ザオボーとビッケは、地下1階の乗船場まで二人を見送ってくれた。
どうやら小さな船を一隻、貸し切りにしていたらしく、ビッケが苦笑しながら「ザオボーさん、そういうことは坊ちゃまに予め許可を取ってくださいね」と窘めていた。
彼はというと、そうしたビッケの忠告にはいはいと適当に返事をして、その白いコートのポケットから小さなケースを取り出した。
「君が眠るとき、わたしに預けていったものを返しておきます。アシレーヌや、君の大好きなポケモン達に、沢山、食べさせてあげなさい。
……ああ、ですがポケマメの調達は君自身がしなければいけませんよ。一粒だけ残っていたポケマメはわたしのフーディンに食べさせておきましたので、中には何も入っていません」
おどけたようにそう告げてニヤリと笑みを作るザオボーに、少女は頬を僅かに膨らませて恨めしそうに軽く睨み上げた。
その、憎悪さえ滲んでいそうな視線が、しかし彼女の最大の甘えであることに、グズマもザオボーも気付いている。だからグズマはそんな彼女を咎めない。ザオボーも、何も言わない。
彼女は博愛を捨て始めている。それは脅迫的に「大好き」を振り撒き続けていた彼女にとって、とてもいいことなのだと思っていた。
グズマだけではなく、おそらくザオボーもそう思っている筈であった。
彼女が「大嫌い」と紡ぐことは、その先を、未来を見る行為であり、そうしてようやく彼女は前に進むことが叶うのだと思っていた。
そう信ずるに十分な希望めいたものが、彼女の「悪意」には込められていた。グズマはそう信じていたかった。
そうした、人よりも少しだけ信心深いところのあるグズマに、ザオボーは「先程、ミヅキとも話していたのですが、」という前置きの後に、面白い提案をした。
「君やプルメリの可愛い部下が路頭に迷わないようにして差し上げようと思います」
この男の言っている意味を直ぐには理解できず、「……そいつは、どういう意味だ?」と怪訝そうな顔でグズマは更に説明を求める。
けれどザオボーはそうしたグズマの反応を馬鹿にすることはせず、寧ろ「当然の反応だ」とでも言うように、大きく頷いて楽しそうにニヤリと笑みを作る。
「代表がかつて君にしていたことを、わたしがしましょう、と言っているのですよ。
具体的には雑用の押し付けと、それに見合った賃金の支払いでしょうか?スカル団が喜ぶような危険な仕事はもう残っていませんので、少々、退屈かもしれませんが」
「……おいおい、そいつはすげえな。要するにオレ等みてえな「ならず者」を、エーテル財団サマが雇ってやろうってことだろう?」
目が眩むような「良い話」だった。
ポータウンを泣く泣く去っていった多くの部下の姿を、そして今も尚、あの寂れた屋敷に残り続けている団員の姿を、グズマは思い出していた。
心臓がサイレンのように暴れ始めていた。わっと波のように押し寄せてきたその、怪物の形をした「歓喜」を、グズマはどう処理していいのか解らずに、狼狽えた。
スカル団の連中はきっと喜ぶだろう。先立つものがなければ悪いことだってできやしない。スカしていることだってできない。
そうした捻くれた生き方に甘んじ続けてきた彼等が、ポケモンの保護や環境保全といった活動に、真面目に取り組んだりするのか、という懸念は残っていたが、
けれどグズマとて、生きるため、生き残るために髪を白くした人間であったから、その点に関しては特に心配していなかった。
人間、必要に迫られれば「らしくない」ことだってできてしまうのだ。
スカル団は、集まっているだけでよかった。何も生まずとも構わなかった。力もないのに威張り散らしていきがって、そうやって生きていかれていたのだ。
ほんの少し、真面目な仕事に携わったところで、スカル団の評判はきっと上がらない。そして、それでいい。
「……まあ、プルメリにとっても、オレにとっても有難い話ではあるな。だがそんなことをして、アンタやエーテル財団に何の得がある?」
良い話、には裏がある。グズマが彼の申し出を警戒するのは当然のことだった。
そしてザオボーもまた、そうした警戒心を露わにする彼に対して、特に気分を害した風でもなく、さも当然のように頷いて「そうですね……」と口を開いた。
「誰でもいいから人手が欲しい、というのが一番の理由です。エーテル財団の職員は非力な人間が多いもので、凶暴なポケモンの保護には手を焼いているのですよ。
他にも、保護区にいるポケモンの世話、UBが荒らした土地の環境保全……するべきことは山のようにあります。正直、ニャースの手も借りたいくらい、忙しくしているのです。
あとは……そうですね。わたしなりの礼、と言えばご理解いただけるでしょうか?」
「礼だあ?まるでスカル団に借りがあるような言い方をするじゃねえか」
すると彼は驚いたように顔を上げ、「ああ、解っていなかったのか」とでも言うような、皮肉めいた笑みを作った。
少し伸びたひげをくいとつまみながら、くつくつと喉を鳴らすように彼は笑う。
ザオボーのことをよく知らない彼は、その儀式めいた一連の行為が、どのような言葉の前触れなのか全く読めず、ただ息を飲んで次の音を待つしかない。
「楽ではなかったでしょう、君にとって、この2か月というのは」
零れたその音はまるで冷たい水蒸気のように、この白い空間にふわりと放たれ、グズマの飲んだ息の中にさも当然のように溶け込んでいった。
今、自分はこの壮年の男に称えられようとしているのだと、彼は自分の歩みを大きく評価し、あろうことか賞賛さえしようとしているのだと、
その涼しい真実が、グズマの肺のずっと奥で優しい渦を巻き始めていた。
あの氷の部屋で感じたものとはまた違う、アローラの暑さを和らげてくれるような、心地良い冷たさを孕んだ言葉が、胸の奥底へ渦を描くようにするすると沈み、ふっと凪いだ。
「感謝していますよ、同じ小石として。君ほどの勇気と気概を持てなかった、つまらない端役として」
小石にぽんと背中を押されて船へと足を着けながら、グズマは「こんな『小石』があってたまるか」と、心の中でそっと悪態をついた。
そのすぐ後にぴょんと飛び乗ってきた少女が、くるりと振り返ってザオボーとビッケに手を振った。
「また来てもいいですか?」と乞うように尋ねれば、ビッケは「勿論です」と大きく頷き、ザオボーは「仕方ありませんねえ」と面倒そうに、けれどどこか嬉しそうに、答えた。
「君が来なくとも、わたしが直々にポータウンへ赴きますよ。元気だけは人一倍あるスカル団の皆さんに、していただきたい仕事が山のようにあるのですから」
「……あまりオレの部下を苛めてくれるなよ」
「善処しましょう」
そうして船が走り出した。ザオボーはすぐに踵を返してエレベーターの方へと歩き出した。
またすぐに会えることを彼は確信していたから、名残惜しく二人を見送り続ける必要はまるでなかったのだ。
それでもビッケは手を振り続けていた。二人の姿が見えなくなるまで、彼女はずっとそうしていたのだった。
グズマは暫く手を振って、そして下げた。彼の分まで少女が振り返していたから、同じように続ける必要など、やはりまるでなかったのだ。
「お前さ、オレにぶっ壊されたかったのか?だからあの穴から出てきたのか?」
白い島から完全に離れた頃、グズマはそう尋ねた。
彼女はクスクスと笑いながら首を振って否定の意を示し、「それだけじゃないんだよ」と、肯定とも否定とも似つかぬ言葉を放った。
「ちゃんと生きなきゃって思ったから、出てきたんだよ、でも貴方は私のこと、ぶっ壊したいだろうなあって思ったの。そうだといいなあって、思っていたの。
それでね、貴方が私をぶっ壊してくれたら、私、アローラを出ていくつもりだった!」
頭を鈍器で殴られたような心地だった。その冷たい鉄で出来た鈍器にはきっと「絶望」という名前が付いていたに違いない。
彼女が笑えば笑うほど、恐ろしくなっていくように思われた。
彼女の明るい声音は、前向きな言葉は、けれどいつだって重く暗いところへと向いていた。彼女はいつだって、嬉々として暗がりに駆けていたのだ。
「皆を振り回した。綺麗な宝石を苦しめた。チャンピオンの役目さえまともに果たせなかった。
そんな悪い子を、みっともなくて弱くて卑怯な悪役を、皆は嫌って、憎んで、そして追い出してくれるんじゃないかって、思っていたの。
でも、誰も私を嫌ってくれなかった。誰も私を排斥してくれなかった。私を責めたのはハウだけだった。皆はハウみたいに優しくなかった。……貴方も、優しくないね」
『ずっと一人でいればよかったのに。笑って、大好きって言って、そうやってずっと一人で傷付いていればよかったのに。ミヅキにはそれが一番、似合っていたのに。』
ハウの陽気な声音がグズマの頭を矢のように貫いた。
あの時の少女の、至福を極めたような表情は「そういうこと」だったのだ。あれはハウの優しさであったのだ。
いつもいつでも笑い続けていた彼には、少女の歪みがしっかりと見えていた。あの少年には、彼女がどんな言葉を求めているのかが、きっと手に取るように解っていたのだ。
「だから私、逃げられなくなっちゃった。アローラから出ていけなくなっちゃった」
善意はこの少女にとって毒以外の何物にもなり得ない。
輝くことを諦めた彼女は、もう悪意にしか「優しさ」を見ることが叶わない。
「どうして皆、私を忘れていないんだろう」
「……なあ、ミヅキ、」
「どうしてカントーでの私は忘れられちゃったんだろう」
カントー、という言葉をこの少女が紡いだのは初めてのことだった。
ああ、やはりこいつの出身はカントー地方だったのかと、グズマはいよいよ確信するに至り、
そして、彼女が帰りたくて帰りたくて仕方ない場所を示す「カントー」という音を、この少女があまりにも惨たらしい声音で紡いだことにただ、驚いていた。
けれど彼女はその惨い声音をなかったことにするかのような、甘く幼い高さの音で「グズマさん」と名を呼び、いよいよ泣きそうに彼を見上げる。
グズマは何も言わず、笑うことさえせずに、ただ彼女の次の言葉を待っている。
「この船から降りたら、貴方の町に行きたい。そこで私のこと、聞いてほしい」
その煤色の目は、笑えていない。
「小石の話を、してもいい?」
2017.2.10