9

部屋の最奥に鎮座する銀色のカーテンを、彼女は勢いよく開け放った。
その向こうにぽつんと佇む小さなワープゾーンに足を踏み入れ、くるりと優雅に振り返って、私の方へと手を伸べた。
何処に通じているのだろう、と疑問に思う余裕はとうに失われていた。
この美しい人が私に手を伸べてくれているという、その一瞬の幸福に浸るため、私は夢中で手を伸べた。細い腕の中に飛び込んで彼女を見上げた。
エメラルドの宝石が私を見下ろしていて、彼女の小さな顔を守るように伸びるブロンドのカーテンは室内でも相変わらず眩しく煌めいていた。
私は彼女の名前を呼ぼうとした。しかしそれは不可能だった。

「……」

声を震わせるために吸い込んだ空気が、言葉にできない程に冷たかったからだ。

元居た場所と変わらず、床も壁も天井も「白」で埋め尽くされていた。私の口から零れ出る息さえも白く、彼女の微笑みもまた、白かった。
思いっ切りポケモンバトルをしてもまだ余裕がありそうな広さの空間に、しかし「もの」は驚く程に少なかった。
彼女は私の肩を強く抱いたまま、そのうちの一つに向かって歩みを進めた。とても強い力で私の肩が掴まれていることは解っていたけれど、私はそれを抗議したりはしなかった。
カツ、カツと響く彼女の高いヒールが立てる音は、この真っ白な空間に心地よく木霊した。まるで、子守歌のようだと思ったのだ。

「此処は、子供達のための部屋なのよ」

どういうことですか?
そう尋ねるために顔を上げた私は、……それが悉く愚問の様相を呈していたのだと、確信した。
私が彼女の言葉の意味を知るためには、ただ、この凍り付いた空間で顔を上げるだけでよかったのだから。現に顔を上げた私の眼前には、彼女の「子供達」がいたのだから。

「わたくしの愛しい子供達……ポケモンを、永遠に飾るの」

白く濁った氷の中で、ピカチュウが目を閉じていた。
赤いほっぺも、ギザギザの尻尾も、目の覚めるような眩しい黄色も、全て私のよく知るピカチュウの特徴に酷似していた。
この氷さえなければ、このピカチュウは今すぐにでも動き出すのだろうと思われた。
生きているピカチュウにとてもよく似た造りをしたこの子は、ぬいぐるみでも等身大のフィギュアでもなく、あのポケモンなのだと、あの生き物であるのだと、
だから彼女はこの氷の中のピカチュウを指して「わたくしの愛しい子供達」と口にしたのだと、……そう、理解することは頭の悪い私にだって容易にできた。できてしまった。

「だから、貴方の手はいつも冷たかったんですね、ルザミーネさん」

いつも、氷のような手だと思っていた。その温度さえも、彼女が宝石たる所以なのだと私は信じ切っていたけれど、その温度にはこのような種が隠されていたのだ。
彼女は、彼女の愛した子供達にいつもこうして触れていたから、きっとこの氷の温度が移ってしまったのだ。容易に温めることなど叶わない冷たさを纏うに至ってしまったのだ。

つい先程の、水のように揺らめく銀色が脳裏を掠めた。
あの銀はどうして溶けていたのだろう。どうして水のように滴り落ちたりしたのだろう。私の小指に嵌められた銀のリングも、いつかあんな風に溶けてしまうのかしら。
それとも、あの銀色と、私の小指に嵌められている銀色は、別のものなのかしら。同じ銀色をしているのに、どこまでも相容れない形にしかなれないのかしら。
あの銀色は、飲めるのかしら。宝石のような人達は、あの銀色を飲んで生きているのかしら。

「この子達は死んでいる訳ではないわ、眠っているのよ。コールドスリープという最先端の技術で、子供達の時間を止めているの」

やや早口でそう説明する彼女は、まるで私に弁明を重ねているかのようだった。その様子がどこまでも彼女らしくなくて、私は思わず笑ってしまった。
変なの。どうして貴方が慌てているのかしら。どうして貴方がそんな顔をしているのかしら。
そんな、排斥されること、拒絶されることを恐れるような私みたいな顔、貴方には似合わないのに。

「すごい!そんな技術があるんですね、知りませんでした。貴方は綺麗なものばかり私に教えてくれますね」

貴方はキラキラした宝石を飲み下せる人間なのでしょう?それなのに、何をそんなに不安になっているんですか?
少しばかり責めるように、歓喜の言葉を口にした。口にして、笑って、そうして彼女の表情がどのように変わるのかを、息を止めて待っていた。

「恐ろしいとは思わないの?」

長い、長い沈黙の後に発せられた、末尾の震えたその言葉は、やはり彼女らしくないものであったから、私も同じように、私らしくない言葉を口にしてみることにした。

「あれ?……あはは、もしかして、私は恐れるべきだったんでしょうか」

「!」

「私は貴方を恐れて、貴方の元から、逃げ出した方がよかった?」

そんなこと、絶対にしないけれど。
そんな端役めいた行動を取ったりすれば、私はいよいよこの物語から排斥されてしまうように思われたから、私は端から、逃げるという選択肢を自ら踏み潰していたのだけれど。
ありふれた行動が許されるのは、宝石を食べて生きている人間だけだ。私はリーリエやルザミーネさんとは違う。私は宝石を食べられない。キャンディすら、噛み砕けない。
だから私は貴方から逃げない。この氷の世界から逃げ出せない。

貴方を恐れて逃げ出すようなつまらない端役は、このアローラには、要らない!

「……いいえ」

彼女はまるで幼い少女のように、乱暴に何度も首を横へと振った。彼女が動く度に、彼女の顔を守るように覆われたブロンドのカーテンがふわふわと煌めき、揺れた。
「綺麗なものを見せてくれてありがとう!」と告げれば、彼女はいよいよ当惑したようにそのエメラルドの色を揺らした。
こんなことができるのは、もしかしたら私だけであるのかもしれない。そんな、破滅的な幸福は私を微笑ませた。彼女が狼狽えれば狼狽える程に私は笑った。

けれどやがて平静を取り戻した彼女は、すっと私の隣に立ち、硝子の向こうで凍り付いたピカチュウへと手を伸べて、氷越しにそっと触れた。
細められた目はとても悲しそうで、悔しそうで、……まるで「そこ」に入ることの叶わない自身に情けをかけているかのようであった。

私は呼吸を忘れないようにと、大きく吸って、吐いた。
この危なっかしい宝石に愛されるためには、呼吸を忘れて温度を手放すしかないのかもしれないと、おぼろげに察し始めていた。
彼女はそのために、私をこの場所へ呼んだのかもしれなかった。……それでも、今だけはまだ息をしていたかったのだ。端役にも、それくらいの我が儘なら許される筈だと思ったのだ。

その日を境に、彼女はこの凍り付いた部屋で、私にいろんなことを教えてくれるようになった。

グズマさんが好みそうな、温かい、甘いココアを2つのマグカップに注いで、ワープパネルに二人で乗り込んだ。
埃一つない真っ白の床へと膝を折り、おままごとをするかのように座った。大きな1枚のブランケットを分け合って背中にかけた。
マグカップの中身がすっかり冷え切ってしまう頃には、私は、ブランケットの中で絡めた彼女の指先の冷たさをすっかり忘れてしまっていた。
私の指も同じように、この寒さの中で凍り付いていたのだから、彼女の指の冷たさを拾えなかったとして、それは当然のことだった。しかしそんな当然のことでさえも、嬉しかった。

冷たい、凍り付いた、彼女の愛した何もかもが約束された空間の中で、彼女は実に饒舌に、いろんなことを話してくれた。
その中には私の予測していたことも、想像さえしなかったようなこともあった。全ての難しいことが膨大な質量の情報として混ぜこぜにされたまま、私の頭の中をぐるぐると回った。
なるべく理解しようと努めたけれど、私の頭で果たしてその全てを消化できていたのかどうか、定かではない。

エーテル財団は数年前から、ウルトラビースト、通称「UB」と呼ばれる生き物の研究を行っていたこと。
この島の保護区に現れた、青い帽子を被ったような硝子状の生き物も、ウルトラホールと呼ばれる場所からやって来た生命体であること。
その研究を行っていたルザミーネさんの旦那さんが、ウルトラホールの研究中に事故に遭い、行方不明になってしまったこと。
彼女はその研究を引き継ぐ形で、UBのことを調べ続けていたこと。

私達が今住んでいるこの世界と、UBの住んでいる異世界。
この二つを繋ぐ鍵となるポケモンをエーテル財団は捕まえていて、それが他でもない、リーリエが大事にバッグの中へと仕舞い込んでいる「コスモッグ」であったのだ。
財団はUBを呼ぶために、これまでも何度かコスモッグの力を使っていたらしい。
リーリエは能力を搾取されるコスモッグを案じて、ルザミーネさんに黙ってコスモッグを連れ出した。それが、4か月くらい前のこと。

ウルトラホールから現れたUBは人を襲うことがあるため、その力に対抗するために、エーテル財団は「ビーストキラー」という新しいポケモンを人工的に創り出したらしい。
生まれたポケモンは3匹。そのうちの1匹が、グラジオの連れていた「タイプ:ヌル」だ。
彼もまたリーリエと同じように、宝石の素質を持った心優しい人間だったから、人の手により生み出されたタイプ:ヌルを心から案じたらしい。
そんな彼がタイプ:ヌルを助けるため、この島から連れ出してしまったのも、仕方のないことであったのかもしれない。
……リーリエも、そうした兄の姿を見て、コスモッグを連れ出すことを決意したのだろうか。

何もかもを失ったルザミーネさんが、ぽっかりと空いた穴を埋めるように、益々、UBの研究と捜索に没頭したのは必至であったのだろう。
彼女の危なっかしさや狂気めいた嗜好は、きっと絶望の裏返しだ。絶望をその身に背負うことに耐えられなかったから、彼女はポケモンを凍らせるのだ。

「此処で貴方に話したこと、この島にいる人達は殆ど知らないわ。ザオボーにビッケ、それに一部の幹部くらいしか、ウルトラビーストの研究には関わっていないの。
……それに彼等も、わたくしがこんな部屋を作って、こんなことをしていることなんか知らない。わたくしが美しくないことを知っている人は、貴方とグズマの他には誰もいない」

だから貴方にはわたくしを見限る権利がある筈だと、この宝石は暗にそう言っている。けれど私は馬鹿な振りをして、彼女の言外に含まれたその言葉を完全に無視する。

「じゃあ、やっぱりルザミーネさんは美しい人なんですね。だって全部を知ってしまった私にも、貴方は変わらず、とても綺麗に見えるから」

貴方が私にくれた情報は、貴方の価値を高めるものであって、貶めるものでは決してない。
だって貴方は宝石だ。宝石に泥がついたとして、その輝きが見る人を狂わせたとして、けれどそれが一体何だというのだろう?そんなことで貴方の価値は揺らがない。
宝石は、どれだけその輝きを歪めたところで小石になどなりようがない。
貴方の舞台は約束されているのに、何を不安になることがあるというのだろう?


2016.12.19

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