声音や、彼女自身の「曖昧性」を示す姿などどこ吹く風といった具合に、本に落とした視線を全く上げようとしない。
声を、不安を、無視しているのではなく、本当に聞こえていないのだろう。本当に、彼女は自らの曖昧性を不安に思ってなどいないのだろう。
何故ならその手元には本があったからである。彼女はもうすっかり本の世界の住人になりきっており、「こちら」の驚愕、不安、憂愁とは別のところを生き始めていたからである。
どうやらゴーストになると、魂の置き場所さえも選べるらしい。プラターヌはまた一つ、このホグワーツに漂う魂の秘密を知ってしまう。

そうしてしばらく廊下を歩いていると、プラターヌは見知った顔を見つけた。
向こうもプラターヌの姿をその目に認めているらしく、泣きそうに見開かれたその目には、困ったように笑う彼の顔がしっかりと映っている。

「おはよう」

ラルトスを抱きかかえた少女はプラターヌを見上げる。ラルトスの赤いツノは、ふわふわと覚束なく光っている。
彼女は目に涙を溜めながら大きく頷いて、プラターヌと静かにすれ違う。廊下の壁と一体化してしまいそうな程に、彼女は「隅」を好んで歩く。
プラターヌは一度だけ振り返り、彼女のそうした姿を視界に収める。収めてから、歩幅を大きくする。これから飼育学の授業が控えていたからだ。

少女を飼育エリアに連れていったあの日を境に、プラターヌと少女はホグワーツ内でも挨拶を交わすようになっていた。
彼女は相変わらず、目に涙を溜めて廊下を歩いており、プラターヌも少なからず緊張した面持ちで人の波に流されていた。
そんな二人が互いを見つけると、その恐怖と緊張の心地が一瞬だけ、和らぐのだった。

「おはよう」「これから授業かい?」「やあ、今日は特に寒いね」「ボクも頑張ってくるよ」
そうした短い言葉だけが紡がれていた。3秒程度にしかならない時間だった。
プラターヌが足を止めて一言紡ぎ、少女が彼を見上げて大きく頷く。彼が再び足を動かせば彼女はさっと俯いて、小さな歩幅で廊下の隅をゆっくりと渡り始める。
たったそれだけの時間、その3秒には大きな意味があった。少なくとも彼にとってはそうであったのだ。
ホグワーツの何もかもに悪意を見出し、ホグワーツの何もかもに恐怖していた彼と彼女が、けれどこの瞬間だけは互いという存在を、確かな味方として傍に認めることができている。
プラターヌはそのことに心から安堵していた。味方が少なくとも一人はいてくれているという事実、そしてその味方が他の誰でもない「彼女」であるという事実が、嬉しかった。

誰よりも泣き虫で、誰よりも怖がりな少女だった。あの海を褒めながら、プラターヌに憤りさえした少女だった。
そうした存在から受け取る視線が、悪意の感じられないその純な視線が、プラターヌに与えた勇気は計り知れなかった。
次の授業も乗り越えてやろうと、こなしてみせようと、そうした気概を持つことができるのだった。……彼女にとっても、そうであればいいと思っていた。

「さあ、席に着いて。授業を始めるよ!」

そうして彼は教壇に立つ。チョークを浮かせて黒板に文字を書き、教科書に書かれていないことも細かく教える。
飼育学という授業を「心から楽しみにしている」という生徒がいないことは彼とてよく解っていた。それでも彼は熱弁を振るった。そうした勇気を彼は思い出しかけていた。

眠そうにしている生徒、こちらを見ることなく呪文学の教科書を開いている生徒、ペンを構えて真剣に聞いている生徒、笑顔で相槌を打っている生徒……。
そうした全ての存在に「悪意」を見出す癖はまだ消えていない。彼は未だに生徒を恐れている。ホグワーツに生きる全ての人を恐れている。
その臆病が彼自身の首を絞めていることだって、彼にはとてもよく解っている。

『私、海が好きです。貴方の作ったこの海が好きです。だから悔しい。』
『貴方が貴方の言葉でこの海の価値を貶めていることが、とても悔しい。』

その臆病を彼女は「叱った」。彼がその臆病と卑屈を内省できなかったから、彼女が大声で、叱った。
あの日の彼女の確かな叱責が、プラターヌをこの教壇に立たせていた。臆病でも、卑屈でも、悪意に満ちていても、彼は教壇に立たねばならなかった。

彼には心を折れない理由が出来た。その理由とは正しく「シェリー」の形をしているのだった。

そうして彼は授業時間ギリギリまで授業を行い、チャイムの音と同時に話を終える。
大きな欠伸をしながら席を立つ者、競うように教室を出て行く者、席に残って談笑する者、様々だ。
そうした生徒の姿を見ながら、彼は杖を一振りする。そうすれば黒板に書かれた彼の字は一斉に、ふわっと浮き上がってパチンと消えるのだ。

「あ、待って!」

けれど今日、プラターヌの杖は振られることなく宙で固まることとなってしまった。
慌てて振り返れば、いつも最前列で授業を受けている女の子が「消さないで!まだ書いているところなんです」と告げつつ、ブロンドを靡かせながら駆けてきていた。
縮小呪文で小さくしているビビヨンの羽は鮮やかな紅色をしており、それが「花園の模様」と呼ばれていることをプラターヌはとてもよく知っていた。

プラターヌとビビヨンが挨拶を交わす最中、彼女は女の子らしからぬ濃い筆圧で、ノートに黒板の文字を書き殴っている。
その文章量の多さにプラターヌは思わず「えっ」と声を上げれば、「どうしたんですか?」と彼女が不思議そうに顔を上げて、首を捻る。ブロンドがふわり、と波を立てる。

「いや、立派なノートだったからびっくりしてしまってね。自分で予習しているのかい?」

「え?……あはは、何を言っているんですか!これ、全部プラターヌ先生の言葉ですよ。
黒板に書かれていないことだって、あたし、全部メモしているんです。そっちに夢中になり過ぎて、今日は危うく板書を忘れるところでした」

照れたようにそう告げて、しかしどこか得意気に微笑んだ少女は、そのノートをプラターヌの方へと向けて差し出した。
そこに書かれた文章は、確かに今日、彼が口にした話題に悉く似通ったものであり、プラターヌはまたもや素っ頓狂な声を上げて、狼狽えずにはいられなかった。
彼等の耳を素通りしていくだけであった筈の言葉が、こうして「文字」という形で誰かのノートの中に残されている。
プラターヌの口にした言葉を紙の上に留めておこうとする生徒がいる。これだけの価値を見出してくれた生徒が、いる。

「……ボクの授業は、退屈じゃないかい?」

「どうして?」

すっと凛々しく伸びた眉を軽く動かして、少女は肩を竦めて笑う。プラターヌはあまりの衝撃に苦笑することさえできない。
ノートをパタンと勢いよく畳んで、鞄の中に差し入れる。ビビヨンに目配せすれば、紅色の羽を持つ美しい虫ポケモンはひらりひらりと舞うように彼女の背中を追いかける。
女の子は教室を出る直前、くるりとプラターヌに向き直って朗らかに軽快に、告げる。

「飼育学、あたしは大好きですよ!」


2017.3.20

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