10'

翌日、時計の針が正午を指しても、シアは戻ってこなかった。
いつもなら、バーベナと窓際のテーブルで軽食を食べながら話をしている時刻だった。
読書が好きだというあの変わった子は、離れの塔にある図書室で本に夢中になっているのかもしれない。

昨日の晴天が嘘のように、強い雨と風が窓を叩き付けていた。
離れの塔に続く渡り廊下には窓がない。……彼女は本を抱え、自分の服や髪をびしょ濡れにして返ってくるのではないだろうか。
タオルを用意しておこうと思ったその瞬間、扉が静かに開き、驚くべき人物が姿を現したのだ。
私は息を飲み、しかし気丈な声で言葉を紡ぐ。

「……9年振りね、ゲーチス」

『その魔法使いとやらは、とてもいいセンスをしているわね。』
城にやってきた女性が、ゲーチスの姿に悲鳴を上げて逃げ帰ったあの日。あの時のたった一言を最後に、私は彼の姿を見ていなかった。
ゲーチスも5階の自室から出ようとはしなかったし、私もこの部屋から滅多に出ることはなかった。
鏡台の姿では、以前のように城を走り回ることなどできない。Nのいる隣の部屋に遊びに行くことは頻繁にあったけれど、それくらいだった。
しかしゲーチスは最近、城の中を出歩くようになったらしい。それも、シアが与えた変化の一つなのだろう。
……まあ、城の中を出歩く分には咎めないが、ノックもなしに女性の部屋に堂々と入って来るのは頂けない。此処に暮らしているのは、鏡台と化した私だけではないのだから。
そのことを棘のある声音で注意しようとしたが、その前にゲーチスが、その地を這うようなバリトンでたった一言を紡いだ。

「あれを帰した」

頭が真っ白になった。私は何も言うことができずに、その弱々しい色を宿した隻眼を茫然と見上げていた。
あれを、帰した?ゲーチスがシアを、この城から出してしまった?何処へ?まさか、彼女が暮らしていたというあの村へ?
確かに動いていたこの城の時間が再び止まってしまったのだと、認めるのに長い時間を要した。

「森で倒れていた親友を助けに向かった。あれを迎えに森へ入り、迷ったのだろう」

……そういえば、10年前の魔法使いはこの城に、薔薇の他にも不思議な手鏡を残していたような気がする。
「見たいものが鏡に映る」というその奇妙な魔法がかけられた道具が、この城と外の世界を繋ぐ唯一の窓となっていた。
きっとゲーチスは、それをシアに見せたのだろう。こいつが自室にシアを入れたことにも驚いたが、それどころではなかった。
私は事実だけをなんとか咀嚼して、項垂れるように俯くゲーチスを嗤ってやった。

「……それで?あんたはどうして此処に来たの?私に慰めてほしかったの?可哀想ねって?冗談もほどほどにしなさいよ、馬鹿じゃないの?」

解っている。解っていた。この歪な心を持つ男は、シアに共鳴し過ぎたのだ。
大切な存在を思う彼女に、忘れてしまえと命令を下すことができなかったのだ。それ程に、ゲーチスはシアの優しさに毒されていた。鋭さを失った目がその証拠だった。
けれど、私は彼等の間に起きたことを理解することはできても、認めることはできなかった。
これが彼の示した愛の形なのだと、私はどうしても認められなかったのだ。
彼女の優しすぎる性格に染められてしまったのだろうか、そんな残酷な選択をよくもできたものだと、呆れを通り越して感心する。

「私はあんたが大嫌いなのよ。慰めてほしいなら、外套掛けの姿をしたあいつに頼みなさいよ。主の命と想いに忠実な彼は、さぞかし優しい言葉をかけてくれるんでしょうね」

からかうようにそう告げて、私は声をあげて笑った。
ああ、今頃、城の皆はどうしているのだろう。シアがいなくなってしまったことに驚き、落胆し、期待した私達が間違っていたのだと、懐かしい絶望を噛み締めているのだろうか。
けれど、きっと誰も彼女を責めないだろう。そのことだけは確信することができた。だって私が、あんなにも人間の姿に焦がれていた私が、シアに憤ることができずにいるのだ。
きっと、皆も同じなのだろうと理解していた。

確かに、私達はシアに期待していた。呪いを解いてくれるのではないかと願っていた。薔薇が全て散ってしまう前に、どうか間に合ってと祈っていた。
けれどそれ以上に、シアと過ごしたこの数週間は、夢のように楽しかったのだ。彼女はこの城に確かな魔法を残していった。
私達は、自らが異形の姿であることを忘れ、一人の少女と向き合うことができていたのだ。
楽しかった。夢のような時間だった。

「あんたは、馬鹿だわ」

「……」

「そんなことでしか、愛を伝える術を持たないなんて」

ああ、おかしい。何もかもが滑稽で堪らない。
自らを犠牲にして城に残った親友の想いを無下にした、あの美しくて臆病な少女も、城の皆と親友の、どちらも切り捨てることのできなかった欲張りな優しい少女も、
そんな少女の想いを汲んで、この檻から逃がしてしまったゲーチスも、事の顛末を聞き、ただ笑うことしかできない私も、皆、滑稽だ。
こんなおかしな結末があるだろうか。私達が愛したあの時間は、一人の少女に託した希望は、こんなにも呆気なく砕け散ってしまったのだ。

『そうね、あんたのことは嫌いじゃないわ。大好きよ、二番目にね。』
昨日の夜、私がシアに告げたその言葉が脳裏を掠める。好きだった。きっとNの次に、いや、もしかしたらそれと同じくらい、私は友達であるシアのことが大好きだった。
シアが姿を消した、その事実を、裏切りと見ることは簡単にできた。けれど、シアを責める言葉は浮かばなかった。どうしてもあの少女を憎むことができなかった。
寧ろ、もう十分だとさえ思えたのだ。それ程に私は、私達は、シアから多くのものを受け取り過ぎていた。

私は少し迷った後で、一番上の引き出しを開けた。
そこには、化粧もヘアセットもろくにしないシアが唯一、とても大切にしていたものが入っていた。

「……そんなあんたにこれをあげる。シアがこの部屋で書いていた日記よ」

彼は弾かれたように顔を上げ、私に駆け寄った。
分厚い日記帳に伸べるその大きな手は震えていて、けれど私はもう、笑うことができなかった。
彼は鏡台にその日記を置き、開いた。そこにはシアの整った美しい字が、びっしりと並んでいた。
彼女は此処へやって来てからずっと、毎日欠かさず、その日記帳を開いて日記を書いていたのだ。
夕食に登場する珍しい料理の名前とその説明を、彼女は夢中になって書き込んでいた。本を読むのと同様に、何かを書くことも好きであるらしいと私は把握していた。
そんな彼女の、此処での生活の軌跡に、彼は無言で目を通していた。私もその日記を覗き見た。

『あの人は、私の権利と尊厳を当然のように奪い取ってしまう。許せなかった。彼のことも、そんな彼の前でみっともなく泣いてしまう私も、嫌いだ。』
『酷い言葉を投げてしまった。彼は平気で人を傷付ける言葉を使うのに、その刃を自分に向けられることには慣れていないらしい。ひどくアンバランスな人だと思った。』

此処に来て直ぐの頃の字は、少し荒っぽい。たまに紙が歪に波打っているところもあった。泣きながら日記を書いていた証拠だ。
けれどそんな荒々しさも、数ページ先には無くなっていた。

『素敵な夢を見た。バルコニーから見える星はとても綺麗で、一瞬が永遠に感じられた。』
『怒鳴ることも泣くこともせずに、彼と話ができた。10年の孤独に共鳴することはできなくても、その苦しみを思い遣ることはできる筈だ。』
『彼が、私の焼いたパンを美味しいと言ってくれた!彼はお世辞を言うような人ではないから、きっと気に入ってくれたのだろう。今も心臓が煩く跳ねている。』
『ピアノを聴かれてしまった。彼の褒め方はとても独特で、皮肉めいた声音でからかうように言葉を奏でる。けれど嫌だとは思わなかった。寧ろ、嬉しかった。』

『「約束の魔法」という本を彼と一緒に読んだ。誰かと物語の感動を共有したのは初めてで、あまりの高揚に、心臓が物凄い音を立てていたような気がする。
私はとても楽しい時間を過ごせたけれど、彼はどうだったのだろう?私は彼の孤独を埋められているのだろうか?』
『二人だけのダンスパーティ、夢のような時間だった。足が痛くなるまで踊った。昨日見た不思議な夢のおかげで、それなりに上手く踊ることができた。』

彼女らしい、純粋で真っ直ぐな言葉たちが、紙の上に綴られていた。私は思わず微笑んだけれど、ゲーチスにはそんな余裕はなかったらしい。
けれど私の笑みも、昨日の日付が書かれたページを読んだ途端、一瞬にして消え失せてしまったのだけれど。

『時折、ゲーチスさんやトウコさんたちの中に現れる人間の姿は一体、何を意味しているのだろう?』

息が止まった気がした。
彼の中に、時折少年の姿を見る、という内容は以前のページにも書かれていたけれど、私に見える人間の姿について言及されていたのは此処が初めてだった。

シアは私の中に、かつての私の姿を見ていた?彼女はもしかして、私達の秘密に気付いていたのだろうか?
彼女はそうしたことを尋ねてこなかった。何も知らないのだと思っていた。けれど、彼女は全て知っていたのだろうか?
けれど、それは杞憂だった。何故ならその下に、そんな仮説を否定する言葉が並んでいたからだ。
しかし、私は安堵することができなかった。日記帳に並んだその、あまりにも真っ直ぐで眩しい言葉が、私の心を大きく揺らしていたからだ。

『けれど、どうだっていい。彼等が誰であっても構わない。人であってもそうでなくても関係ない。私は変わらずに傍にいる。
私はこの場所が、此処で過ごす時間が、彼等のことが大好き。』

大好き。
その最後の文字が涙で滲んだ。ああ、泣いているのだと思い、笑ってやろうとしたけれど、できなかった。
彼の噛み殺した嗚咽の音を、彼女の文字が飲み込んでいった。
ああ、私達は愛されていたのだと、ようやく気付いた。気付いた時には、もう、何もかもが遅すぎたのだ。

大好きだった。とても楽しかった。最後に、最高の夢が見られた。

「ゲーチス、早くその日記を持って出て行って。あんたがそこにいると、泣けないの」

けれど、扉が閉まる音が聞こえても、私は泣き出すことができなかった。空が私の透明な血を引き取るように泣いていた。


2015.5.30

© 2024 雨袱紗