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もう来ないでと拒まれてもおかしくはなかった。私はそれ程までに残酷な発言をしたのだと、そうしたことを理解できない程に落ちぶれてはいなかった。
だから、夕方のハノハノリゾートの船着き場に、昨日と全く同じ時刻に、真っ白の美しい船が停泊したことに、
その中から出てきたザオボーさんが、昨日と全く同じ笑みを湛えて私に手招きをしたことに、私は息が止まる程に驚いたのだ。

「どうしました、君らしくもない。どれだけ大人を不快にさせても、その事実に気付かず平然と笑っているのがお子様の常というものですよ」

「……お子様らしくない私は嫌いですか?」

「ええ、やはり君は狂っているようだ。ですが嫌いではありませんよ。
……というより、君はわたしの感情など気にしないのでしょう?わたしが君を嫌おうと嫌うまいと、君はわたしを好きでいるのですから。そうすることしかできないのですから」

難儀なことですねえと、いつかと同じようにそう告げた彼は、船に乗り込んだ私の頭を乱暴に撫でた。
彼の手は潮風に当てられてかなり冷たくなってしまっていたけれど、それでも彼女の氷のような指には敵わなかった。この人は彼女に比べれば、やはり私寄りの人間なのだ。
彼は微妙なところにいるけれど、きっとギリギリのところで、宝石ではないのだ。

君は可哀想ですねえと告げる彼に、じゃあお揃いですねと返して笑った。
なんですってとにわかに不機嫌になってその眉をくいと上げたから、私はクスクスと笑いながら、輝いていないところが私とそっくりですよ、だなんて、臆することなく続けた。
すると彼は憤りを通り越して楽しくなってしまったらしく、声を上げて笑いながら肩の力をふわりと抜いて、白い手すりに体重を預けて背中を曲げた。
お子様な私の暴言を許すように、私とお揃いであることへの否定を諦めるように、ふうと細く長い溜め息を吐いてから、また笑った。

宝石でない人の傍はとても気が楽だ。排斥される恐怖に怯えなくてもいい。
私の歪な感情を共有してくれる、そんな狂った小石と肩を並べることは存外、私を温かい気持ちにさせた。このままでもいいかなあ、と思うに十分な温度だったのだ。

けれどそれでは二人仲良くこの舞台から突き落とされてしまうことがよくよく解っていたから、
彼も穏やかに微笑んでいるのは今だけで、きっと影でこのキラキラした舞台に立ち続けるための、あらゆる努力を怠っていない人間なのだろうと解っていたから、
だから私は、この穏やかな時間には「もっと」を望まなかった。これくらい、が丁度良かったのだ。
生き残るために足掻き続けているお互いの姿を、「滑稽ですね」と「可哀想ですね」と、笑い合う程度の時間があればそれでよかった。その距離がよかったのだ。

「昨日は馬鹿なことを言って、ごめんなさい」

彼女は先日の傷の名残を完全に無くした、いつもの、微塵の瑕疵も感じさせない美しい笑顔で私を屋敷へ通してくれたけれど、
私が彼女に駆け寄りそう告げるや否や、困ったように眉をすっと下げて、見たことのない表情を浮かべてみせた。

「私、あまり頭がよくないから、ルザミーネさんの言っていることがよく解らなかったんです。本当にごめんなさい」

私はこの人の言う「不条理」を紐解くことができなかった。
不条理に蝕まれたことのあるらしい彼女が、ひどく傷付いた表情を浮かべていることはよく解ったけれど、それだけだった。
その不条理がどれ程鮮烈に人の心を抉るのか、私はまだ知らなかった。
愛した存在を喪うこと、逃げられること、拒まれることが、どれ程に苦しいものであるのかを、推し量ることができなかった。

私は喪ったことも、逃げられたことも、拒まれたこともない。私は喪ったり逃げられたり拒まれたりするような何物をも手に入れたことがない。
私は忘れられたことしかないのだから、彼女の高尚な苦痛を理解できない。理解しようがない。私の苦痛は彼女の苦痛よりも、ずっと低い次元を這っているのだから、仕方ない。

「いいえ、貴方はそんなこと知らなくていいわ。何も知らないままでいいのよ」

けれど彼女は美しく笑って、私の、次元の低い苦しみを肯定しつつ、私が彼女のような高みに上がることを柔らかく禁じた。
宝石は、美しく輝く術をそう容易く小石に譲り渡したりしないのだ。
そう思って私は小さな絶望を噛み締めようとしたけれど、次の彼女の言葉でその絶望はふわりと雪のように、溶けた。

「貴方は何もしなくても、そのままでとても綺麗だから」

綺麗。
宝石が紡いだ美しい音が、私を形容するための響きである。ただそれだけのことを認識するために、驚く程に長い時間を要した。
彼女の言葉はキラキラしていて美しいのに、それが私に当てられた音であると認めた瞬間、それがとても奇妙なものに思えてしまった。にわかに、不安になったのだ。
そうしたキラキラした、宝石みたいな形容を、よりにもよってこの人に向けられてしまうような存在に、今の私がなれているとはとても思えなかった。

「そんなことを言われたのは、初めてです。私は服のセンスもないし、料理もできないし、歌も字も絵も下手で、貴方やリーリエみたいに美しい訳でもないのに」

「違うわ、そんなつまらない話をしているのではないの。貴方の、真っ直ぐな心の話をしているのよ」

ならば尚更間違っている。私は邪な人間だ。明るく元気な人気者にも、心の優しい女の子にもなれなかったが故に、愛される権利を得ることが叶わなかった端役なのだ。
それでも私は排斥されたくなかったから、舞台から突き落とされたくなかったから、私はおかしな恰好とおかしな行動を重ねて、重ねて、笑い続けた。
そうしてようやく、このアローラという舞台から生き残ることが叶ったのだ。
「不条理」を知らないのだって、私が真っ直ぐで純粋な人間だからではなく、私が無知で愚かな半端者だからだ。
その無知は私の価値を貶めるものであって、私の価値を高めるものでは決してない。

この宝石は、私のことを計り違えている。

「美しいわ。大好きよ、ミヅキ

ルザミーネさん、貴方は間違っている。
その「美しいわ」も「大好きよ」も、とても嬉しいけれど、違う。貴方がその言葉を向けるべき相手は他にいる。私ではない。

私はただ、生き残りたかったのだ。それだけでよかったのだ。
主役の座を奪い取ろうなどということは微塵も考えていない。そんなこと、端役の小石には畏れ多すぎてとてもじゃないけれど願えない。
私はお姫様に、剣に、騎士に、勇者に、魔法使いになりたかった。けれどもういい、構わない。

「わたくしの愛せる貴方になってくれてありがとう。いい子でいてくれた貴方にご褒美をあげるわ」

けれど間違った彼女は、間違った言葉を私に向け続けた。
いらっしゃい、と告げて宝石は私の手を取った。相変わらずその滑らかな指先は氷のように冷たくて、人の肌であることを忘れてしまう程の温度が私の手首を緩やかに刺していた。
彼女が間違っているだけなのに、認識を誤っているのは彼女の方である筈なのに、
私が彼女を騙しているような、この美しい宝石の認知を歪めてしまっているかのような、そうした罪悪感に胸がチクチクと痛んだ。どうしよう、と困り果ててしまった。

けれどそうした後悔と自責も、彼女がテーブルの上のワイングラスを手に取り、傾けてその中身を私に見せてくれたその瞬間に、泡となって白い空間に弾けて、消えてしまった。
私というのはそうした、悉く愚かな人間だったのだから、どうしようもなかった。それに私がその後悔と自責を忘れてしまったとして、「それ」の前では仕方のないことだったのだ。

だってそこには、水のように揺らめく銀があったのだから。

銀色のグラスに満たされた銀色の液体を、彼女はグラスを大きく傾けることで、テーブルの上にぽたぽたと数滴だけ落とした。
細く長い指を躊躇いなくその上に伸べれば、銀色は指の間をすり抜けるようにテーブルの上を滑り、丸い水滴は真珠のようにコロコロと転がった。
この世のものとは思えないようなその物質は、しかし確かに「そこ」に存在していた。銀色の、見たこともない宝石は、宝石のような女性と戯れるように、そこに在ったのだ。

彼女はその目を私に向けて、「ほら、いらっしゃい」と、私がその神秘的な銀色に触れることを許してくれた。私は躊躇うことさえ忘れて、駆け寄った。
恐る恐る触れれば、それは金属質の冷たさで私の指先をくすぐった。ぷくりと膨れた水滴のような銀を、ゆっくりと、何度も撫でた。
親指と人差し指でその銀色を摘まみ上げようとしたけれど、つるつると隙間を零れ落ちていくだけだった。美しいものは、やはり小石の手になど留まらないのだ。
それでも私は歓喜していた。こんなにも美しい銀色があるなんて、知らなかったのだ。

「すごい!こんなに綺麗なもの、初めて見ました!」

歓喜と興奮のままにそんなことを口にすれば、彼女は「喜んでもらえて嬉しいわ」と、幸福を極めたような表情をしてしまっていたから、私は少しばかり当惑してしまった。
宝石は、小石の言葉になど揺らされず、毅然と輝いているものなのではなかったか。主人公とは、主役とは、そうしたものなのではなかったか。
そう思ったけれど、もう構わなかった。この女性がどこか「危なっかしい」ことはずっと前からおぼろげに察していたことであったし、それでも彼女は美しいのだから、同じことだ。
ぐらぐらと揺れる主役がいたっていいのではないかと思った。そうした稀有な宝石と同じ舞台に私が立てることは、どうしようもなく幸福なことであるのだと、解っていたからだ。

「これからも貴方には綺麗なものだけを見てほしいわ。汚れてほしくない」

キラキラと輝く、危なっかしい宝石は、やはり危なっかしい言葉を口にする。それが彼女の心からの願いであるのだと、解ってしまったから言い返せなかった。
「でも、汚れてしまうんだと思います」という私の本音は、笑顔の中に飲み込んでなかったことにした。

時は等しく流れて、私はいつか大人になる。何も知らない子供のままではいられないし、きっと、いてはいけないのだろう。
そう思っている。私は受け入れている。けれど私よりもずっと美しい彼女は、それを受け入れることができずにいる。
彼女の強情さは、私の、このアローラという舞台にしがみつかんとする執念に少しばかり似ている気がして、嬉しくなった。
この宝石のような女性と「お揃い」になることが叶うなんて、思ってもみなかった。

ミヅキ、貴方を綺麗なままにしておける場所があるのよ」

銀の詰まったワイングラスをそっとテーブルの上に置き、彼女は首を僅かに傾げて「見てみたい?」と私の意思を尋ねた。
この、水のように揺らめく銀色への名残惜しさを隠すように、満面の笑顔で頷いた。


2016.12.18

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