8

白い砂浜を踏むと、キュ、と瓶の蓋を捻ったときのような音がする。何度も瓶を開け、その都度閉じているかのように、二人はゆっくりと同じ音を立てて歩いている。

11月の海はまだ温かい。海の温度は気温よりも2か月程、遅れて動くのだ。
まだ秋の海は、夏の暑さを忘れていない。逆に春の海が凍えているのもまた、冬を手放すことができていないからだ。
海は2か月前の記憶を宿している。プラターヌはそんな風に思うことがある。

そんな彼が海水に手を差し入れると、彼の記憶も同時に過去へと飛んでいく。
2か月前、9月、彼が初めて教壇に立った日、彼の初めての挫折。
ふるふると子供のように頭を振ってその記憶を追い払う。海水に濡れた手をぱたぱたと、これまた子供のように振って水滴を砂の上に落とす。
少女も同じように手を差し入れたけれど、彼女はプラターヌのように顔をしかめたりはしなかった。代わりにやはり、目に涙を浮かべるのだった。

「学校のある日はもっと多くのポケモンがいるのだけれど、今日は生徒たちがポケモンを連れて、何処かへ遊びに出掛けているのかもしれないね」

「……もっと多く?」

驚いたように少女が小さな疑問の声を上げる。
彼にはその驚きの意味するところがとてもよく解っていたので、苦笑しつつ彼女の目線に屈んで海を指し示す。

「実は今も、此処には決して少なくない数のポケモンがいるんだよ。例えばほら、そこの岩陰でチョンチーが休んでいるだろう?」

夜に眩い光を放つことで知られるそのポケモンをそっと指差せば、彼女は「あっ」と声を上げた。
彼女はそこにポケモンが上手く隠れていることに、まるで気が付いていなかったのだった。
プラターヌは彼女の新鮮な驚きの表情にどうにも嬉しくなってしまって、次から次へと海辺を指して、全てのポケモンの居場所を伝えてみせた。

遠くの深い海でタマンタとママンボウが高さを競うように跳ねていた。赤と青のプルリルは寄せたり引いたりする浅瀬をふわふわと漂っていた。
サンゴ礁のように見えたものはサニーゴで、海藻のように揺らめいている生き物はクズモーだった。
まるで隠れ鬼をしているかのように、彼等は浜辺に、浅瀬に、波に、海の深くに、息を潜めていた。
隠れているつもりはなかったのかもしれないが、その実、彼等はとても上手に海へと溶けていたのだ。
プラターヌはそんな彼等を一匹残らず見つけ出し、少女は新しいポケモンを見つける度に小さく声を上げた。

「……ああ、そろそろ下がっていた方がいいね。シェリー、おいで」

不思議そうに目を見開いた少女の手をそっと握り、プラターヌは波打ち際から大きく遠ざかった。
途端、大きな波が砂浜を覆わんとする勢いで打ち寄せてきた。少女はびくりと肩を跳ねさせ、それから少しだけ、泣いた。
一斉に打ち上げられてしまったプルリル達は、けれどふわふわと器用に手足を動かしながら、少しずつ海へと戻っていく。
岩陰で休んでいたチョンチーも驚いて、触覚の明かりを激しく瞬かせたが、すぐに落ち着いたのか目を閉じてぷくぷくと泡を浮かべるのみになってしまった。

「この海は作り物だから、不規則に見える海流も、魔法や技術でちゃんと組み立てられているんだよ。自然の秩序を再現することはまだ、できていないんだ」

「……」

「きっとポケモン達も、この海が紛い物であることに気付いている。気付いているけれど、穏やかに生活している。満たされたふりをしてくれている」

その皮肉めいた言い回しに、彼女が益々泣きそうな顔をする。そして事実、ぽろぽろと落とし始める。
今、この海辺にはプラターヌと彼女の他に「人」がいないことに気が付いたのだろう。彼女はもう泣くことを躊躇わなかった。

いつものように泣き始める彼女に、プラターヌもまたいつものように「ごめんね」と告げた。
何が悲しいのか、何を謝っているのか、少女にもプラターヌにも解っていなかった。二人はただ、互いにとって悉く馴染みのある行為を繰り返しているに過ぎなかったのだ。
涙と謝罪は二人の間に敷かれた儀式であり、挨拶のようなものだった。泣くことで、謝ることで、彼等は悉く安心することができたのだった。

「ボクはポケモンが好きなんだ。だから彼等が本当は何を思っているのか、何を望んでいるのか、そうしたことを言葉として聞くことができないのがとても、もどかしい。
けれど言葉が理解できないということは、ボク等が彼等に誠意を尽くさなくてもいいという理由には決してならないんだ」

彼女は大きく頷いた。腕の中のラルトスが、同意を示すように小さく鳴いた。
プラターヌは思わずラルトスに手を伸べて、その緑色をした頭をそっと撫でる。甘えるようにすり寄ってきた小さな命は、不思議なことに、少女の手と全く同じ温度をしている。

「人の傍にいてくれるポケモン達に、敬愛と感謝の意を示すためにも、ボク等はもっとポケモンのことを理解しなければいけない。彼等の心を推し測らなければいけない。
ボク等には彼等の言葉が解らないけれど、いや解らないからこそ、こうして彼等にとって住みやすい場所を整えることには意味があるのだと、ボクはずっと考えてきた。……でも、」

ラルトスの赤いツノがふわりと不安気に瞬いた。
主人の気持ちだけを忠実に反映するポケモンである筈のラルトスは、けれど今、おそらくプラターヌの心理に反応している。
そのツノに灯された淡い不安の光は、少女のものではなく、彼のものだ。

『プラターヌ博士の授業は座っているだけでいいから、楽だなあ。』
退屈な授業しかすることのできない人間。ポケモンの生態を理解することの意義を、上手く子供達に解くことのできない人間。
人の何もかもに悪意を見てしまう人間。言葉の通じないポケモンに悪意を見ずに済むからと、彼等との時間に平安を見出している人間。
同じことを、あろうことか人であるこの少女に対してもしようとしていた、どうしようもなく卑怯で臆病な、人間。
それが「ボク」だと、プラターヌはとてもよく解っていた。

人はポケモンのことを理解できない。人は人のことすら理解できない。
にもかかわらず、こんなにも小さな命は、プラターヌの不安を、後悔を、葛藤を、見抜いている。
ああ人というものはなんと、……なんと無力で傲慢なことだろう。

「……結局は、ボクの独り善がりな足掻きでしかなかったのかもしれない。こんなこと、無駄だったのかも、」

「違います!」

海を裂くような痛烈な音が、目の前の少女が発したものであることを、プラターヌはしばらくの間、認めることができなかった。
目を見開いたまま凍り付き、瞬きすら忘れた彼の前で、彼女は滝のように轟々と泣き始める。あまりにもその勢いが激しすぎて、プラターヌは息を飲む。

「だって、こんなにも綺麗なのに。こんなにも、温かいのに。こんなにも!」

こんなにも、と叫ぶ度に彼女はひゅう、と苦しそうな呼吸の音を立てる。首を絞められているかのようなその音にプラターヌは青ざめる。
嗚咽が彼女の息を止めようとしている。涙が彼女の目を潰そうとしている。
落ち着いて、と何度告げても、何度彼女の名前を呼んでも、事態はいい方向になど転ばない。
彼女の激情は収まるところを知らず、滝のように激しくプラターヌの心臓を叩きつけている。

「私、海が好きです。貴方の作ったこの海が好きです。だから悔しい」

「……悔しい?」

この少女から恐怖以外の感情が「言葉」として零れ出たのは、プラターヌの記憶している限りでは初めてのことだった。
愕然とした表情のままに彼女の言葉を反芻すれば、彼女は何度も頷いてから、腕の中のラルトスをぎゅっと握り締める。ラルトスの赤いツノは煌々と瞬いている。

「貴方が貴方の言葉でこの海の価値を貶めていることが、とても悔しい」

……この時、プラターヌは心苦しく思うべきであったのだ。
自らの軽率な言葉が、この少女にこのような激情を呼び起こしてしまったことに、彼女を少なからず傷付けてしまったということに、彼は申し訳なさを抱いて然るべきであった。
にもかかわらず、彼にそうした自責の念は全く湧き上がってこなかった。彼の心の中に沸き上がって来たのはもっと利己的な感情であった。
彼は、嬉しかった。自らの熱意が注がれたこの海を好きだと言ってくれたことが、この海のためにここまで憤りを露わにしてくれたことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。

「だから君は泣いているのかい?悔しいから?」

「いいえ」

けれど彼女は首を振り、プラターヌの予想していた言葉の斜め上を、軽快に走る。

「海が、綺麗だから。……こんなに綺麗な海だったら、泣いてしまっても仕方がないと、思うから」

『そうだね、とても綺麗だ。これだけ綺麗なのだから、泣いてしまっても仕方がないよね。』
まるで夜顔を指したときのプラターヌのような笑みを湛えて、彼女は歌うようにそう告げた。彼女が笑っていた。彼女は笑えていた。
けれど今、この場においてはプラターヌの方がずっと小さく無力であったのだから、当然のことだったのかもしれない。
彼といるとき、この少女は自分の矮小さを忘れられているのかもしれない。だってこんなにもプラターヌは小さいのだ。彼の心は、こんなにも。

臆病なのはどちらだったのか、勇敢だったのはどちらだったのか。
プラターヌはそれを忘れかけていた。彼女の言葉が、嗚咽が、憤怒が、笑顔が、そのまま彼のものになっていくように思われた。

「貴方のしていること、私は独り善がりだなんて思いません」

けれど少なくとも言えるのは、この泣いている少女は、その涙に反して悉く勇敢であるということだった。
少なくとも今この場において、勇敢なのは彼女の方であるということだった。その「勇敢」に今、プラターヌは救い上げられているのだという、ただそれだけのことを解っていた。
まだ「臆病」に留まる彼が下せる結論など、その程度のものでしかなかったのだ。


2017.3.20

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