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ポケモンセンターで宿を借りた。当然のように別室での宿泊を希望した少女は「また明日」と短く挨拶をしてひらひらと手を振り、パタンと個室に飛び込んでしまった。
正直、グズマは気が気でなかった。翌朝になってスタッフから、「あの元気な子ならもう随分前に出ていかれましたよ」などと言われやしないかと、不安で仕方なかったのだ。
とでもではないが、ベッドに入って熟睡できるような心持ちにはなれなかった。けれど入って、眠いのだと言い聞かせれば目蓋は自然に下りてきた。抗うことすら忘れていた。

けれど朝になっても少女はいた。朝7時に階下へ下りれば既に彼女は身支度を整えていて、「おはよう」と変わらぬ笑顔でグズマに朝の挨拶をした。
アブリボンやミミッキュといった小さなポケモンをカフェのテーブルに出して、撫でたりブラッシングをしたりして戯れていた。

「朝飯はもう食ったのか?」

「え?……あはは、グズマさんを置いて先に食べるなんて、できないよ」

気の抜けるような笑顔だった。模範的な言葉であった。だからグズマは肩の力を抜いて、「そうかよ!」と不安を振り払うような大声で告げて、乱暴に椅子を引いた。
コーンが混ぜ込まれた甘いロールパンをゆっくりと食べるグズマの向かいで、少女はそのコーンをパンから一粒ずつ指でつまみ出していた。
コーンが嫌いなのだろうか、とも思ったのだが、その直後、彼女は何の躊躇いもなくその粒をぽいっと口に放り込んだので、単に食べ方の癖なのだろうと思うことにした。

そんな風に時間をかけて食べているので、早々に食べ終えてしまったグズマは暇を持て余しかけていたのだが、
けれどその時間は、少女の連れていたアブリボンとミミッキュのおかげで「暇」なものではなくなってしまった。彼等はグズマにひどく構いたがったのだ。
楽しそうに周りを飛び回るアブリボンに「頼むから寄ってくるな」と睨み付けるが、全く効果を示さず、逆にアブリボンは益々グズマの方へと近付いてきた。
人の感情をその大きな目で見ているアブリボンにしてみれば、グズマの目まぐるしい感情の渦など絶好のポイントなのだろう。
そんな彼を見て、ミミッキュがその皮の下で楽しそうにきゃっきゃと笑っているのだからどうしようもない。
ああもう分かった、好きにしな。そう告げて頭を伏せれば、彼の白い髪がくいと軽く引っ張られた。
どうせまたアブリボンの悪戯だろうと思って、不機嫌そうな目つきで顔を上げれば、彼を覗き込むように頭を下げた少女が、クスクスと至極楽しそうに笑っていた。

「髪、お揃いだね。私もずっと前、白い髪にしたことがあったんだよ」

知らない振りをして「へえ、そうなのか」と軽く驚いてみる。
彼女はグズマがリーリエと会っていたことを知らないのだから、彼女が髪を白く染めていたことを彼は知っていてはいけないのだ。知らないことになっているのだ。
間違っても「お前のオヒメサマから聞いたぜ」などと口にしてはいけないのだ。グズマとて、それくらいのことはとてもよく解っていた。

「お前には黒が丁度いいんじゃねえの?赤も金も白も、似合わねえよ」

すると彼女はにわかに裏切られたような表情になり、けれど一瞬にしてそれを手放し「そっかあ」とふわふわした声音で紡いだ。
間違えてしまったのではないか。グズマはそう焦ったが、弁明の言葉を考えるより先に少女は勢いよく席を立ち、残りのロールパンをぎゅっと握り潰して口の中へと押し込んだ。
行きましょう、とその小さな口は告げていたようなのだが、如何せん、ロールパンに埋め尽くされた口では適切な音にはならなかった。
グズマはそんな彼女を思いっきり笑った。笑えば、どうとでもなるように思われたのだ。

イリマはとても嬉しそうに笑って、少女の頭を撫でた。
彼女は笑顔で「ごめんなさい」を紡ぎ、いかに自分が愚かであったかを雄弁に、流暢に語ってみせた。
唖然とするイリマに少女は再び笑いかけて、そのままくるりと踵を返してトレーナーズスクールを飛び出した。
グズマは適当な言葉で彼の心を取りなしてから、大きな溜め息と共に少女を追いかけた。

スイレンはグズマと少女を交互に見比べるようにして、それから「うん、やっぱり二人は二人でいる方がいいですね」と大きく頷いた。
釣りをしている途中であった彼女は、それ以上の言葉を紡がなかった。少女への興味を忘れたかのように湖面へと視線を落とせば、少女も特に拘泥せずすぐに立ち去った。
彼女の足音が遠ざかるのを聞いたスイレンはくるりと振り返り、「ありがとうございます」と、グズマにしか聞こえない声で感謝の言葉を告げて、困ったように笑った。
彼女にはきっと、大変なのはここからであることがよく解っているのだろう。だからこそ、その笑顔は僅かな憂いを残していたのだろう。
「何かスイレンにできること、ありますか?」と尋ねる彼女に「また、アンタでもできそうなことを探しておくよ」と告げて、グズマは小さなキャプテンに背を向けた。

カキとは、8番道路に向かうトンネルの傍で出会った。
少女の姿をその目に認めた彼は、驚きのあまり、ダンスの練習に使っていたと思しき鉄の棒を盛大に落とし、その先が足の指にぶつかったらしく、呻き声を上げてうずくまった。
慌てて駆け寄った少女は、けれど笑いながら「カキさん、どうしたんですか?まるで私みたい」と告げて彼に手を伸べた。
彼は跪いたまま、少女の伸べた手を両手で包み、そこへ額を押し当てるように頭を垂れて「よかった……」と、消え入りそうな声音で、呟いた。
彼女は「どうして貴方が安心しているの?」などとは言わず、ただ黙って彼の祈りを眺めていた。彼が立ち上がるのを待って、たった一言「ごめんなさい」とはっきり紡いだ。

マオは少女をぎゅっと抱き締めて、彼女自身の後悔を吐き出すように、沢山、沢山謝罪の言葉を並べた。
この少女が自分にとって、どれだけ立派で輝く存在であったか、彼女のことをどんなに多くの人がどれほど心配していたかを、力説した。
少女は困ったように笑いながら、うん、うんと、彼女の言葉の全てに肯定と承諾の返事を告げていた。「違う、私は小石だよ」とは、言わなかった。

マーマネは笑って少女の帰還を喜び、マーレインは笑いながら彼女の愚行を叱った。少女は二人の言葉に大きく頷いていた。
クチナシはふっと楽しそうに笑い「よかったな、あんちゃん」とたった一言だけグズマに告げて、すぐに手元の新聞紙へと視線を落とした。
ハプウは満足そうに笑ってから「少し痩せたのではないか?」と、大量の果物を大きな紙袋へと詰め込み、グズマに持たせた。
マツリカは嬉々としてキャンバスを広げ、よく熟れたオレンジでジャグリングめいたことを始めた少女と、それを呆れたように見つめているグズマを、描いた。

プルメリと下っ端の待つポータウンに向かえば、どこから情報を仕入れたのか、彼等はグズマが少女を連れ戻すことに成功したことを、既に知っていた。
薄汚れた屋敷は荒っぽい歓迎のムードに賑わっていて、少女はあれよあれよという間に主賓の席へと案内された。

「なあミヅキ、行くところがなくなったら此処に来ないか?荒っぽくて馬鹿な連中ばかりだけど、皆、あんたを悪いようにはしないよ、絶対に」

プルメリがそう告げれば、少女は驚いたようにその目を見開き、大きな瞳のままにぱちぱちと恣意的な瞬きを幾度か繰り返した後で、
「もしかしたら、お世話になっちゃうかもしれません」と、以前の彼女であるならばあり得ないような言葉を返し、泣きそうに笑った。

その「泣きそうな」笑顔が、居場所を提供されたこと、迎え入れられたことに対する感極まった喜びの表情ではないことくらい、グズマには解っていた。
そこにあったのは歓喜などではない、絶望だ。彼女はかつてグズマの誘いを「輝くために」断ったのだ。
今の、プルメリの誘いを受け入れた彼女はもう「輝くこと」を諦めてしまっている。彼女はもう、輝くための数多の奇行を、暴走を、働かない。働く理由がない。

『私、ちゃんと生きるんだよ。』
『幸せじゃなくても、笑えなくても、排斥されても、輝けなくても、どう生きればいいか分からなくなったとしても、生きるの。』
少女の誓いの言葉が、確かに美しかった筈のあの言葉がグズマの脳裏でチカチカと点滅する。赤と黄色の眩しいライトが、彼の頭に警鐘を鳴らしている。

「グズマさんはいいの?私がスカル団に入っても、困らない?」

「……オレは別に構わねえさ。もういっそのこと、お前がボスになっちまえばいいんじゃねえの?そんだけ、強いんだから」

ふざけた言葉であることは重々承知していた。グズマとて、自らが率いてきたこの組織をそう容易く譲り渡すつもりなど毛頭なかった。
彼女もそれが冗談であることは心得ていたようで、おどけたように肩をぐいと竦めて笑い、……そして、その細めた目のままにグズマを睨み上げた。

「私みたいな人にそんなキラキラした立場、務まらないでしょう?そんな面白い話、もう見飽きちゃったでしょう?
……グズマさん、貴方は私がみっともないことをとてもよく解っている筈なのに、どうしてそういう意地悪なこと、叶いっこないようなことを言うの?」

「……いや、その、」

「嫌いだよ、貴方の今の冗談は、嫌い」

ちゃんと生きるということは、「諦める」ということなのだろうか。

少女はふいと視線を逸らし、エネココアの入ったマグカップを持ったまま、顔馴染みらしき下っ端の輪の中へと入っていく。
下っ端は嬉しそうに少女の頭をわしゃわしゃと撫でる。黒い髪がふわふわと波のように揺れる。

喜劇の幕はまだ下りていない。彼女自身がそれを許していない。

何がいけなかったのか。何処で間違えたのか。何故このような、おかしなことになってしまったのか。
何もかもがグズマには解らなかった。11歳の幼く拙い心は複雑に絡まりすぎていて、とてもではないが紐解くことができなかったのだ。
そんなグズマの隣にそっとやって来たプルメリは、苦笑しながら「焦っちゃいけないよ、ボス」と彼を柔らかく窘めた。

「一つずつでいいじゃないか。一度に何もかもを受け入れられるような賢さを、まだ11歳の子供に求めるのは酷ってもんだよ」

「……ああ、そうだな」

「あんたはよくやったよ。この2か月間、誰にもできなかったことをあんただけがやったんだ。
でもこれからの仕事は、あんただけじゃない、アローラの皆で解決していくことだ。たった一人で導けるほど、子供ってのは素直な生き物じゃないんだよ」

解っている。たった一人の力で引っ張り上げられる程、あの少女は真っ直ぐな存在ではなかったことを、グズマがおそらく一番よく、知っている。
脆く弱い「子供」とかいう存在と、一人で向き合い続けることなどきっと不可能なのだ。
そうした優しい「当然」を説くプルメリの言葉が、けれど今の彼には消毒液のようによく染みた。傷など負っていない筈なのに、泣き出したくなったのだ。


2017.2.9

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