その名前を紡いだ途端、目蓋の裏が焦げるように熱くなった。ああ、私は彼女に会いたかったのだと、認めた瞬間、涙が止まらなくなった。
「シェリー……」
彼女はそんな私に歩み寄ることも、話し掛けることもしなかった。ただ笑顔でそこに佇んでいた。
この夢の中の彼女は喋らない。何も言わない。ぴくりとも動かない。
それは私が、シェリーのことを忘れかけていたからだろうか。あの優しいソプラノを、その優雅な仕草を、記憶の奥に押し遣ってしまっていたからだろうか。
彼女はその穏やかな笑顔で、私を冷たく叱責しているのだろうか。
これは、彼女を忘れかけていた私への罰なのだろうか。
ごめんなさい、と謝罪の言葉を紡ぐ間もなく、その白い空間が闇に溶けていく。
そうして目を開ければ、もうそこに彼女の姿はなかった。紙の匂いと、無数の本。見間違える筈がない、あの図書室だった。
ああ、もう夢は終わってしまったのだと、私は認めざるを得なかった。夢の中で燃えるように熱くなっていた目蓋が、再びその熱を持ち始めていた。
あまりにもこの城を愛し過ぎたが故に、私は村への愛着を、そこで彼女と過ごした時間を手放してしまうところだった。
私の、かけがえのない親友のことを、忘れてしまうところだった。
今、ここで彼女の夢を見なければ、私は彼女の姿さえも記憶の海に沈めてしまっていたのだろうか。
そのことがどうしようもなく恐ろしかった。そんな残酷なことをしようといていた私が許せなかった。
「起きたか。お前は本当に此処で寝るのが好きだな」
「!」
その声に振り向けば、彼が隣の椅子に座って呆れたように私を見ていた。
けれどそれは一瞬で、彼はさっと顔色を変えて私の肩を掴んだ。私がその行動に驚いていると、彼は思いもよらない一言を紡ぐ。
「どうした、何故泣いている」
私は彼の言葉に、慌ててエプロンドレスの袖で頬を乱暴に拭った。けれど拭っても拭っても溢れてくるものは留まるところを知らなかった。
彼は眉をひそめながら、しかし何も言わずに泣き続ける私にどんな言葉を掛ければいいのかと迷っているようだった。
彼を、困らせている。解っているのに止まらなかった。この悲しみは夢から覚めても続くのだと、認めれば益々目蓋の裏が熱くなった。
そしてついにはみっともなく嗚咽を零しながら、私は決して声に出してはいけない人の名を呼んでしまうことになる。
「シェリー……」
私は弾かれたようにはっと顔を上げた。彼は私の口から零れたその人物の名前に、愕然とした表情で沈黙していた。
いけない、この人の前で彼女の名前を出してはいけなかったのだ。外の世界に強い未練を残していることを、彼が知ればきっと傷付いてしまう。
私がこの城に残る原因を作った自分を、臆病で繊細な彼はきっと責めてしまう。
「ご、ごめんなさい。彼女の夢を見て、少し、懐かしくなっただけなの」
嗚咽の合間にそう告げる。徐々に収まって来た涙に安堵しながら、更に弁明を重ねようとした私の腕を、彼は立ち上がって強く引いた。
急なその行動に私は焦りながらも、捕まれていない方の手で目元を乱暴に拭いながら彼に付いていく。
何処へ行こうとしているのだろう。そう尋ねようとした私の声と、彼のその声とが重なり、私は慌てて口を閉ざした。
「お前の親友……シェリーの様子を知る方法がある」
信じられないようなことを言う彼に、私の涙はぴたりと止まってしまった。
村に住んでいる彼女の様子が、この城にいながらにして解る?夢のようなその話に、期待と懐疑が頭の中で渦を巻く。
けれどそんな方法も、もしかしたらあるのかもしれないと思い始めていた。だってこの城では道具たちが動き、本が夢を見せるのだから。此処には魔法があるのだから。
彼は私の手を引いたまま、離れの塔から渡り廊下を歩いて城へと戻り、階段を上り始めた。
4階を通り過ぎ、5階へと上がる。こんなに上の階にやって来たのは久し振りだった。
4階から上は、その部屋の多くに鍵が掛かっていたため、あまり散策するのもよくないだろうと思い、立ち入ることを控えていたのだ。
彼は5階の廊下を少しだけ速足で歩き、一番奥にあった立派な扉の前で立ち止まった。
私の手がそっと放され、彼は服のポケットから鍵を取り出して開ける。大きな扉を開き、私に入るように無言で促した。
私の部屋よりも更に広いその空間には、しかし家具の類は極端に少なかった。
大きなベッドに、美しい彫刻が彫られたチェストやタンス。窓に掛けられたカーテンには、金の刺繍が施されていた。
此処は、彼の部屋なのだ。初めて踏み入れたその空間で、私は好奇心からあちこちに視線を移していると、ふと、テーブルの上に置かれた薔薇が目に入った。
綺麗な赤い薔薇は、丸いガラスケースの中で宙に浮き、淡く光を放っている。
思わず「綺麗……」と零したけれど、どうやらその薔薇は枯れかけているようだ。ガラスケースの下に、薔薇の花弁が何枚か散っているのが見えた。
魔法のかけられた薔薇でも寿命を迎えるのだと、私はまた一つ、このお城に眠る不思議な魔法のことを知る。
彼はそのテーブルに歩み寄り、赤い薔薇ではなく、その隣に置かれていた手鏡を取り上げた。
細かな装飾が彫られた、とても美しいそれを彼は私に手渡す。当たり前のようにその鏡は私の顔を映した。
とても綺麗ね。そう呟いた私に、彼はこの鏡の秘密を教えてくれた。
「その鏡は、お前の見たいものを見せてくれる。それに向かって、願うといい」
その言葉には流石に驚いたけれど、そんな魔法のようなことを聞いても、信じられないとはもう思わなかった。
私はこれまで、ひとりでに動く家具や食器、奏者がいなくても綺麗な音を奏でる楽器、私に夢を見せてくれる本など、この城で沢山の不思議なものを見てきたのだから。
今更、そんな魔法のような品が登場したところで、その存在を否定するようなことはしない。
代わりに私はその手鏡を持って、彼を見上げ、肝心なところを尋ねてみる。
「私が、使ってもいいの?」
「……よくなければ、お前にそれを手渡したりしない」
彼らしい肯定の返事に、しかし私は笑うことができなかった。微笑む余裕など失われていたのだ。
シェリーの様子を、この鏡が教えてくれる。彼女を見ることができる。
彼女は、どうしているだろうか。あの家で一人、暮らしているのだろうか。それとも、もうフラダリさんの元で一緒にいるのだろうか。
元気にしているだろうか。ちゃんと食事は摂っているだろうか。楽しいと言っていたダンスは続けているのだろうか。笑っているだろうか。
湯水のように湧き出るその疑問が私の鼓動を加速させた。心臓の揺れを落ち着かせるために深く息を吸ってから、その鏡に向かって声を掛ける。
「シェリーに会わせて」
その瞬間、私を映していた筈の鏡が淡く光を放ち、彼女の姿を見せたのだ。
久し振りに見た彼女の姿に私は感動し、涙ぐむことさえ覚悟していた。けれど涙すら引っ込んでしまう程の衝撃に、絶句することしかできなかった。
「……シェリー?」
彼女は、倒れていたのだ。
嵐のように吹き荒ぶ風が、彼女の頬に打ち付ける。ざわざわと揺れる木々の音が、彼女の居場所を教えてくれた。私がシェリーを探しに入った、あの暗い森の中だ。
私を追い掛けて、森の中へと足を踏み入れたのだと容易に察することができた。私は青ざめ、動揺した。
「シェリー、起きて!ねえシェリー!」
どうして、どうして森の中に入ったりしたの。どうして私を迎えに来ようとしたの。
もう二度と此処には来ないでと言った筈なのに。私は彼女をあの牢屋から出してあげたくて、自らこの城に残ることを決めた筈なのに。
私は貴方を忘れてはいけなかったけれど、貴方は私のことを忘れなければならなかった筈なのに。
痩せ細り、顔色も悪くなっていた彼女は、今にも死んでしまいそうに見えた。恐怖に手が震える。
お願い、死なないで。私はその手鏡を強く握り締めた。
その時、私の隣でその鏡を共に見ていた彼が、信じられない一言を紡ぐ。
「行ってやれ」
「!」
「その、親友のところへ」
与えられた自由は、しかし私の心臓を緩やかに締め上げた。
ざあっと、激しい音を立てて雨が窓を叩いた。私の涙を引き取ったかのように、空が声をあげて泣いていた。
2015.5.21