昔々、森の中の大きな城に、とても美しい王子が暮らしていました。背はスラリと高く、若葉のような瑞々しい緑に、血のように鮮やかな赤い隻眼をしていました。
しかし、その王子はとても傲慢に育ったために、城に暮らす人々は手を焼いていました。
王子の双子の弟は彼を理解することを諦め、部屋に閉じこもってしまいました。
専属の執事である3人の男は彼を教育することを放棄し、ただ彼の命に従うだけの僕と成り果てていました。
料理を担当するメイドも、広い屋敷を掃除する使用人も、服を用意する仕立て屋も、この傲慢で理不尽な怒りを絶やさない王子を見限っていました。
何もかもを手に入れている筈の王子は、いつだって孤独だったのです。
そんな王子の住む城に、ある嵐の日、一人の老婆がやって来ました。彼女の服は打ち付ける雨と泥でひどく汚れていました。
王子はその老婆の醜い姿を嫌い、眉間にしわを寄せました。
「森で迷ってしまいました。どうか一晩、泊めて頂けませんか?」と懇願する彼女を、しかし王子は拒絶し、追い返そうとしました。
こんな醜い、薄汚れた人間を城に入れるなんて、と、その隻眼は雄弁に語っていたのです。
老婆は籠から1本の赤い薔薇の花を差し出し、「これを泊めて頂く代わりに」と告げました。
しかし、やはり王子は聞き入れず、その薔薇を勢いよく叩き落とし、帰るように急き立てました。
するとその老婆は一瞬にして、美しい女性へとその姿を変えました。彼女はこの地に古くから伝わる、偉大な魔法使いだったのです。
その女性の迫力に怯んだ王子に、彼女は魔法をかけました。
すると王子は、みるみるうちに醜い姿へと変わり果ててしまったのです。獣を彷彿とさせる、人間ともポケモンともつかないようなその姿は、まるで化け物のようでした。
彼女の怒りは収まらず、その魔法を城中にかけてしまいました。双子の弟も、王子に仕えた使用人も、全て人ならざるものへと変えられてしまったのです。
その魔法使いは、城に赤い薔薇と小さな鏡を残して消えてしまいました。
「この薔薇が全て散ってしまうまでに、この醜い心を持った男が優しさを、労る心を、そして愛を知り、誰かを愛し愛されたなら、この呪いは解けるだろう」
王子は自らの醜い姿に絶望し、城の中に閉じこもりました。見たいものを何でも映してくれる、その不思議な鏡が、彼と外の世界を繋ぐ、唯一の窓となったのです。
魔法使いが残した赤い薔薇は、とても美しく輝いていました。暗く変わり果ててしまった城の中で、その美しさは異彩を放っていました。
城の者は焦りました。薔薇が散ってしまうまでにこの王子が愛されなければ、王子も、自分達も、元の姿に戻ることができないのです。
しかし、誰が愛してくれるでしょうか。優しさを、労る心を、愛を知らない、醜い心を持った化け物を。
***
「シアさん」
柔らかなテノールに顔を上げれば、太陽の目をした男性が微笑みながら私の頭をそっと撫でていた。
彼の言いたいことはもう、解っている。私がこの本を手に取るのは、もう6度目なのだ。
序盤に至ってはもう諳んじられるのではないかと言う程に読み込んだその物語を抱きかかえ、私は肩を竦めて笑ってみせる。
「だって、何度読んでも飽きないんです。アクロマさんも一度、読んでみませんか?」
村の外れの、高い煙突が付いた一軒家。私は毎日のようにこの場所へと通っている。
この家の主であるアクロマさんは、村では珍しい「白衣」という白いコートのようなものを身に纏っている。
人やポケモンの薬を作ってその治療に当たる、この村唯一の医師という存在である傍ら、彼はおかしな研究を一日中繰り返しているのだ。
この村で「変わり者」は誰かと聞かれれば、必ずアクロマさんの名前が挙がる。それ程に、彼はこの静かで平和な村から、良くも悪くも一目置かれた存在だった。
「物語は少し苦手なのですよ。貴方のように、純粋な目で夢を見られる年齢はとうに過ぎてしまった」
「それなのに、アクロマさんの書庫には物語の本が沢山、ありますね」
「以前、この村で本屋を営んでいた、青い髪の夫婦から譲り受けたのですよ。わたしが読むのは専ら、化学や生物の本ですから」
そうだったんですね、と相槌を打つのもそこそこに、私は先程の本へと視線を落とす。
深い緑の分厚い表紙を捲れば、そこはもう、私だけの世界だ。此処ではない何処かへ私を連れて行ってくれる。
本を読んでいる間は、限りなく楽しいのだ。私が誰であるかを忘れられる。
本を読む女性が、この村でどんな風に見られているかということも、私が皆からどんな風に思われているのかも、全て、全て忘れて、物語の中に飛び込むことができるのだ。
彼の研究部屋から薄い仕切り一枚を隔てた、大きな本棚が幾つか並んでいるだけの小さな図書館、此処は私のユートピアだった。
私が誰の目も気にせずに、唯一、私で在ることができる場所。インクの匂いと整った活字の群れに飛び込める、私だけの楽園。
アクロマさんは、そんな「変わり者」の私を蔑むことなく受け入れてくれる、数少ない人のうちの一人だった。
「アクロマさん。私、変わっていますか?」
本を閉じ、現実に引き戻された私はぽつりとそんなことを口にしてみる。
フラスコという、丸いガラスの容器に緑の液体を入れた彼は、それを持ったまま私の方へと歩み寄る。
「皆が言うんです。女が本を読むなんておかしいって。あの子はもう15歳なのに、料理も裁縫も掃除も習わずに、知識と空想ばかり蓄えて醜くなっていくんだって」
「貴方が醜い?」
彼はその金色の目を眼鏡の奥で見開いた。木漏れ日の色をしたその目に、吸い込まれそうになって私は絶句する。
彼の目には、引力がある。何かに熱心に取り組んでいる人というのは総じて、こうした「引力のある目」をしているのだと本で読んだ。
けれど私は、そうした美しい目をした人間に、彼を除いて出会ったことはない。
アクロマさんは隣の部屋に消え、しかし直ぐに戻って来た。何を思ったのか、その手には小さな手鏡が握られている。
それを向けられた私は、必然的に自分の顔を覗き込むことになってしまう。濃いブラウンの髪に、青い目をした私が映っている。
「こんなに美しい目をした女性を指して「醜い」とは、村の方々も相当、目が悪くなったらしい」
はっと息を飲む。驚きと歓喜とが入り混じり、私の頬を少しだけ赤く染める。
私が彼の目を美しいと思っていたのと同じ思いを、他でもない彼が抱いてくれている。その事実がただ、嬉しかった。
彼に向けた憧憬は、同じ形で私へと返って来ていたのだと、私はようやく知る。その喜びを隠すように肩を竦めて笑ってみせる。
「わたしが評価しているのは、料理や裁縫の得意な貴方ではありません。本が大好きな貴方です。知識と空想の中でその海のような目を美しく輝かせる貴方です」
「……」
「貴方は聡明な人だ。知識に貪欲で、怠けることを知らない。そんな貴方に慕われるのは、とても嬉しいですよ、シアさん」
柔らかなテノールが、私の欲しい言葉をくれる。白い手袋を嵌めた手が私の髪をそっと撫でる。
彼はいつだって優しいけれど、それだけでは私を肯定してくれる理由にはならない。
きっと、彼が変わっているからだろう。「変わり者」の彼だから、同じようにおかしな私を理解し、肯定してくれる。
そして、それは私も同じだった。私だって、この金色の目を輝かせて日夜研究に没頭する、変わり者の彼を慕っているのだ。
私が此処に来ているのは、本を読むためだけでは決してない。
「それに、貴方は料理や裁縫、掃除だって人並みにこなしているでしょう?貴方と一緒に暮らしている彼女が、そうしたことをできる人間だとはとても思えませんから」
「アクロマさん、シェリーを悪く言わないで」
クスクスと笑いながら、思わずそっと彼を窘めれば、彼は私の髪を撫でていた手をぴたりと止めた。
どうしたんですか?と見上げる視線で訴えれば、彼は呆れたように小さく溜め息を吐きながら微笑む。
「いいえ、貴方が優しい人だと、そう思っただけですよ」
……それは、違うと思う。きっと、私は優しくなどない。
だって本当に優しい人なら、村の皆に受け入れられようと必死に努力をする筈だ。優しい人なら、今すぐにでも本を読むことを止められる筈だ。
けれど私はそれを拒み、そうして村の人に受け入れられることも諦めている。
私を評価し、肯定してくれる人は此処にいるからと、皆の批判を風の声として聞き流すことを私は覚え始めているのだ。
どうしても「優しい人」になることはできなかった。だって読書をやめるには私を捨てるしかなかったから。それをやめてしまえば私は私ではなくなるから。
「シアさん、よければその本、貴方に差し上げますよ」
暗い顔をした私の頭を、彼は再び軽く叩いて笑う。私はというと、彼のその言葉に勢いよく顔を上げ、「いいんですか!」と叫んでしまった。
アクロマさんは安心したように頷く。金色の太陽が眼鏡の奥で穏やかに細められている。
……あれ?優しい人って、アクロマさんみたいな人のことを言うんじゃないかしら。
2015.5.12