12'

その日の夜、厨房は大勢の人で溢れ返っていた。
今まで食事を摂る必要のなかった彼等は、人間に戻ったことで、空腹という感覚を覚え始めていたのだ。
しかし、これまでシアとゲーチスの分の食事しか作って来なかった彼等が、突然50人を超える人数分の夕食を用意するというのも無理がある話だ。
そもそも、食材のストックが足りなさ過ぎていた。故に簡単に作れて材料も少なくて済むパンとスープで、今日の空腹を凌ごうということになったのだ。

食卓にあった長いテーブルをホールに移動させ、そこにパンの入った籠をいくつも並べた。
焼きたてのイーストの匂いが鼻をくすぐる。わっと城の皆から歓声が上がった。
白いエプロンを身に纏った料理人たちが、皆にスープを配っている。それを受け取った私の肩を、誰かがそっと叩いた。
振り向くと、シアが小さな籠を抱えて立っていた。その籠の中身を見て、私は息を飲む。

「私が作ったの。よかったら、どうぞ」

「……いいの?」

「だってトウコさん、私の焼いたロールパンが食べたいって言っていたでしょう?」

『あんたがゲーチスに食べさせたロールパン、あれを食べてみたいわ。』
シアは、あの私の言葉を覚えていてくれたのだ。
人ならざる異形の姿をした私があの時、人の食べ物を言葉にしていた。そのことで私は、自分が人間であることを、きっと元の姿に戻れるのだと言い聞かせていた。
別に、ロールパンが好きな訳ではなかった。けれど、私を深く驚愕させ、絶望させたその何の変哲もないパンに、私は執着していたのだろう。
あの時、私は人間であるシアに憎しみすら抱きそうになっていたのだ。強烈な嫉妬に心が焼け焦げてしまいそうだった。
目の前に差し出された、少し歪な形のロールパンはきっと、私が今、人間の姿をしていることの象徴であり、証明なのかもしれない。

私はそのロールパンを手に取った。心臓が張り裂けそうな程に拍動していた。
一口サイズに千切って、口の中に運んだその瞬間、ふわりと広がったほの甘い味に舌が震えたような気がした。
ふわふわとした食感のそれを噛み締めて、飲み込んだ。
恐ろしい程にありふれたその行動に、しかし透明な血が止まらなかった。私はみっともなく嗚咽を零しながら泣いた。
私よりも背の低い彼女は、やや背伸びをするようにして私の頭を撫でた。

「美味しい」

たった一言を紡ぐので精一杯だった。私は人間なのだと言い聞かせ、透明な血を零し続けていた。
けれどやっとのことで顔を上げれば、シアが手にしていた籠からNがロールパンを2つも取っていたので、私は嗚咽を止めざるを得なくなってしまった。
すぐさま彼に回し蹴りを食らわせる。長身のNを大理石の床にひっくり返した。
シアが驚きに目を見開いたけれど、私はそれに構うことなく、泣き腫らした赤い目でNを睨みつけてやった。

「私のロールパンに手を出そうなんていい度胸じゃないの、N」

「え、トウコさん、この籠のロールパン、全部食べるつもりだったの?」

まだ5つ残っているそのパンを見て、私は肩を竦めて笑ってみせた。
そう、この賑やかな空間では、感涙にむせび泣く暇すらないのだ。私が愛した場所はそうしたところだった。もう、いつものように強気に微笑むことだってできる。

「少なくとも、Nには譲らないわ」

翌日から、私達は忙しなく走り回っていた。やることがあまりにも多くあり過ぎたのだ。
先ず私は10年振りに町に戻り、家族やダイケンキと再会した。
姿の全く変わっていない私に、彼等はひどく驚いた様子を見せたけれど、私は私で、10年という歳月が変えてしまった町の風景に驚いていた。

数週間を掛けて、城は10年前の姿を取り戻しつつあった。
あの頃と同じように、多くの人が集まった。使用人たちは目の回るような忙しさの中で、大量の仕事をこなしていた。
大きな変化があるとすれば、シアの親友であるシェリーという女の子と、フラダリという男性、そしてあの白衣の優男が城で暮らすようになったことくらいだろうか。
私は本来の仕事に戻り、やって来る客人の髪を綺麗にセットしたり、使用人の髪を切ったりしていた。
私の手は、ヘアセットの技術を忘れてはいなかった。驚く程に流暢に動く自分の手に、我ながら感心したりもした。

シアとは今も、あの部屋で一緒に寝食を共にしている。
人間に戻ってからは、私が別の部屋を使うようになっていたのだが、いつも同じ部屋で話をしていた人物がいないというのは、どうにも寂しい。
シアも同じことを思っていたようで、数日後、双方の同意を得て、再び私はあの部屋に戻ることになったのだ。
元々、広すぎたあの部屋は、余分にもう一つベッドを運び込んでもかなりの余裕があったため、特に問題なく過ごせている。

自分の手を使って何かができるということへの喜びを、私は毎日のように噛み締めていた。そして、それはきっと私だけではないのだろう。
おそらくこの城で10年の時を過ごしていた全ての人間が、今、こうして人間として生きていることへの幸福を噛み締めている。
呪いが解けなくとも、何も変わらない。私達は変わらずにこの城で生きていく。
ただ、ちょっと便利になっただけ。手を使って仕事ができて、足を使って地面を駆けることができるだけ。お腹が空いて眠くなる、そんな当たり前のことを取り戻しただけ。
そのことが、どうしようもなく嬉しいだけ。それだけ。

お気に入りのモノトーンのドレスが、足を踏み出す度にふわふわと揺れる。
見違えるように賑やかになったこの城で、今夜、ダンスパーティが行われるのだ。
このパーティの主役である筈のシアは、何故か大幅に遅刻して現れたけれど、その理由は彼女の手元を見れば直ぐに解った。
どうやらこの子は、またあの図書室で本を読み耽っていたらしい。私は立ち行ったことすらないその場所は、彼女が最も愛した場所だった。

アギルダーを連れたダークの司会により、パーティが始まった。
シアとゲーチスは、ホールを忙しなく歩き回り、来てくれた客人に挨拶をしている。私は隣で立っているNを見て「あんたは挨拶、しなくてもいいの?」と尋ねた。

「ボクが無事なことは皆も知っているだろうから、今日はゲーチスの姿を皆に見てもらいたいんだ。皆、ゼクロムに選ばれなかったカレのことを心配していたからね」

……Nはゲーチスの双子の弟、であるらしいが、私にはどうにも、Nの方がゲーチスの兄であるように見える。
それ程に彼はゲーチスを影で案じていた。彼の顔に憂いがなくなったことを、誰よりも喜んでいたのだ。
そんなことを考えていると、Nが私の手を強く引いた。彼のこんな行動は珍しく、私はどうしたのよ、と尋ねながらも彼と同じ方向に歩みを進めた。
彼はグランドピアノの傍までやって来ると、あろうことか私に、その椅子に座ってくれと言ったのだ。私は慌てて首を振り、拒絶する。

「冗談じゃない、ピアノなんて弾けないわ。私にこんな大勢の前で恥をかかせる気?」

「大丈夫だよ、キミの音に合わせてボクが曲を作るから」

ヒールの高い靴さえ履いていなければ、ここで回し蹴りを食らわせて彼をひっくり返してやるところなのに。
そう思いながら、私はその黒い椅子に座らされた。どうしろというんだ、と途方に暮れる私の隣にNも座り、私の手を取って白い板の上に指を誘導させる。

「この3つの音を3回、その後で、この2つの音を1回。これを規則正しく叩いてくれればいい。テンポはキミに任せるよ」

そんな、簡単なことでいいの?
私の顔がそう訴えていたのか、彼は困ったように微笑んで「もっと難しくしようか?」と紡ぐ。私は慌てて首を横に振り、その音を叩き始めた。
3回音を鳴らしたところで、Nの長い指が白黒の板の上を走る。驚いたように息を飲んでしまった私に、Nはクスクスと笑う余裕すら見せた。
ただ規則正しくピアノを叩くだけである筈なのに、私はこれ以上ない程に緊張していた。
それと同時に、感動していた。Nの走らせる音に、私の拙い和音が溶けていく。その共鳴があまりにも心地良くて、目が覚める思いがした。

暫くして、ピアノを叩くことに慣れてきた私は、周りに多くの人が集まっていることに気付いて、その話し声に耳を傾けてみる。
その中に気になる単語を見つけて、私はNにそっと問い掛けた。

「ねえ、ナチュラル様って、誰のことなの?」

「ナチュラル?ボクの本名だよ」

……叩く音を間違えなかったのは奇跡だったと言えよう。
「N」が本名だとばかり思っていたのだが、まさか、「ナチュラル」のNだったなんて。
しかし、少し考えれば解ることだった。ゲーチスとN。同時期に付けられた双子の名前としてはあまりにも不自然だったのだから。

「じゃあ、どうしてNなんて名乗っていたのよ」

「ボクの頭文字は、数学的に見てとても美しい意味を持つからね。小さい頃にそう名乗りたいと言って以来、城の皆はボクのことをNと呼んでくれているよ」

……数学が大好きな彼らしい、至極どうでもいい理由だった。その彼らしさに溜め息を吐く。

「もし、キミが「ナチュラル」の響きの方が好きなら、今からでもそう呼んでくれて構わないよ」

少し驚いたけれど、そんなこと、考えるまでもなかった。
ナチュラルという名前も悪くないけれど、私が好きになったのはNだ。今更、呼び方を変えるなどという器用な真似ができる筈もなかった。
それにあの時、11年前のあの日に彼が「N」と名乗ったのだから、もうこいつはN以外の何者でもないのだ。
だから、Nのままで構わなかった。その名前が誰よりも、何よりも愛しかった。

彼はクスクスと笑いながら、曲の終わりが近付いてきていることを告げた。
けれど「あと16小節で鍵盤から指を放して」と言われても、私には何のことだかさっぱり解らない。
怪訝な顔をした私に、Nはとても楽しそうに笑ってから合図を促す。
「じゃあ、放すよ」との、確かな温度を宿したテノールに、私も頷いて言葉を重ねる。

「「せーの!」」


2015.5.30
The Diary:ある少女の愛の記録

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