アローラの広すぎる海に佇む人工島は、その日から私のユートピアとなった。
毎日、夕方になるとアーカラ島の乗船場に真っ白な船が停泊する。ザオボーさんは不機嫌そうに私を一瞥してから、「乗りなさい」と促してくれる。
私は笑顔のままにそこへ勢いよく飛び移る。停泊を待たずして波止場を蹴り、甲板へと勢いよく着地するのが日課だ。彼はそんな私を呆れたように見ていた。
あとはこの、変わったサングラスをかけた少しばかり偏屈なおじさんと、他愛もない話をしたり、彼の少し間の抜けているところをからかったりしているだけでよかった。
白い船はあっという間に、同じく白い人工島へと私を運んでくれる。ザオボーさんにお礼を告げてから、私はやはり停泊を待つ前にひょいと白い床へと飛び移る。
エントランスホールには大抵の場合、ビッケさんがいて、私を心配そうに見送ってくれる。私は笑顔で彼女に手を振って、長い廊下を真っ直ぐに突き進む。
悉く美しい場所だった。此処で息をすることさえ躊躇われてしまうような、そうした神秘を凌駕し過ぎた異質な世界がこの島にはあった。
その中でも、やはり彼女の存在は群を抜いて異質だったのだろう。
私がこの異質な女性に名前を呼ばれて、あまりにも美しすぎる彼女を恐れてしまったとして、けれどそれはもしかしたら、当然のことであったのかもしれなかった。
でも、その「当然のこと」に甘んじたくはなかったから、私は彼女の名前を呼び、彼女を慕い、彼女に笑いかけた。
大好きなママにそうするように、貴方が大好きだと、心から愛していると、私の全てをもって示した。それが少しばかり異常なことだと解っていたから、わくわくした。
「貴方にはお洋服のセンスがないのね」
だから、彼女が少女のようにあどけない笑みを湛えて、白地に金のリボンが施されたワンピースを掲げながら、
「貴方は動きやすい服の方が好きなのかもしれないけれど、でもこういうのだって貴方にとてもよく似合うと思うの」と告げた時、
私は彼女の中にそうした、人間らしい愉悦の心がしっかりと宿っていることに少なからず驚き、そして、これ以上ないくらいに安心したのだ。
たとえそのワンピースが私に似合わずとも、私がそのワンピースを気に入っていなくとも構わなかった。
彼女のそうした笑顔だけで十分であると思わせるような、そうした、確かな人肌の温度がこの彼女の笑みにはあったのだ。
「何をどうしたら、青のダメージデニムに黄色いニーハイソックスを合わせようという発想が出来上がってしまうのかしら」
「カラフルにすると元気が出るかなって思ったんです。可愛く、ありませんか?」
「……センスのない人というのは往々にして、自らのセンスがどれ程壊滅的であるかを理解していないものなのね」
酷いことを言うなあと思いながら、けれどこんなにも美しい彼女が私を指して「センスがない」と言うのだから、もしかしたら本当に私のセンスは壊滅的であるのかもしれなかった。
センスがないことに気付ける人物は、実のところそこまでセンスに欠ける人間ではないのだ。
私のように、どんな服を着ればいいのか解らない人や、どんな色が自分の肌に馴染むかを解っていない人の方が危険なのだ。
そうした私のような人種は、なまじ自分の直感に自信を持っていたりするものだから、失敗しやすく、酷いものになりやすい。
こうして良識のある大人に制止をかけられなければ、センスのある人に指摘されなければ、私は私がどれだけ不格好であったかを知ることができない。知りようがない。
それでいて、私はそうした自分を全く恥じていないのだからどうしようもない。
だって綺麗な服を着ることは当然のことだ。私はそんなありふれたことに興味などない。
だから、今の私の格好が「壊滅的」であったとして、それは私にとっては喜ぶべきことだ。私はそうした滑稽な存在となって、初めて「役」を貰えるのだから。
「それに、白はルザミーネさんみたいな人が似合う色なんですよ。私には眩しすぎます」
「そんなことないわ、人は変われるのよ。貴方はこれからもっと美しくなれるの。どうすればいいのか迷ってしまわないように、これからはわたくしが教えて差し上げるわ」
「ルザミーネさんが、私に?」
それはあまりにも幸福な事象のように思われた。
そのような幸福を、私が「誰か」の代わりに受け取ってもいいのだろうかと、不安になってしまう程の質量を持つ「施し」だったのだ。
だってこの指輪の持ち主は他にいたんでしょう?そのお洋服だって、私のために買ったものではなく、他の誰かのためのものだったんでしょう?
貴方はその人を待たなくてもいいの?私を代わりに愛してしまってもいいの?
別に私に愛など向けなくてもいいのに。私は貴方に愛されなくたって、貴方のことを大好きになれるのに。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は手を伸べてそのワンピースを受け取り、シャンデリアの光にかざしてみた。
とても綺麗なお洋服だった。エーテル財団の象徴である、白と金をあしらった上品なワンピースだった。
これに袖を通せば、不格好ながらも私だって、このおかしな団体の一員になれるのかもしれないと、宝石が私を愛してくれるのかもしれないと、本気でそんなことを考えていたのだ。
夜の窓ガラスを鏡代わりにして、そのワンピースを私の身体の上からそっと押し当ててみた。ウエストも、腕周りも、丈も、まるっきり私の身体にぴったり合わせられていた。
彼女の「誰か」は私にそっくりな背格好と体型をしていたのかもしれない。私はその実、とても「誰か」に似ているのかもしれない。
だから私はこの人の傍に呼んでもらえたのかしら。彼女はこのワンピースを着た私を通して「誰」を見ようとしているのかしら。
「早くわたくしの愛せる貴方になってね」
「白の似合わない私は嫌いですか?」
エメラルド色の瞳が大きく見開かれた。私は肩を竦めて「意地悪なことを言ってごめんなさい」と謝罪して、ワンピースを着替えるために服を抜ぐ準備をした。
彼女は女性だったし、私も子供だったから、服を脱ぐことに何の抵抗もなかったのだけれど、
私が鞄を白い床へと放り投げてタンクトップに手を掛けた瞬間、彼女は驚いたように声を上げて私の行為を咎めた。
「こ、こらミヅキ!こんなところで着替えちゃ駄目でしょう!」
「え、駄目なんですか?」
「貴方はもう11歳でしょう?部屋の隅に向かったリ、わたくしを部屋から追い出したりしなければ。でないとわたくし、びっくりしてしまうわ」
「あはは、ごめんなさい。いつもママと二人で暮らしているから、恥じらいとか、そういうこと、よく解らなくて。
……それじゃあ隅で着替えますね。ルザミーネさん、あっちを向いていてくれますか?」
そう告げれば、彼女は驚いたような呆れたような顔のままにふいと私に背を向けた。
私は彼女に「ミヅキ」と、まるでママに呼ばれるような声音で私の名前を紡いでくれたことが嬉しくて、ニコニコと微笑みながらベッドのある窓際へと駆け寄った。
今度こそタンクトップを脱いで、ワンピースを手に取った。白いそれはあまりにも手触りが滑らかで、しっかりと掴んでいなければ手から零れ落ちてしまいそうだった。
「貴方のお父さんはどうしているの?」
勢いよく白いワンピースを被った途端、遠くから彼女のそんな声が聞こえてきた。
くぐもった声で「カントー地方の大きな会社で働いています」と答えると、彼女はやや長すぎる沈黙の後で「それじゃあ、いつでも会いに行けるわね」と告げた。
「カントーはとてもいいところですよ!いつかルザミーネさんと一緒に行きたいなあ」
「え?……ふふ、そうね。わたくしもいつか、貴方を連れて遠くに出かけたいわ」
ワンピースの裾を整えて、ホットパンツを脱ぎ、黄色いニーハイソックスを乱暴に下ろした。
素足のままでいいんじゃないかなとも思ったけれど、マナーを重んじる彼女の前でするべきことではないと考え直し、鞄から短い白のソックスを取り出して、履いた。
少しばかり乱れた髪を整えてから、「もういいですよ!」と大きな声で告げれば、彼女は……とても不安そうな顔で振り向いた。
どうしたんですか?
けれどそう尋ねるより先に、彼女が「まあ、素敵!」と歓喜に満ちた声音で両手を合わせるものだから、
単純な私は2秒前の違和感をすっかり忘れて、彼女に褒められた喜びに浸ることにした。
くるりと周り、「ルザミーネさんとお揃いの色ですよ!」と告げれば、彼女はいよいよ幸福そうに眼を細めた。その綺麗なエメラルドの目には、確かに私が映っていた。
本当は、その歓喜の眼差しを向けられるべきは私ではなかったのかもしれない。私は誰かの代わりを嬉々として務めているにすぎない、悉く愚かな子供なのかもしれない。
構わない。それで私がこの人を大好きになれるなら、私は馬鹿でも、愚かでもいい。
だってもう、私は彼女の前で息をすることが辛くない。貴方に会うために、あの乗船場のアスファルトを蹴って真っ白な船に乗ることが、こんなにも幸福で、楽しい。
「わたくし、貴方がもっと美しくならなければ愛せないと思っていたの。だから貴方のために、私の好きな色の服を用意したのよ。……けれど」
「……けれど?」
「どうしてかしら、わたくし、今の貴方で十分に素敵だと思えてしまったわ」
本当に意外そうな心を彼女の声音はあまりにも雄弁に示していて、彼女自身も、何故そのように思ってしまったのかを理解していないようだった。
自分の心を紐解くことができずに困り果てている様子の彼女は、私のママと同じくらいの年齢であることを忘れてしまうくらい、若く幼く、頼りない笑みを湛えていた。
「ねえ、貴方はもうわたくしのことが怖くない?」
笑顔で大きく頷けば、彼女は少女のように「ふふ、嬉しい!」と笑って、高いヒールで上手に床を蹴り、私の方へと駆け寄ってきた。
すぐ傍で立ち止まり、白い両腕を僅かに広げて首を傾げるものだから、そうすることが許されているのだと思ってしまったから、私は笑顔で彼女の腕に飛び込んだ。
私のママよりもずっと細くて白くて冷たい彼女。私のママよりも若くて、幼くて、頼りない彼女。
本来なら決して交わることのなかった私と彼女は、けれどもう、互いの名前を知らなかった頃には戻れない。
「ルザミーネさん、私、貴方のこと大好きになっちゃった!」
戻れないのなら、突き進むしかない。
2016.11.22