34 (Interlude)

私が泣いている。

クチバシティの船着き場で、膝を抱えてうずくまって、嗚咽を噛み殺すように唇を固く引き結んでいる。
嗚咽の代わりに涙がぽたぽたと落ちる。アスファルトに染みを作っていく。きっともうあの場所に私の涙の跡は残っていない。
土の匂いも、陽だまりもない町。アスファルトと高層ビルに囲まれた、賑やかで厳かな町。あの場所に私の証は、もう何一つ残っていない。

この世界の水は巡っているらしい。海の水は空へと上り、雨となって降り注ぎ、その雨が川を流れてまた海にやって来る。
きっとカントー地方に降る雨には、私の涙が溶けている。あの船着き場に置き捨ててきたみっともない私も、きっとその雨に溶けている。
そうして私は降り注ぎ、川を流れて海へと向かう。あの海には私がいる。みっともない私でも、海になることが叶っている。

此処には海がない。余所者の私を悉く弾いてきた、あの眩しく美しい海が見えない。ただそれだけのことに、私はどうしようもなく安心した。
アローラの陽気な気候、豊かな自然、陽気な人々、眩しいポケモン。その全てを禁じるかのように、この宝石の世界は静かに凪いでいた。
お日様は上らないし、月も見えない。照らすもののない空は黒いまま佇むばかりだ。
星のようなふわふわとした光は手を伸ばせば届く距離にある。触れれば雪のように解けてしまう光が私は大好きだ。
そうした何もかもをずっと見ていたくなる。見て、触れて、笑って、そうして時を忘れる。

今が何時だか解らないから、ずっと昔のことを思い出してみる。
人のざわめき、アスファルトを叩く靴音、高くそびえる塔やビル。そうした何もかもを懐かしむように目を細める。
カントーでは、夜の星は上ではなく下に降る。町の明かりは空よりも、ずっと明るく私達を照らしている。LEDのライトは月より眩しく、星より温かい。

アローラに高層ビルはなかった。大きなデパートも、ポケモンジムもなかった。
辛うじてアスファルトで舗装された町は、けれどとても背が低かった。まるで町全体が、空の青に押し潰されているかのようだった。高層ビルなど、見つけられる筈もなかった。
賑やかな町の往来に立っていても、草むらと海の匂いが鼻先を掠めた。潮風が、大自然の気配を運んでくるのだ。
町を歩いても、家に入っても、空を飛んでも、海の匂いがした。大地に生い茂る植物が呼吸する、ざわざわという音がずっと鼓膜に貼り付いていた。

アローラの大地に、私の知るポケモンは殆どいなかった。
いくら一番道路を探しても、ポッポは見つからなかった。ニドランにも出会えなかった。
コラッタは真っ黒な姿で私を裏切り、ずっと憧れていたピカチュウは、けれど進化するなりその尻尾でふわりと浮き上がり、愕然とする私を得意気に見下ろした。
ナッシーは化物みたいに首を伸ばしていた。進化したガラガラは緑の炎で私を拒絶した。
そうした違いを楽しむ振りをして、私は彼等を悉く恐れた。私のなけなしの知識を裏切る彼等の姿は、手酷く私を傷付けた。

マラサダが嫌いだった。ドーナツは大好きだったけれど、これは食べられなかった。何故だか解らないけれど、どうしても体が受け付けなかったのだ。
こちらではお蕎麦やおうどんが食べられない。お味噌汁だって出てこない。水羊羹を求めてハウオリシティを歩いても、赤や黄色の目に眩しいゼリーしか見つからない。
持ってきていた塩昆布はあっという間になくなって、私は大好きだったカントーの味を思い出しながら、マラサダを半分だけ頬張り、海に捨てた。

ママはアローラの文化にすっかり夢中になっていた。カントーから持ってきたレシピ本を全て捨てて、本棚をアローラの雑誌や本や写真集で埋め尽くした。
もうこちらにやって来て数か月が経つのに、ママは段ボール箱の整理をしない。もうカントーのものは要らないから、その中身を取り出す必要がないのだ。
きっとそのうち、リビングに置き捨てられたままの段ボール箱は、その中身ごとゴミに出されてしまうだろう。ママはそういう人だった。ママも、夢を見ているのだ。

私の部屋の段ボール箱も、開けないままにしている。
あの中にはカントーの空気が詰まっている。お味噌汁、水羊羹、おうどんにお蕎麦に塩昆布、そうした、ささやかな日常の、かけがえのない思い出が溶けている。
不用意に開けて、アローラの潮風と混ぜてしまいたくなかった。
それにあの中身を見てしまえば、私は歩けなくなってしまいそうだったからだ。「大好き」とこの地で笑うことが、いよいよできなくなってしまいそうだったからだ。

マサラタウンでの私は、何の取り柄もない、至極普通の少女だった。
平凡でささやかな暮らしを、けれど心から楽しんでいた。

お蕎麦やおうどん、お味噌汁に水羊羹、そうしたものが大好きだった。たまにジョウト地方の知り合いから送られてくる、フエンせんべいも大好きだった。
ただ甘いだけ、辛いだけではない、味わい深い食べ物がカントーには沢山あった。塩昆布もその一つだった。
手の平に収まる程の小箱に詰め込まれた、その、茶色とも深緑とも言い難い複雑な色を呈したお菓子は、当時の私にとって宝石だった。

月に一度、ママと一緒にタマムシシティのデパートに出かけた。
雨が都会のアスファルトを叩く音が好きだった。沢山の水溜まりの上を、長靴を履いて豪快に踏みしだくのが好きだった。
よく晴れた夏の日、熱くなったアスファルトの上に出来る蜃気楼も好きだった。
買い物を終えれば、ママは決まって私をデパートの最上階へと連れて行ってくれた。綺麗に磨かれた大きな窓に両手を貼り付けて、都会の人混みを上から眺めるのが好きだった。

ママに手を引かれて、よくトキワシティの公園に行った。友達と一緒に沢山遊んだ。
トキワシティはマサラよりもずっと大きな町だったから、私は楽しくなって、よく「探検」と称して、友達と公園を抜け出してはママを困らせた。
夕方になって公園に戻れば、ママに見つかって叱られる。解っていたけれど、それでも止められなかった。
知らない町を歩いていると、まるで自分が、おとぎの国の勇者であるように思えたから。そうした夢を、見ることができていたから。

有り体な日常。ささやかで、特別なことなど何も起こらない、穏やかな日常。
こうして失われることさえなければ、大好きだったと気付くことすらなかったであろう、カントーでの幸せな暮らし。
忘れられなかった。私は、忘れたくなかった。
けれど私の大好きだったカントー地方は、あまりにも呆気なく私を手放し、忘れた。

引っ越しの日、誰も私を見送りに来てはくれなかった。
私とママ以外の誰もいない閑散とした船着き場は、私が、私の大好きだった世界から既に忘れ去られているのだという事実を、あまりにも克明に示していた。


アスファルトにぽたぽたと涙を落としながら、私は、私という存在が、私のかけがえのない幸福が、この世界においていかに些末で矮小なものであるのかを、知った。


11歳になった私が、初めて得た屈辱であり、絶望だった。
身を切るような苦痛だった。息ができなくなる程に、喉元いっぱいに流し込まれた「孤独」という鉛を、私は上手く飲み下すことができなかった。

……恥ずかしいことに、それまでの私は、本当に私が、私こそがこの世界の主人公であると思っていたのだ。
私の世界は私を中心に回っているのだから、私が輝いていない筈がないと、私が世界から忘れ去られる筈がないと、本気で思っていたのだ。
この、あまりにも広すぎる世界で、人の多すぎるカントー地方において、たった11歳の子供の醸す光がどれだけ小さなものであるのか、頭の悪い私は認識することができなかった。

私は、ママを初めとする大切な人ばかりで構成された、私の小さな、ささやかな世界で、あまりにも大切にされて育ってきた。
私の暮らす小さな世界の主役は最も幼い私であり、私が一番輝いていた。私が忘れ去られたことなど一度もなかった。それが当然のことであると思い上がっていた。
だから、その世界が少しくらい大きくなったところで、私の輝きは失われたりしないのだと、傲慢なことにそう、思っていたのだ。
……そんな考えが「傲慢」であることを気付けない程に、私の背は低かった。11歳の私の背と、都会を行き交う大人達の背とは、缶ジュース3本分くらいの差があった。
低い目線では、世界の広さと難しさを知ることも、そこで輝くためにどれ程の努力が必要なのかを理解することも、叶わなかった。
足りない世界を私は夢見がちな心で補い続けた。幸福な世界ばかりを頭の中に描き続けた。そうして私の世界と現実の世界は、大きすぎる乖離を起こしていった。

私の見ている世界と、現実の世界は違う。
たったそれだけの事実を、この上なく痛烈な形で突き付けられた私は、にわかに恐ろしくなった。恐怖と不安に身が竦んだ。
悲しさ、悔しさ、虚しさ、恐ろしさ、そうした何もかもを喉の奥までいっぱいに注ぎ込まれた私は、窒息してしまいそうだった。
どうしよう、と困惑を極めた私の頭は、半ばパニックになりかけていた。

このままでは息ができなくなる。

拙い頭で必死に、必死に考えた。アローラへ向かう船の中、無い知恵を振り絞って考えた。
何の取り柄もない私があの町でどのように見られていたのか、仲が良いとばかり思っていた友達は、本当は私のことをどのように思っていたのか、
どうして皆は私を見送りに来てくれなかったのか、つい最近まで一緒に遊んでいた私のことを、彼等はどうしていとも容易く忘れたのか、
あの町で私が輝くにはどうすればよかったのか、どうすれば皆に私を覚えてもらえたのか、この息はどうすれば楽になるのか。

引っ越した先でも、きっと今のままでは私は忘れ去られてしまう。
主人公になるどころの騒ぎではない。舞台に立てないかもしれない。突き落とされて、なかったことにされるかもしれない。
排斥されること、忘れ去られることは、世界の中心に立てないことなんかよりもずっと、ずっと恐ろしい。
ありふれた私、何の取り柄もない私、夢見がちで視野の狭い愚かな私。けれどそんな私でも、忘れ去られることは耐え難い苦痛だった。もう二度と経験したくなかった。
私はまだ、息をしていたかった。

足掻き続けた。もがき続けた。媚びを売って、「大好き」を振り撒いて、生き残ろうとした。
言葉を紡いだ。煩くしていた。いつだって目立つようなことをした。皆に見てもらえるように、皆ができないことをした。そうした「努力」の仕方しか、知らなかった。

余所者の私。何も持っていない私。皆が食べているものを食べられない私。皆と同じようにアローラの空気を吸い込めない私。
愛されない私。手を差し伸べられない私。美しくない私。誰からも覚えてもらえない私。
……そうした私を変えるための努力を貫き通すことに、いよいよ疲れ果ててしまった。些末でありふれた端役の私と向き合うことに、いよいよ耐えかねてしまった。
恐怖に嘘を吐き、大好きと繰り返して自身を洗脳することは、存外、骨の折れる作業だった。
息をするための行為が、私の首を絞め始めていた。

私が泣いている。あの船着き場で泣いている。


2017.1.5

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