「……フラダリさん、シェリーをよろしくお願いします」
私は鏡をローブの内側に仕舞い、代わりにエプロンドレスのポケットからクロバットの入ったボールを取り出して投げた。
その背中に飛び乗ろうとした私の腕を、アクロマさんが強く掴んだ。彼に説明をしている時間すら惜しくて、その手を振り払おうとしたけれど、彼は信じられないような一言を紡ぐ。
「わたしも行きましょう」
「え……」
「こうなってしまったのにはわたしにも責任があります。それに、もう貴方を失って絶望したくはない」
その金色の目が真っ直ぐに私を見ていた。いつもの、優しい彼の目だった。
本ばかり読んでいる変わり者の私を認めてくれて、私の目を綺麗だと褒めてくれた、あの時と変わらない彼の姿がそこにあった。そのことに涙が出そうな程に安心した。
私は頷き、彼と共にクロバットに乗った。二人が余裕で乗ることのできる大きさではなかったため、アクロマさんの後ろに私は立ち、彼の肩を掴むようにしてバランスを取る。
クロバットはいつもの倍以上の質量を背中に乗せているにもかかわらず、変わらぬ速度で空へと舞い上がった。
「シア!」というシェリーの声が聞こえたけれど、振り向くことはできなかった。
彼女にはフラダリさんが付いているから大丈夫だと安心していたし、何よりも今は、あの城を村の人達よりも早く見つけ出さなければと焦っていたのだ。
雨は先程よりも激しさを増し、森に降り注いでいた。
二人の間に生じた沈黙はその雨が埋めてくれたけれど、この人にはどうしても話しておきたくて、私はあの城でのことを説明するために口を開いた。
「最初は、閉じ込められたシェリーを逃がしてもらう代わりとして、城に残ったんです」
クロバットは、飛び立って来た方向を覚えていてくれたようだ。
迷うことなく、雨の中を真っ直ぐに飛んでいく。吹き付ける風が強すぎで息苦しい程だったけれど、スピードを緩めるように促すことはしなかった。
「でも、城の皆はとても優しくしてくれました」
信じてもらえるか疑わしい程に、現実離れし過ぎたあの城での日々を、私はアクロマさんに全て話した。
同じ部屋で暮らしていた、鏡台のこと。素敵な曲を奏でるグランドピアノのこと。毎朝、美味しい朝食を持ってきてくれるポットや、ダンスが大好きな箒のこと。
私にテーブルマナーを教えてくれた饒舌な燭台や、あらゆる仕事を器用にこなす寡黙な外套掛け、不愛想だけれどポットの前ではその顔が少しだけ柔らかくなる置時計のこと。
自我を持ち、人間の言葉を操る道具たちの主である、尊大で傲慢な、人ならざる姿をした彼のこと。
そんな彼と長い時間を共有する中で、少しずつ、その恐ろしい姿の中に隠した、臆病で繊細な部分が見えてきたこと。そんな彼を知りたいと思い始めていたこと。
癇癪を起こすことなく、初めてまともに会話ができた、ただそれだけのことが、言葉にできない程に嬉しかったこと。
私の焼いたパンを食べて「美味しい」と言ってくれたり、私がピアノで弾いた曲を褒めてくれたりしたこと。
何か城のために仕事がしたい、と言った私に、彼が離れの塔にある図書室の整理を任せてくれたこと。
空色の綺麗なドレスを身に纏い、彼と一緒に、広いホールで足が痛くなるまで踊ったこと。
アクロマさんはそれらの話を、小さく相槌を挟みながら聞いてくれた。
そして私の方を振り返り、信じられないような言葉を紡いだのだ。
「シアさん、愛しています」
「!」
「貴方のことが好きです。誰よりも、何よりも」
今まで、本の中でしか聞いたことのなかったその眩しい響きが、他でもない私に向けられていることに気付き、心臓が大きく跳ね上がった。
私が、愛されていた。それも、私がずっと慕い、尊敬していた、この立派な人に。その非現実的な事実をまだ上手く受け入れることができずに私は目を伏せ、沈黙した。
村の外れの、高い煙突の一軒家で、私は彼と飽きる程に時間を重ねていた。
研究に没頭すれば寝食すら忘れることで有名だった彼が、私のノックには直ぐに扉を開け、いつも笑顔で出迎えてくれた。
難しい本に手を出し、解らない単語に悪戦苦闘する私の質問を、彼は嫌な顔一つせず受け付けてくれた。
村の変わり者として奇異の目で見られることに苦しんでいた私の頭を、彼は優しく撫でて励ましてくれた。
『わたしが評価しているのは、料理や裁縫の得意な貴方ではありません。本が大好きな貴方です。知識と空想の中でその海のような目を美しく輝かせる貴方です。』
『貴方は聡明な人だ。知識に貪欲で、怠けることを知らない。そんな貴方に慕われるのは、とても嬉しいですよ、シアさん。』
彼の言葉はいつだって、私に勇気と自信を与えてくれた。私はそんな彼が好きだった。
けれど彼は私を愛していると言う。その眩しい言葉を使って、私への想いを口にする。
そのことに私は少しだけ戸惑った。愛とは、もっと私の知らない、高尚な感情で構成されているものだとばかり思っていたからだ。
手の届かない場所にあるとばかり思っていたその言葉が、私のすぐ目の前でふわふわと浮かんでいたことに私は改めて驚き、当惑する。
「いいんですよ。もう、貴方の答えは解っていますから」
それに手を伸べることを躊躇う前に、彼が笑いながら口を開いた。
その声音には確固たる諦念が滲んでいて、私の胸は徐に締め付けられる。
彼を傷付けてしまったかもしれない。そう思ったけれど、もう一度振り向いた彼の目は驚く程に穏やかな色をしていた。
「貴方がわたしを慕ってくれていたことは知っています。けれど貴方はその城の中で、貴方の愛すべき相手を他に見つけたようだ」
その瞬間、私の背中を押してくれた、あの優しい手が脳裏を過ぎった。
呆れたように肩を竦めるその皮肉めいた笑みを、私を縋るように見つめるその赤い隻眼を思い出していた。
私が愛すべき相手。……彼が、そうだというのだろうか。私は本当に、彼を?
「……でも、私は誰かを愛するとか、そうした感情はよく、解らなくて」
「解らなくてもいいんですよ、そうした想いは恣意的なものではありません。いつか、伝えずにはいられない日がやって来ますよ。その言葉には魔法がかかっていますから」
「魔法が?」
「ええ、けれどわたしの魔法は貴方に届かなかった」
静かなその言葉は、私を許すかのような優しい響きで私の鼓膜を震わせた。
これが、愛なのだろうか。その言葉が相手の心に届かなくとも、穏やかに笑って許すことのできるような、……愛とは、そうした優しいものなのだろうか。
「けれどシアさん、貴方の魔法なら彼に届くかもしれない。貴方の言葉なら、あるいは」
自分の願いよりも、相手の想いを尊重する、この優しい言葉が、態度が、行動が、他でもない愛だというのだろうか。人を愛するとは、そういうことなのだろうか。
『行ってやれ。その、親友のところへ。』
『もういい。お前はもう、囚われの身ではない。いや、もうずっと前からそうではなかった。』
彼の言葉を思い出した。私の手は小さく震えていた。
人の気持ちなど、推し量ることをまるでしなかった彼が、私のためにその手を放し、背中を押してくれた。シェリーを案じる私に、早く向かうようにと促してくれた。
それでも、彼は私に憎悪の視線を向けなかった。彼の赤い隻眼は、最後まで私を許していた。
まさか、彼は、私を。
「大丈夫ですよ。貴方はもう、その想いに相応しい素敵な女性です」
「え……」
「彼を助けたいんでしょう?何に替えても」
私はその言葉に一瞬の躊躇もなく、頷いた。
私を契機として生じてしまったこの事態を、私の手で食い止めなければ。
彼の心は彼にしか解らない。愛されていても、愛されていなかったとしても、どちらでも構わない。
今はとにかく、彼を守りたかった。あの城で重ねてきた優しい時間への恩を仇で返すような真似だけはしたくなかった。
もうこれ以上、誰にも、彼を傷付けさせまいと誓っていたのだ。私の、何に替えても。
「わたしに、貴方の手助けをさせてください。貴方の大切な親友を脅かした、せめてものお詫びです」
「……私の話を、信じてくれるんですか?その、動く道具たちや、彼のことも?」
絵空事のような話をしている自覚はあった。それこそ、私が思いを馳せていた、数多の本の中にしか存在しないような不思議な出来事だと心得ていた。
『物語は少し苦手なのですよ。貴方のように、純粋な目で夢を見られる年齢はとうに過ぎてしまった。』
あの本を私にくれた日、彼はそんなことを口にしていた。それだけに、彼は最後までその出来事を否定してもおかしくないと思っていた。
けれど、私のそんな予想に反して、彼は肩を震わせて笑い始める。首を傾げる私に、彼はもう一度だけ振り向き、得意気に笑ってみせた。
「私はその彼よりもずっと長い間、シアさんのことを傍で見てきたのですよ?貴方のそれが真実か虚言かを判断することは、傷薬を調合するより簡単です」
誰よりも尊敬し、慕っていた彼に、私の大好きな場所を、そこで出会った大好きな皆のことを信じてもらえた。
その事実がただ純粋に嬉しくて、私も彼に釣られるようにして微笑んだ、まさにその瞬間だった。雨の中に、あの城が姿を現したのは。
2015.5.21: