33

久し振りの家に、私は少しの躊躇いの後でゆっくりと足を踏み入れた。
少しだけ埃の溜まった床や、洗わずにそのままにされている食器、焦がしたフライパンなどが、彼女が慣れない家事に悪戦苦闘した様子を如実に物語っていた。
彼女の濡れたストロベリーブロンドを、タオルで手早く拭いていると、意外にも彼女はその目を開いてくれた。
思っていたよりもずっと早い目覚めに私は驚き、しかし直ぐに安堵の溜め息を零してシェリーの顔をそっと覗き込む。

シア……?」

「うん、私だよ、シェリー

その瞬間、シェリーは勢い良く起き上がり、私を物凄い力で抱き締めた。
先程まで、森の中で倒れていたとは思えない程にその力は強く、このままでは息ができなくなってしまうとさえ感じた。
けれど、そんな彼女から離れることはできなかった。雨に濡れた私のローブに顔を埋め、彼女が声を上げて泣き始めたからだ。

シア!よかった、また会えた……!」

その手は震えていた。私はチクリと胸を刺すような痛みを感じて、その体躯に手を回してそっと抱き締め返した。
私が、この家から、この村からいなくなった。たったそれだけの事実が、彼女を此処まで追い詰めていたのか。
そのことに愕然としながら、私は彼女の背中をあやすようにそっと叩いた。背骨らしき角張りが私の指に触れ、随分と痩せていることに気付き、またしても胸が痛くなった。

「お願い、もういなくならないで。何処にも行かないで。ずっと私の傍にいて……」

彼女の震えるソプラノで奏でられる切実な懇願に、しかし私は直ぐに頷くことができなかった。
それ程に、あの城は、私にとって大切な場所になっていたのだ。私はあの場所へ戻ると約束したのだ。いつまでも、此処にいることはできない。
それでも、こんなに痩せ細った彼女を、こんなにも震えながら私の名を呼ぶ彼女を、今すぐに一人にすることなどできなかった。

一体、どうするのが一番いいのだろう。
私はあの城の皆のことも、シェリーのことも大切だ。どちらかを選び取ることも、どちらかを切り捨てることもできない。私はそうした欲張りな人間だった。
大切なものが増えることはとても素敵なことだと思っていたのに、それが今度は私の足枷となり、私の自由を奪う。
袋小路に追い詰められたようで、くらくらと絶望の眩暈がした。

「!」

その時、家の扉が乱暴な音を立ててノックされた。私は弾かれたように顔を上げて扉の方を振り返ったけれど、その音よりも凄まじいシェリーの反応に驚き、困惑した。
彼女は先程とは比べ物にならないくらいに、大きく体を震わせ、何かに怯えたように扉を見つめていたからだ。
私は慌てて彼女の肩を掴んだけれど、彼女はうわ言のように「助けて」と繰り返すだけだ。
やがてこちらの返事を待たずに、扉が派手な音を立てて開けられた。現れた数人の女性たちに、私は驚き、困惑する。

「……ああ、ほら、やっぱりシアはいるじゃない。やっぱりこの子の頭がおかしいのよ」

クスクスと笑いながら、彼女たちは家の中へと入って来る。
私は慌ててシェリーを背中に隠すようにして、その女性たちを真っ直ぐに見据えた。
何が起きているというのだろう。ノックの返事も待たずに家屋に押し入って、彼女たちは何をしようとしているのか。
けれど、私がそれを問う前に、一人の女性が答えをくれた。

「久し振りね、シア。早速だけれど、その後ろにいるお友達を渡してもらえるかしら。シェリーはこれから病院に入るのよ」

「病院……?」

「だってこの子ったら、「野獣が現れてシアを城に閉じ込めてしまった」だなんて言うのよ?頭がおかしくなったとしか考えられないわ」

ねえ、そうでしょう?
その女性の言葉に、周りにいた彼女達も示し合わせたように微笑みながら頷く。
私はとてつもない衝撃に激しい目眩を覚えながら、後ろで震えるシェリーを庇うように立ち塞がった。

きっとシェリーは、村中の人間に助けを乞うたのだろう。自分があの城で経験した恐ろしい出来事も、彼等に話して聞かせた筈だ。
すんなりと信じてもらえないような内容であることは承知していたけれど、よもやそこに狂気を当て嵌められるとは思っていなかった。
私は愕然とした表情で彼女たちを見上げる。クスクスと楽しそうな笑みを浮かべる彼女等は、まるでシェリーを入院させたがっているようだった。
入院、といえば聞こえはいいが、この国での精神病院への入院はある種の監禁だ。独房のような冷たい病室の存在を、私は本で見て知っていた。
そんな場所にシェリーを入れる訳にはいかない。
それに何より、シェリーは何処もおかしくなどないのだ。彼女が経験した出来事が常軌を逸しているだけで、彼女に非はない。けれど彼女たちは聞く耳を持たない。

「貴方達は、シェリーの言葉を信じないの?」

「信じないわ。野獣なんて、いる筈がない。それにその野獣とやらのせいで、城に閉じ込められた筈のシアは、ちゃんと此処にいるじゃない。
この子の頭がおかしくなったとしか考えられないわ。ちゃんとお医者様の署名も貰っているのよ」

そう言って、彼女は一枚の紙を私に差し出した。
その紙の下に書かれた名に、私は愕然とする。そこには私が誰よりも慕い、尊敬していた人物の名前があったのだ。

『アクロマ』

私はその紙を握り締め、開け放たれた扉から外へ飛び出した。彼の家へと向かい、事情を聞こうと思っていた私は、しかし外に広がっていたあまりに凄まじい光景に息を飲む。
私とシェリーの小さな一軒家を取り囲むように、沢山の女性が集まっていたのだ。
彼女達は私の姿に驚いた様子を見せながらも、冷たい笑い声でシェリーの名を囁く。その美しい声音が、悪魔の囁きのように聞こえて、私は耳を塞ぎたくなった。

「嫌!放して、誰か助けて!」「静かにしなさい!」「男たちに聞こえたらどうするの!」
そんな家の中でのざわめきを背に聞きながら、私はその、村中の女性が集まっているのではないかと思われる人混みの中に、彼の姿を見つける。
彼はその金色の目を見開いて、いつもの柔らかなテノールで私の名を呼んだ。

シアさん!無事だったのですね、よかった……」

女性の人混みを掻き分け、安堵の笑みを浮かべて駆け寄って来た彼の腕を強く掴み、私は縋るように彼を見上げた。
「一体どうして、いつ、此処に、」そんな言葉を並べていた彼に、私は握り締めていた紙を突き付ける。

「たった今、帰って来たんです。それより、質問に答えてください。
アクロマさん、どうしてシェリーを病院に入れることに許可を出したんですか!シェリーはどこも悪くありません、この書類に書かれたことを取り消してください!」

けれど彼は私の懇願に頷かなかった。代わりにその金色の目を伏せ、沈黙する。
どうしたというのだろう。一体、何が起こっているのだろう。全てが解らずに途方に暮れていた私に、家の中からあの女性が出てきて楽しそうに微笑む。

「無駄よ、シア。アクロマさんはシェリーのことが憎くて憎くて仕方がないんだから」

家の中から聞こえてきたその声に振り向けば、先程の女性がひどく醜悪な笑みでこちらを見下ろしていた。
アクロマさんが、シェリーを憎んでいる?その突拍子もない言葉が信じられなくて、私は彼の方を見上げたけれど、彼はその目を伏せたまま口を開かない。
お願い、何か言ってください。そんな筈はないのだと否定してください。私から大切な人を奪わないでください。お願い。

「彼は他の馬鹿な男たちと同じように、シェリーの言葉を信じたわ。男たちは悲しむシェリーのために、毎日のようにあんたのことを探していたの。
アクロマさんもあんたのことを探していたけれど、でも彼の心は他の男たちとは違っていた」

「……どういうことですか?」

「アクロマさんは、あんたのことが大好きだったの。変わり者の自分を慕う変わり者のあんたのことが、彼は可愛くて仕方なかったの。
だから、自分を逃がしてくれたシアが城に閉じ込められたと聞いた時、彼はあんたを失うきっかけとなったシェリーを、これ以上ないくらいに酷く恨んだのよ」

その女性の言葉を、私は信じられないような心地で聞いていた。
アクロマさんが、私を好きだった?私が彼を慕っていたのと同じように、彼も私のことを大切に思っていてくれた?
そんな筈がない。彼のような立派な人が、私のような何の取り柄もない人間を好きになる筈がない。

シアを失った絶望に暮れていた彼に、この同意書を書かせるのは驚くほどに簡単だったわ」

けれど、そんな彼が何故か、シェリーを精神病院に入れて監禁しようとする彼女達に同意書を書いている。
私の手に握られた紙切れが、彼女の言葉を決定的に裏付けていた。
私は自分に納得がいくか否かとは関係なく、彼女のその言葉を信じざるを得ない状況に置かれていたのだ。

それでも愚かな私は、彼のそれを裏切りと見ることができなかった。
私は自分が慕い、尊敬していたこの人のことを、どうしても信じていたかったのだ。
たとえ、彼が向けてくれたその尊い思いに、応えることができなかったとしても。


2015.5.21

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