トウコさんは自らのことを、この城に住む不思議な道具たちのことを、ポケモントレーナーだと説明した。
私はその事実がまだはっきりと理解できなくて、彼女を見上げ、言葉を失ったまま立ち竦む。
……彼等は、この不思議な家具や食器、楽器たちは、一体何者なのだろう。
長い時間を彼等と過ごしてきたけれど、その秘密を追及するのはタブーだと知って以来、私はそれについて質問することも、言及することもしなかった。
けれど今、その秘密が紐解かれようとしているのかもしれなかった。けれどその紐に手を掛けるのは、全てが終わってからだと心得ていた。
きっと、この騒動が解決すれば、この城の本当の秘密を知ることができる筈だ。だから今は、守らなければ。私の愛したこの場所を、私が愛したこの時間を。
城の外が騒がしくなってきた。トウコさんが「用意はいい?」と皆に促す。
城の燭台の火が一斉に消える。彼等は薄闇の中で一様にその目を鋭くさせ、扉が開くその瞬間を、息を潜めて待っている。
私とアクロマさんは、クロバットとロトムを連れて階段を上がり、トウコさんやNさんの後ろでひっそりと息を潜めていた。
バタン、と大きな音を立てて扉が開き、村の男性たちが一斉に城の中へと押し寄せてくる。
「今よ!」と、トウコさんの号令で、燭台の火が一斉に灯った。
動く道具と、大勢のポケモンに驚く村人たちに、トウコさんは楽しそうに微笑んだ。
「ようこそ、呪われた城へ」
村人たちは一瞬の怯みを見せたけれど、直ぐに手元の武器や、ポケットの中のモンスターボールに手を掛ける。
彼女は彼等に攻撃する意志があることを確認してから、1階のホールに舞い上がったゼクロムに指示を出す。
「私達はこの城の使用人。ゲーチスには指一本触れさせないわ!」
城の皆のバトルの強さといったら、それこそ、圧巻の一言に尽きる。特にトウコさんとNさん、そして3人のダークさん達の勢いが凄まじい。
アクロマさんですらその凄さに絶句する程で、彼等はその圧倒的な力で村人たちの猛攻を食い止めていた。
更にはポケモンだけでなく、彼等も身体を張って村人たちに挑んでいた。
ポットのバーベナさんは2階から熱いお湯を村人にかけて撃退していたし、羽箒のヘレナさんは埃を飛ばして彼等の視界を奪っていた。
外套掛けのダークさんは、その身体で村人に蹴りをお見舞いしていた。その動きが本当に人間のように見えて、私は思わず微笑んでしまう。
厨房で美味しい食事を作ってくれた調理器具や食器たちも、広い城を掃除していた箒たちも、素敵な音楽を演奏してくれた楽器たちも、皆、必死に応戦している。
彼等は皆、この城が、そして主である彼のことが本当に好きなのだと、私は改めて思い知る。
また此処に戻って来られて本当によかった。そんな安堵の溜め息を吐いた瞬間だった。私の隣を、シェリーが物凄いスピードで通り過ぎて行ったのは。
「シェリー!待って、」
私は彼女を引き止めようとしたけれど、できなかった。彼女が持っていた果物ナイフで私を威嚇するように、眼前の空気を鋭く切り裂いたからだ。
その鋭い刃にあの瞬間を思い出した私は、驚きと戦慄に床へと崩れ落ちる。地下の牢屋の前で、あの人の爪に腕を切り付けられた恐怖が脳裏に呼び起こされた。
私が動けずにいる間に、彼女は3階へと続く階段を駆け上っていく。何が起こっているのか解らないまま、私は震える手を握って落ち着こうと努めた。
その鉛色の目には、振り切った恐怖が造り上げた、確かな狂気の色が宿っていたのだ。彼女はもう私を私だと認識していないようにさえ思えた。
私の知っているシェリーとは、明らかに異なる目をした彼女に愕然としていると、階下から私の名前が呼ばれた。
彼女を追い掛けてきたフラダリさんが、道具たちの間を掻き分けて階段を1段飛ばしで上り、私に駆け寄る。
「シア、すまない。彼女が城に向かうと言って聞かないもので」
「……どうして、ナイフを?」
そう尋ねる私の声は震えていた。
彼は言い辛そうに、その薄い青の目を少しだけ伏せる。
「……シェリーは、貴方を長い時間、この城に閉じ込めた野獣のことが許せないのだと、いつも泣きながら言っていた。自分から貴方を奪ったこの城のことも恨んでいた。
私があの野獣を殺しに行かなければいけないのだと。そうしなければ、いつか貴方が殺されてしまうと。私がシアを守らなければならないのだと」
あまりの衝撃と、彼女のとんでもない誤解に眩暈がした。
心臓を抉るような鋭い警鐘が、私の頭の中で鳴り響いていた。こんなところで立ち止まっている場合ではなかったのだと、私は震える足を叱咤して立ち上がる。
止めなければ、そうしなければ、彼が。駆け出そうとした私の手を、しかしフラダリさんは強く握って引き止める。
「彼女のしようとしていることは、その動機こそ衝動的で危険なものであるのかもしれないが、わたしは間違っているとは思わない」
「!」
「どうか、彼女のしたいようにさせてやってくれないか。彼女は君のことを、誰よりも案じていたんだ。食事も喉を通らず、痩せ細ってしまう程に」
その言葉に、私は先程のシェリーの姿を思い出そうと努めようとして、止めた。
思い出すまでもなかったのだ。彼女が驚く程に痩せていることに、私は彼女を見つけたその瞬間から気付いていたからだ。
けれど、たとえ彼女の行動が、私を思っての行動だったとしても、私は彼女の構えた刃を見過ごす訳にはいかない。そして何よりも、彼女は大きすぎる勘違いをしている。
だから私は、彼女を止めなければならなかったのだ。
「貴方は、フラダリさんはそれでいいんですか?シェリーが人殺しになろうとしているのに、貴方はどうして止めないんですか!」
彼はその言葉に眉をひそめ、私の腕を掴む手を更に強くする。
その目があまりにも冷たい温度を持っていたので、私は抵抗することも忘れて立ち竦んでしまった。
けれど次の瞬間、私はその手を物凄い力で振り払うことになる。
「シア、君はあの化け物に毒されている。あれは人ではない。誰かが始末しなければ、この城に呪われる人間が増えるだけだ」
「人です!」
心臓を鷲掴みにして抉られるような痛みに耐えられなくなった。彼は驚いた表情で私を見下ろしていた。
止めて、これ以上、彼を貶めるような言葉を紡がないで。私の大切な人を、これ以上傷付けないで。
彼の恐ろしい姿の中に確かに宿った、人の心を、人の温度を否定しないで。
「彼は、人間です!」
あまりにも大きすぎた私の声に、乱闘をしていた村人や道具たちが一斉に私を見た。
彼等は一様に驚いていたけれど、誰よりもその言葉を発した張本人である私が驚いていた。
解っている。彼が人間に見えるなんてどうかしているのだ。その姿は明らかに、人ならざるものの形をしていたのだから。
けれど私は、その恐ろしい姿の中に、時折、少年の姿を見た。彼は不安気に、縋るような目で私を見ていた。
彼だけではない。鏡台のトウコさんも、グランドピアノのNさんも、その人ならざる姿の中に、少女や少年の姿を隠している。
私は時折、彼等のもう一つの姿をほんの一瞬だけ垣間見ることができたのだ。
それが何を意味しているのか、私には解らなかった。けれどそれをただの幻覚だとして切り捨て、彼等を人ならざるものだと断言することはどうしてもできなかった。
「……私には、彼を化け物に貶めて手を掛けようとする、貴方達の方が化け物に見える」
私はそれだけを言い残して階段を駆け上った。フラダリさんは私の名前を呼んだけれど、もう私を引き止めなかった。
ロトムで村人のポケモン達に応戦していたアクロマさんは、そんな私を追うように駆け出したけれど、その足音が不自然なところで止まった。
どうやらトウコさんに私達のポケモンを託してくれていたようで、その会話が階段を上っていた私の耳にも届いていた。
「トウコさん、と言いましたか。わたし達のポケモンを頼みます」
「白衣の優男に言われなくたって解っているわ、任せなさい。あんたのポケモンにもシアのクロバットにも、傷一つ付けさせないから」
私はそんな遣り取りに振り向く余裕すらなかった。いつものエプロンドレスを乱暴にたくし上げて、踵の低い靴で階段に足を掛けた。
その会話から数秒後に、アクロマさんは階段を2段飛ばしで駆け上がって来た。
あまりの驚きに階段を一段だけ踏み外した私は、バランスを崩して転んでしまう筈だった。けれどその手が寸でのところで彼に掴まれ、素早く、力強く引き上げられる。
「さあ、早く!置いていきますよ」
その太陽のような目に大きく頷いて、私は彼の白い背中を追いかける。
2015.5.21