「ごめんなさい、トウコさん。貴方がくれたアドバイス、上手く生かせなかった」
私は泣きじゃくりながら、嗚咽の合間にそれだけ告げた。
彼女は何があったのかを追及することもなく、泣きたいだけ泣きなさいと笑って私を許してくれた。
ただ黙って、彼の視線と言葉に耐えていたなら、こんなことにはならなかったのだ。
上品に、淑女らしく振舞っていたなら、彼の機嫌を損ねることだってなかったかもしれない。
きっと、私が悪いのだ。あの場で楽しもうなどという欲を出したから、美味しい料理につい口元が緩んでしまったから。
けれど、それくらい許されてもいいような気がしていた。彼はどこまで私の権利と尊厳を奪えば気が済むのだろう。
やるせなさと憤りに眩暈がした。もう彼のことを思い出したくもない。
ああ、そういえば昨日もこんな風に泣いていたような気がする。
何も変わっていない。私は此処に閉じ込められた人間で、彼とはどこまでも相容れない。
……けれど、昨日とは大きく違うものがある。
一人だと思っていた私は、今日一日で一人ではなくなっていた。このお城にはひとりでに動き、人間の言葉を喋る沢山の「もの」たちがいたのだ。
彼等はそれぞれ自我を持っていて、人間である私に興味を示し、親切にしてくれた。
久し振りのお客様だからと、朝食やお昼の軽食も全て用意してくれた。私は彼等の厚意に甘えながら、此処にいてもいいのだと思えるようになっていた。
そう、彼だけだ。彼への憤りさえ私が上手く押し殺すことができれば、上手くやれる。
けれど、できるだろうか。初日ですらこの調子だというのに。
「……あんたに淑女はまだ向いていないかもしれないわね」
ようやく私の涙が収まってきた頃に、トウコさんはそんなことを口にした。
「どうせ、あいつに傷付くことを言われたんでしょう?それなら、あんたからも言い返してやればいいわ。
最低限の礼儀を持ち合わせていない奴に、淑女を見せる必要なんかないわよ。思い切り、あんたの言いたいことをいってやりなさい」
その言葉は、私の心にとてつもない爽快感をもって突き刺さった。
鉛のように重くのしかかっていた義務感と良心が、その言葉によってどろりと溶け、私の足元にガラクタとなって零れ落ちていくようだった。
……そうだ、私も言いたいことを言ってやればいいのだ。彼への憤りを、そのまま声に出して投げてやればいい。
少なくとも、彼は私を殺そうとはしない。だから、きっと何も恐れる必要などなかったのだ。
私は、彼からあまりにも多くのものを奪われ過ぎていた。だから、もう何も恐れることなどない。失うものなど、この命の他には持っていないのだから。
明日もあの場所へ赴かなければならないという絶望は、とっくに消え去ってしまっていた。
明日、彼に何を言ってやろうかしら。そんなことを考えながら、いつの間にか私は肩を震わせて笑っていた。
この鏡台の少女の言葉はとても力強く、いつだって私に元気と勇気をくれる。私に用意されたこの部屋に彼女がいてくれて本当によかった。
「さあ、早く着替えて、今日はもう寝なさい。あまり夜更かしすると、明日もその目の腫れを引きずることになっちゃうわよ」
彼女のそんな忠告に従い、私はすぐに着替えてベッドへと入った。
このベッドは、たとえ寝返りを2回したとしても落ちることはないだろうと思わせる程の広さがあった。
それ故に、少しの寂しさを感じた。この空間は、やはり私には広すぎるのだ。
けれど、早く眠りなさいと諭した彼女がベッドの隣で饒舌に喋り続けていることがおかしくて、そんな切なさも何処かへ行ってしまった。
そう、きっとこのお城では、寂しさを感じている暇すらないのだ。
*
次の日、同じ時刻に朝食を持ってきてくれたバーベナさんは、私に深々と頭を下げた。
私がその様子に焦っていると、彼女はぽつりと謝罪を紡いだのだ。
「昨日はゲーチス様が失礼なことを仰ったようで、本当に申し訳ありませんでした」
その声音が本当に切実な響きを持っていたので、私は慌てて気にしていない風を装おうとした。
けれど、そんなこと、無駄だったのだろう。だって私はあの場で泣いてしまったのだから。誰がどう見ても、私が彼の言葉に傷付いてしまったのは明白だった。
だから私は、ありのままを口にすることにした。
「バーベナさん、謝らないでください。私はあの人に対して怒ってはいるけれど、貴方のことは大好きなんです。だから、あの人に代わって謝ろうとしないで」
その言葉に彼女は頭を上げ、困ったようにふわりと微笑んだ。
そう、この優しい女性に謝罪の言葉を貰っても、私が申し訳なくなるだけなのだ。それで彼への憤りが収まる訳でも、彼を許すことができる訳でもない。
そう、いつだって、彼は謝罪や指示を自ら行わず、ダークさんやバーベナさんに託すのだ。そのやり方が益々気に食わなかった。
「ごめんなさい、バーベナさん。私は今日、あの人に言いたいことをちゃんと言います」
「え……?」
「貴方たちのご主人様に、失礼なことを言ってしまうと思います。それでも、私を嫌わずにいてくれますか?」
そう、彼等はあの傍若無人な主の命令に従い、彼を心から案じているのだ。
そんな彼等が、いくら私がお客様であるとはいえ、主人に尖った言葉を向けることを許したりはしないだろう。
そんな懸念からそう口走ったのだが、彼女はクスクスと笑いながら「勿論ですよ」と頷いてくれた。
「ありがとうございます、シアさん」
そうして、そんな感謝の言葉さえも告げるのだ。私はその姿勢に困惑した。
私は今夜、貴方たちの主に酷い言葉を投げようとしているのに、それを彼等は許してくれるという。
その意図が解らずに絶句していると、彼女はその優しい目で私を見上げた。
「あの方を、見限らずにいてくださるのですね」
私は息を飲んだ。
……確かに、私は彼のことが許せないけれど、彼を「いないもの」として扱うことはどうしてもできなかった。
けれどそれは、バーベナさんが思うような、優しい慈悲によるものでは決してない。
だって、どうしても許せないのだ。私の権利と尊厳を悉く踏みにじった彼を、辛辣な言葉ばかりを掛け続ける彼を、私はどうしても許せない。
だからこそ、向き合うのだ。彼が私を傷付けるのなら、私も同じ刃を向けてみせようと心に決めただけのことであって、彼に慈悲を向けた訳ではない。
けれど、そう訂正することはどうしてもできなかった。だって彼女が、泣きそうな顔をしていたからだ。
小さな嘘に胸が軋む思いがしたけれど、此処で私の真意を告げた方が彼女は傷付くのではないかと思ったのだ。
*
トウコさんが今日の晩餐に選んだのは、若草色の鮮やかなドレスだった。
フリルの少ない、軽いものだったけれど、やはりこの手触りのよすぎる布と、蝋燭の僅かな光さえも反射する美しい光沢には畏れ入ってしまう。
高いヒールには、まだ慣れない。長い髪は、トウコさんが魔法のような手さばきで整えてくれた。
7時5分前になれば、外套掛けのダークさんと燭台のダークさんが迎えに来てくれる。私は彼等に挨拶をして、その後ろを追うようにして歩いた。
「シアに食器の使い方を聞かれた時は、笑いを堪えるのが大変だったよ」と、燭台のダークさんに茶化されて、恥ずかしさに頬が赤く染まった。
けれど、私は気付いていた。彼のそんな軽口も、これからの場の空気を重くしないための、彼なりの気遣いなのだ。
だからこそ、私は彼のからかいに子供っぽく拗ねることはできなかった。寧ろ、罪悪感が募った。
私は今から、貴方たちの主人に、酷いことを言おうとしているんですよ。……けれど、そう告げる前に、扉の前へと案内されてしまい、私は言葉を発するチャンスを失った。
彼は昨日と同じ席に着いていて、私も向かいの椅子に座り、前菜が運ばれて来るのを待った。
けれど、いざ言いたいことを言おうとすると、喉が潰れたかのように言うことを聞かないのだ。
ああ、人を傷付けると解っている言葉というのは、こんなにも口にし辛い重さを孕んでいるものなのだ。
そう思ったけれど、私自身がこれまでに散々、彼にそんな言葉を突き刺されていることを思い出し、少しだけ、気が楽になった。
この人は、息をするように人を傷付ける言葉を紡ぐことができるのだ。そんな相手に、遠慮する方がどうかしている。
「こちら、前菜です。冷めないうちにお召し上がりください」
けれど、動くワゴンの説明と共に食事が運ばれてきた瞬間、私は紡ごうとしていた非難と糾弾の言葉を飲み込まざるを得なくなってしまった。
だって、こんなにも美味しそうな料理なのだ。私が今ここで乱暴な言葉を口にしてしまっては、この美しい料理にも、これを作ってくれた皆にも申し訳ないような気がした。
今日の料理は、当たり前だが、昨日のものとはメニューが全く違っていた。
料理が違えば、用意されている食器も違う。私は燭台のダークさんのアドバイスに耳を傾けながら、けれど決して笑わないように気を付けて、少しずつ料理を口に運んだ。
そうして私は淑女らしく、この食事を静かに楽しむことを選んだ。向かいのテーブルに、彼が座っていることを忘れた振りをして。
……けれど、いつまでもそんな嘘を吐き続けられる筈がなかった。
2015.5.16