37

アローラで最も高い山の、最も高い場所には、ポケモンリーグがある。
トレーナーとしての実力を試す場であり、そこで四天王とチャンピオンに勝利した者は「殿堂入り」を達成し、ポケモンリーグに名前を永遠に残すこととなる。

ポケモンリーグが新設された当初、島巡りを終えた優秀なポケモントレーナーたちが、我先にと勇んでこの険しい山を登り、ポケモンリーグの分厚い門を叩いた。
けれどそうしたトレーナーの殆どは、ポケモンリーグで挑戦者を阻む4人、すなわち四天王に打ち負かされ、チャンピオンの間を見ることなくその挑戦に幕を下ろすこととなった。
たった一人に勝つことすら叶わず、ポケモンリーグの神聖な場から弾き出されたトレーナーはおそらく百を超えたことだろう。
それ程に広く、このポケモンリーグの門扉は開かれていた。誰もが挑戦し、戦い、そして敗れていった。

そんな中、ほんの一握りの挑戦者は、四天王と呼ばれる優秀なポケモントレーナーを打ち負かし、チャンピオンの間へと続く階段を駆け上がることとなった。
その人物は、たとえばかつてチャンピオンと戦った島クイーンであったり、またチャンピオンと同じタイミングで島巡りを始めた男の子であったり、
ホクラニ岳の山頂で試練を行うキャプテンであったり、そのキャプテンを見守る男性であったり、エーテル財団を束ねる年若い少年であったりした。
このチャンピオンの間で挑戦者を待つチャンピオンが、ただの少女であった頃を知る多くの人間は、やっと彼女に会える、と勇んで階段を駆け上がった。

そんな彼等はしかし、フロアの最奥に構えられた椅子を見て、驚き、狼狽え、焦り、悲しみ、憤って、……そうした全てをぶつけるかのように、鋭い目つきでボールを構えた。
ぽっかりと空いた黒い穴からモンスターボールが投げ込まれる。現れたアシレーヌはたった一匹で挑戦者のポケモン全てを瀕死に追い込む。
チャンピオンは何も言わない。ただ静かにバトルが終わるのを待っている。椅子の上では彼女の代わりに、使い古されたピッピ人形が笑っている。
挑戦者は誰一人としてアシレーヌを瀕死に追いやることができず、ただ、その輝かしい空間に背を向けるしかない。
チャンピオンの間は真に彼女だけのものであり、他の誰も立ち入ることなど許されていなかったのだと、彼等はアシレーヌの殺気立った戦い方で嫌という程に思い知る。

それでも彼等は何度でも挑戦し、何度でも四天王を打ち負かし、何度でもこの階段を上って、そして敗れる。
挑戦者は彼女と話をすることさえ叶わず、傷付いたポケモンをボールに戻して立ち去る。
背中を向けた挑戦者には、チャンピオンがその後ろ姿をどのような表情で見送っているのか、知りようがない。

「ポケモンリーグのチャンピオン」という誉れ高き栄光は、真に彼女一人のものであった。彼女はこの宝石のような空間で、唯一無二の存在になっていた。
……もっとも、その「事実」を彼女が本当に喜んでいるのかどうかは、誰も知らない。

アローラを震撼させた「UB事件」から2か月が経った。
設立直後は何十人ものトレーナーが押しかけていたこのポケモンリーグも、今ではすっかり静けさを保っている。
耳を澄ましても、聞こえてくるものは風の音ばかりだ。
時は流れる。流行りはいつか廃れる。あまりにも単純なその真実を、男は鼻で笑いながら階段に足を掛けた。寂しさを醸すこの空間は、そうした男の嘲笑を静かに許した。

何人、この上を見ることが叶ったのだろう。長い階段を上がった先に、ぽつんと佇んでいるのであろうピッピ人形を、何人が恨めしく睨み付けたのろう。
「彼女」を想うその何人かは、何度この場所を訪れ、何度戦い、何度敗れたのだろう。
彼等はどんな言葉をあの虚無の宝石へと投げたのか。どんな声音でその名前を呼んだのか。どんな顔でチャンピオンの間を立ち去ったのか。どんな、気持ちだったのか。
そんなことを考えながら彼は一段、また一段と上っていく。上りながら、あまりにも長く、あまりにも短かった2か月を振り返る。

まるで辞書のページを吹雪で捲り上げるかのような、あまりにも慌ただしく、生きる生身の人間を置き去りにするかのような世界の変化だった。
あまりにも慌ただしすぎて、彼は本当の「彼」がどういった人間であったのかをたまに忘れそうになった。

『貴方は壊れてなんかいないよ。』
過ぎる想いは盲目となる。彼はそんなことさえも知らなかった。

エーテルパラダイスの悪行は世に知られることなく、グラジオ率いる新たな組織の元、これまでと変わらず、ポケモン保護や生態調査といった「表向きの仕事」を行っている。
「裏の仕事」であったUBの研究はというと、こちらは完全にストップしている状態だった。
……というのも、その研究対象であった筈のUBが、全くアローラに出現しなくなったからだ。

国際警察の活躍によりUBの保護が為されたらしく、「彼等はもう人に危害を加えることはない」との知らせが、ニュースを通じてアローラ中に渡った。
「保護に協力してくれた優秀なポケモントレーナー」として、国際警察のハンサムは彼女の名前を出した。
彼女のおかげでアローラは平和になった、と彼は至極満足そうに語っていたが、その彼女自身の平和が奪われていては元も子もない。
彼女が国際警察に協力を求められた理由を、男は世話になっていた警官の男性から聞き知っていた。彼女は「Fall」という危険すぎる役を立派に果たしたのだ。

……まったく組織の連中というのは、大勢の安全と一人の安全とを天秤にかけて、至極当然のように一人を切り捨てる。
彼はほとほと嫌気が差していた。ふざけるな、と思えてしまった。
けれどそうした大きな組織に物申すだけの度胸も、そうした組織の傾向を変えるために奮起するだけの力もなかった。
何も持たなかった彼はただ、拗ねていた。受け入れられなくて、駄々を捏ねていたのだ。

『出会った頃からずっと、子供みたいで、怖がりで寂しがり屋で悲しそうで、そんな貴方のことが大好きだったよ。』
そうした意味で彼は真に子供であり、「それ」を彼女は見抜いていた。

しかし今、この男はチャンピオンの間に続く階段に足をかけている。嵐のように過ぎ去った2か月を振り返りながら、一段一段、自らの歩みを噛み締めるように踏みしめている。
彼はもう、「子供」を忘れ始めている。この階段に足を掛けることの叶った、その「強さ」は、少なくとも彼にとっては、子供のままでは決して得られなかったものだ。
彼はようやく、その大きな図体に相応しい力を手にするに至ったのだ。

カツ、カツと、履き慣れた靴が大きな音を立てる。風の音しか聞こえないこの空間に、彼の所在はこれ以上ないほど鮮明に示される。
わざとらしく大きな靴音を響かせるのは、彼の癖だ。彼はそうして周囲に、自らの所在を示そうと努めていた。ここにいるぞ、と誇示したくて堪らなかったのだ。
それでいていざ人と顔を合わせると、その長身故に相手を見下してしまうことが躊躇われ、高い背を折り曲げて、顔を突き出し威嚇するように嘲笑するのだからどうしようもない。
そうしたアンバランスなところだって、ほら、やはり子供であったのだ。

彼の身体は彼の心を裏切りどこまでも大きくなった。その致命的な乖離を隠すように、誤魔化すように、彼は粗暴に振る舞い人を遠ざけ、仲間を集めて強さを装った。
本当は強くなどなかったから、強がることしかできなかったのだ。そうした偽りの強さは、巡り巡ってやはり彼自身を苦しめる結果となった。
持つべき強さと持っている強さの乖離は彼に、叫び出したい、意味もなく暴れたい、という衝動を呼び起こした。
そうした絶望的な衝動に抗う術を彼は持たなかった。絶望や屈辱といったものを耐え凌げる程に、彼は大人ではなかったのだ。

「なにやってんだグズマ」と自身を叱責し、自らの言葉で自らの心に刃を吐き立てた。硬い椅子や窓をぶち壊しにしては、手をあざで青くしたり血で真っ赤にしたりした。
壁を蹴飛ばそうとすれば足を痛めるし、窓を割ればガラスの破片が手に刺さり、血が出る。硬く鋭い無機物に殴り掛かったところで、人間の柔い肌の方が深手を負うのだ。
そんなこと、彼にもよくよく解っていた。解っていながら彼はそうしたものばかりに拳を向けた。
彼の暴力性は、本当は彼自身にこそ最も強く向けられていたのだ。そうして、彼は傷付いていった。自らの傷を認めるまでに、あまりにも長い時間が掛かってしまった。

最後の階段を大きく踏み込んで、彼はチャンピオンの間へと辿り着いた。
風の音だけが鼓膜をくすぐる、生き物の気配を悉く感じさせない場所であった。アローラの頂点を決める場所、彼女がようやく宝石になることの叶った場所だ。
笑わせる、と思った。本当に笑えば、最奥の空気がふわりと揺らめいた気がした。

「よお、久し振りだな」

お前、寂しくないか?

そう告げる代わりに挨拶をした。たった数か月、顔を合わせていないだけであった筈なのに、ひどく懐かしい存在のように思われたのだ。
彼女とはたった数回、顔を合わせて言葉を交わしただけである筈なのに、もうずっと前から彼女を知っているように思われたのだ。
それ程にきっと、この男の歪みとチャンピオンの歪みは似通っていた。似通い過ぎて、共にいると心が擦り減ってしまいそうだった。
共鳴を極めると、二つの魂は一つに溶けるのだ。男にはそれが少しばかり恐ろしかった。少女は、恐ろしさに嘘を吐いて男を慕い続けていた。

チャンピオンの間の最奥では、椅子の大きさに似つかわしくない、小さく頼りなげなピッピ人形が置かれている。使い古されたぬいぐるみは、寂しげに挑戦者を待っている。
その背後では、あの恐ろしい世界を思い出させる黒雲が小さく渦を巻いている。
暗い渦の中、何者かがボールを大きく振りかぶっているのが見える。男は思わず目を凝らす。ボールの中から現れたアシレーヌが、その黒雲を塞ぐように男の前へと立ち塞がる。

「……なあ、あいつに会わせてくれよ」

彼女の美しいパートナーは、そっと目を伏せて首を小さく振る。彼女のささやかな箱庭は、彼女を慕い愛するポケモン達によって守られている。
男はその箱庭を「ぶっ壊す」ために此処まで来たのだ。
あの黒雲の中から、ボールを投げる時にだけすっと伸びる彼女の、細く華奢な、けれど力強い腕。それを掴むためだけにやって来たのだ。

ポケモンを鍛え、社会を見直し、壊すためではなく道を切り開くためのバトルを覚え、そうして2か月が経った今、彼はアシレーヌと向き合っている。
2か月という時間は、修行のための期間だと思えばそこそこ長く、けれど大人になるための猶予だとするならばあまりにも短かった。

「いいから通しやがれ!オレはあいつをぶっ壊すために来たんだからなあ!」

高らかにそう叫んで、男は最愛のポケモンが入ったボールを勢い良く振りかぶる。
腹の底から張り上げたその声は、きっと黒雲の向こうで佇む少女にも届いている。

今度こそ、その手を掴んでやる。そして、二度と離してやるものか。


2017.1.11

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