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日中は殆ど外に出たり洞窟を調査したりしているため、トウガンの別荘は殆ど「帰って入浴し、眠る」ためだけに使われているようなものだった。
そのため必要最低限の家具しかないし、散らかってもいない。慌てて片付けをする必要こそなかったが、これからは毎日掃除をする習慣を身に付けるべきかもしれない。

トウガンが彼に貸し出しているこの別荘は、一人で使うには広すぎる立派なものだった。
使っていない部屋の方が多く、特に二階は2部屋が丸ごと残されていたのだが、どちらにもベランダが付いていたため、万が一のことを考えて二階を案内することは避けた。
何の躊躇いもなく海へと飛び込んだ少女の姿は、まだ青年の脳裏に色濃く焼き付いていた。
あの時は下が海だったから良かったけれど、この家のベランダから落ちれば下は土、もしくは崖だ。どうなってしまうかなど、考えたくもなかった。

一階にも2部屋の空きがあったため、彼は陽当たりのいい南側に面した部屋を案内した。
カーテンを開けようと窓に歩み寄ったのだが、しかし彼女は青年の手を強く掴み、首を振ることで拒否の意を示した。
光の当たらない場所の方が落ち着くのだろうか。そう判断した彼はもう一つの、北に面した小さな部屋の扉を開けた。
小さなテーブルと椅子、ベッドの骨組みがあるだけの、あまりにも簡素な空間だ。
彼女はきょろきょろとその、良く言えばシンプルな、悪く言えば悉く無機質な部屋を見渡し、強張った肩を少しだけ下げた。

「こちらの方がいいかな?」と尋ね、彼女が頷いたことを確認する。
何故、彼女が明るいところを嫌うのか、その理由はよく解らなかったが、
解らないなりにも、彼女にとっては陽の当たる南側の部屋よりも、薄暗い北側の部屋の方がいいのだという結論に達することはできた。
彼女の意向に沿った部屋を用意できたその幸運にそっと感謝しながら、彼も少しばかり肩の力を抜いて、微笑んだ。

先程買ってきたばかりのオレンジジュースをグラスに注ぎ、彼女の手に持たせた。
椅子の埃を簡単に払ってから彼女をそこに座らせ、「少し待っていてね」と告げて、タンスの中に仕舞われていた箒と雑巾を取り出した。
簡単に掃除を済ませ、使われていない布団を押し入れから引っ張り出してベッドに敷いた。
枕がどうしても見当たらなかったため、バスタオルをぐるぐる巻きにして一先ずの代用品とした。

ここには子供が喜びそうな可愛いポケモンのクッションも、おしゃれなカーペットやカーテンも存在しない。
けれどそうした、机に椅子にベッドといった最低限の、悉く無味乾燥で無骨な家具で構成されたこの空間を、少女は少なくとも嫌ってはいないようであった。
吸い寄せられるように椅子へと座った彼女は、しかしまるで振り子のようにふらふらと肩を揺らして、不思議そうに青年を見上げていた。
夢か現か、どちらに体を預けているのか知れないような、そうした不気味な底知れなさが今の彼女にはあった。
恐ろしいと思った。危なっかしいとも感じた。けれどそれらはゲンが彼女を見限る理由には、どう足掻いても成り得ないのだ。

「今日から此処が君の部屋だよ。足りないものはまだ沢山あるだろうから、何か困ったことがあれば……」

椅子へと座り、足をふらふらと浮かせて揺らす彼女に目線を合わせるため、ゲンは掃除を経て綺麗になったフローリングに膝を折り、少女を見上げた。
鉛色の目には紺の衣服を身に纏った自分が当然のように映っていて、ああ、こんなにも虚ろな目でも他者を映すのか、と、そうしたことに少しばかり驚く。
しかしそうした驚きをなかったことにするかのような笑顔で彼は微笑み、先程の買い物で手に入れたノートとボールペンを差し出した。
何の変哲もない無地の、A5サイズのリングノートと、青い0.7ミリのボールペン。少女はその二つを交互に見ながら首を小さく傾げた。
夜色の髪が重力に従うようにさらりとフローリングに向かって垂れて、ゲンはたったそれだけのことに酷く安心したのだ。

「これに書いてほしい。このノートで私と話をしよう」

「……」

「話したいこと、聞きたいこと、頼みたいこと、何だっていい。此処に書いてごらん」

彼女はその目を見開いて驚き、そして少しばかり逡巡の意を見せた。二人の間に降りた静かすぎる沈黙が、彼女の迷いを示しているように思われてならなかったのだ。
しかししばらくして、以前よりもずっと細くなった彼女の両手がそっとこちらへと伸びてきて、途轍もなく重いものを持つかのような面持ちで、しっかりとノートを掴んだ。

罫線が引かれたそのリングノートの中身には、当然のようにまだ何も書かれていない。
彼女はそれをテーブルの上にそっと置いた。羽を扱うかのような繊細な動きに思わず彼の目は釘付けとなる。
続けて彼女はボールペンの頭をクリックして芯を出し、少しばかり身を乗り出して机に左手を添えた。
右利きらしい彼女は、当然のように右でボールペンを持ち、何かを書いている。
書いた傍から一文字たりとも逃すことなく彼女の言葉を追いたくなったけれど、堪えて膝を折った姿勢のままに、彼女が書き終えるのを待っていた。

時間にしてほんの30秒程度であった筈だが、ゲンにはその何倍もの間、この静かな空間で彼女が為す次の行動を待っていたかのように思われた。
それ程に、彼にとっては衝撃的だったのだ。感動のあまり時が止まったのではと錯覚してしまう程の、奇跡めいた現象だったのだ。
あまりにも静かな、人形かと見紛う程の静けさと虚ろな目を持ってここに「在る」だけの少女が、彼の言葉に応え、自らノートとペンを持ってくれた。
それだけのこと、されどそうしたやり取りすらできないのではないかと危惧していたことを、しかし目の前の少女は確かに為している。嬉しかった。この上なく嬉しかったのだ。

何かを書き終えたらしい彼女はボールペンの頭を再び押して芯を仕舞い、ノートを両手で包むように持ち、こちらに向けた。

『よろしくおねがいします。』

罫線を無視して書かれたその文字は女の子特有の丸文字で、けれどやはり文字を書いてきた経験が少ないのか、平仮名の一つ一つがどこかぎこちなかった。
けれどそのぎこちなさは彼を落胆せしめるものなどでは決してなかったのだ。
寧ろそうした、少女を少女らしく見せる全てに彼は安堵していた。よかった、と心の中で何度も繰り返していた。

「こちらこそよろしくね、ヒカリ。君の言葉を聞かせてくれてありがとう」

これは紛れもない彼女の言葉なのだと、声など出なくともこうしてコミュニケーションをとることは可能なのだと、認めれば俄然、これからの生活に希望が湧いてきた。
滅多に人と関わることをしなかった自分にも、できることがあるのではないかと思い上がるための全てが、このたった一言に凝縮されていた。他には何も要らなかった。
心からの安堵と歓喜をその顔に滲ませる彼を、少女は不思議そうに見ていた。テーブルの脇に置かれたオレンジジュースは、一滴も飲まれていなかった。

「……さて、いい時間になったし、夕食を作ろうか。
けれど私は普段から、料理を作る習慣がなくてね。危ないことをしないように見守っていてほしいのだけれど、構わないかな?」

見守っていてほしい、というのは建前で、目的はもっと別のところにある。
「危ないことをしないように、目を離さないでいてあげて」というシロナの忠告を、彼は彼なりの形で果たそうとしていたのだ。
一日中、ずっと彼女を監視するように生活するというのは、幾ら外に出ていくことの少ないゲンにおいても無理がある。
気を張り詰めていれば可能であるのかもしれないが、そんな生活は間違いなく三日と持たないだろう。
だからこそ、彼は現実的な方法で彼女の危なっかしい行動を抑制したかったのだ。

この二人において危なっかしいのは「ゲン」の方であり、だからこそ「ヒカリ」は彼を見守り助ける必要がある。
彼は早々に、年上である自分が当然のように手にするべきであるイニシアティブを少女へと譲り渡し、彼女をこの空間に繋ぎ止めることを選んだ。

私が誤って包丁を投げ飛ばしたり、カレーのルーを焦がしたりしないように見ていてほしい。包丁で指を切ったり鍋で火傷をしたりしたら、助けてほしい。
手探り状態で発した彼の言葉は、しかし彼女においてはいい方へと作用したらしい。何せゲンは本当に「危なっかしい」様相を呈していたのだ。

米の研ぎ方すら分からずにパソコンを立ち上げて検索をかける。
野菜の皮を剥くピーラーを買い忘れて途方に暮れた挙句、ニンジンやジャガイモの外側を包丁で豪快に削ぎ落とす。
タマネギを切れば目が染みてとてもではないが目を開けていられなくなり、野菜を切るだけでも数十分を要した。

それでいてカレーのルーの箱に書かれた分量が、二人分ではなく八人分であることに彼は気付いていなかった。
なんだか多いなと思いつつ全ての野菜を二袋ずつ全て豪快に切ってしまったのだ。
一箱分が一人分だろうと思っていたために、一箱で八人分、すなわち二箱で16人分ものカレーを作ってしまう計算になる。
こんなに大量のカレーをどうするつもりだと思いながら、作りすぎてしまったカレーの保存方法をまたしてもパソコンで検索する。
最初に野菜を炒めるとあるからと全ての野菜を鍋に放り込んだのだが、野菜が多すぎて上手く全体に火が通らず、
上の方に積み上げられたジャガイモは全く火が通っておらず、逆に底に沈んだタマネギは真っ黒に焦げてしまっていた。

カレーとは、子供でも簡単に作れる料理なのではなかったのか。
そんなことを呟きながら、しかし彼は数分おきにちゃんと後ろを振り返っていた。
彼女はその小さな身体には些か大きすぎる椅子に深く腰掛けていて、ゲンがいつ振り返っても、しっかりと彼の方に目を合わせていた。
「危ないことをしないように見守っていてほしい」というゲンの頼みを、少女はしっかりと守っていたのだ。
その目には力も光もなかったけれど、確かに彼を見ていたのだ。それだけで十分だった。十分だと思うことにした。


2016.5.14

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