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彼女は声が出ない。
声を出そうとしていないだけなのでは。話せないのではなく、話したくないだけなのでは。そんな風に疑いを持つ自分がいた。
しかしそのように彼女の状態を訝しむこと自体、この少女と生活を共にする身に自分が不相応であるということを知らしめる結果となってしまっていることに気付き、
ゲンは少なからずショックを受け、また、少しでも彼女を疑ってしまった自分を責めた。

『だからあたしは何も知らない。1週間あの子の傍にずっといたけれど、何も解らなかったわ。だから藁にも縋る思いでミオにやって来たの。
貴方が奇跡を起こしてくれるんじゃないかって、少し、いいえかなり期待しているのよ。』

シロナの言葉を思い出し、ゲンは大きく首を振った。

君の選択はきっと間違っている。
確かに私はヒカリを知っているよ。強いポケモントレーナーだった。無垢で無邪気で可愛らしい女の子だった。
けれど、それだけだ。私に一人の人間を救う力などない。失われた彼女の声を取り戻す術など、私には見当もつかない。

そんなことを思いながら、しかしゲンはシロナを見送ってしまった。
引き止めることも、無理だと泣き言を吐くこともせず、ただ手を振って彼女を送り出した。
シロナの目の下に作られた黒い筋が、「彼女」と日々を共にすることの大変さを何よりも克明に示しているのだと、解っていながら青年は彼女の申し出を受け入れた。
解っていたからこそ、その役目を再び、疲れ果ててしまっている彼女に押し戻すことは許されなかったのだ。
それくらいの良心なら、俗世から離れたところで生きている自分だって、損ねることなくしっかりと持っている。

「……」

けれど、彼の良心はシロナにこそ正しく向けられたけれど、彼の隣でただ虚ろに立つ少女には正しく向けられなかった。向けようがなかったのだ。
どうすればいいのか、何もかも分からなかった。シロナは彼に幾つかの注意事項を告げたけれど、それ以上の情報も助言も紡がなかった。

どうすればいいのだろう。
声も、表情も、目に宿っていた煌めきも、軽快な足音も、全てこの少女から失われてしまっていた。
ヒカリの姿を辛うじて保ちながら、しかし彼女は青年の知る「あの子」ではなくなっていた。
そんな少女に、ほぼ初対面と言っていい程に変わってしまったこの子に、どんな言葉をかければいいのだろう?
危ないことをしないように、手を握るべきだろうか。彼女の小さな脚に合わせて歩幅を緩めるべきだろうか。

ぐるぐると悩みながら、しかし青年はただの一つも言葉を発することができなかった。
彼女には意思を表示する術がない。その手段たる言葉は失われてしまった。
夕食に何が食べたいかと尋ねたところで、彼女は「カレーライス」と答えることもできないのだ。

少女の肌は針金のようにピンと張り詰め、微動だにしていなかった。
しかし青年もまた、その少女の隣で途方に暮れながら、四肢の先すらも動かしていなかったのだと、長い時間をかけてようやく気付いた。

しっかりしろ。
自身にそう言い聞かせ、青年は少女の目線に合うように膝を折った。それはいつか、彼女のキラキラと輝く目を見るために彼が取った行動と全く同じ形をしていた。

「私は鋼鉄島にあるトウガンさんの別荘を借りて、そこで暮らしているんだ。
二人で過ごすには足りないものが色々とあるから、先ずは買い出しに行こうと思う。一緒に来てくれるかい?」

鉛を流し込んだような深い夜色が、ぱち、ぱちと緩慢に瞬きをした。
こくりと小さく頷いた彼女に、ゲンは少しばかり安心する。「はい」と「いいえ」くらいのコミュニケーションなら、こちらの問い掛け次第では為すことができるらしい。

「それじゃあ行こうか。これからよろしくね」

立ち上がり、彼女の方へと伸べた手は、少しの躊躇いの後でそっと、本当にただ触れるだけといった風に力なく掴まれた。
その弱々しさが彼の不安を少しばかり煽った。大丈夫だと自分に言い聞かせるように、彼はその手に力を込めようとして、……やめた。
少女の手は驚く程に小さく細く、誤って壊してしまいそうだと思ったのだ。握り潰せてしまいそうな程の儚さだった。あの頃、と同じように握り返してはいけないのだ。

取り敢えず食材を買うのであればスーパーマーケットだろうと思い、カートの上と下に買い物カゴを一つずつセットして中を歩いた。
普段はカップラーメンや冷凍食品で済ませているため、「食材」とくれば乾燥した軽いものか冷凍された冷たいものしか青年には馴染みがない。
故にスーパーに入った瞬間の、赤や緑のカラフルな生鮮食品の山に彼は少なからず驚かされた。
食品とは本来このような、目を穿つ鮮やかな色をしているのだと、そんな当然のことに驚く彼の隣で、しかし少女は何の反応も見せなかった。

さて10歳の子供というのはどういった料理を好むのだろう。
子供が好きな料理と来て、豊かな発想力を持ち合わせていないと自負している彼は、とてもありきたりな、しかし至極まともな「カレーライス」という料理名を連想した。
「カレーは好きかな?」と尋ねれば、ややあって「はい」を示す頷きが返ってくる。
では材料を買わなければと思い、野菜のコーナーに立ち寄ったのだが、二人分のカレーというものにどれくらいの野菜を要するのか、彼には全く見当がつかなかった。
ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモを二袋ずつカゴに入れるまではよかったのだが、カレーのルーが見つからない。
広い店内をぐるぐると歩き回ってようやく見つけたそれを、「一箱が一人分だろうか」などというとんでもない思い込みでまたしても二つ放り込む。

あるに越したことはないだろうと判断し、米を一袋。明日の朝食用に「5枚切」と書かれた食パンと、苺のジャム。それから間食用にプリンとジュースを幾つか。
パスタやラーメンなどの即席品は家にあったため、あとサラダのようなものが一品あればいいだろうと判断し、レタスやトマトも手に取った。
彼女のコンパクトな鞄に石鹸やシャンプーの類が入っているようには思えなかったため、女性用と思しきパッケージのものを適当に選んだ。
A5サイズのリングノートと書きやすそうなボールペンを最後に放り込んで、一先ずはこれくらいでいいだろうと判断し、レジに向かった。

会計を済ませて袋に詰める段階になって、ゲンは自分がとんでもない過ちを犯したことに気付いた。食材というものは、ひどく重いのだ。
5kgもある米を抱えるだけでも大変なのだが、それに加えてニンジン、玉ねぎ、ジャガイモがそれぞれ二袋ずつある。1Lのジュースも計算に入れればゆうに10kgは超えそうだ。
全てを自分が持つくらいの意気込みでレジに並んだのだが、これは少しばかり手伝ってもらわなければ鋼鉄島まで戻れそうにない。
食パンにプリン、レタスといった比較的軽いものを袋に詰めて、「これだけお願いできるかな」と彼女に渡した。
彼女は嫌な顔一つせずに(というよりも一切の表情がなかったのだけれど)袋を持ってくれたのだが、
一番小さく軽いその袋でも、少女の細く小さな手に提げるにはやはり大きすぎるように思われてならなかった。

普段は保存の効くもの、カップ麺や乾物の食材ばかりを購入していただけに、この生鮮食品の重さというのは殊の外、この青年には堪えていた。
いつもの乾物を詰め込んだ袋は、その体積こそ今よりもずっと大きかったが、それでもその袋を重いと感じたことはただの一度だってなかったのだ。
これが「生もの」の重さなのだと、水は重いものなのだと、腕の痺れをしみじみと感じながら彼はそんなことを考えた。

船に乗って、少女と共に鋼鉄島へと向かった。
見知った船頭の男性が「どうしたんだい、お前さんが野菜を買うなんて珍しいじゃないか」と笑いながら話しかけてくる。

「そうなんだ。少し、珍しいことが起きてしまってね」

そう受け答えする間にも、彼はしっかりと少女の小さな手を掴んでいた。
目を離さざるを得ないなら、手を離さずにいればいい。その方がずっと安全だ。

「覚えているかな?私と一緒にあの洞窟を探索したよね」

この少女のエンペルトはとても強かった。そんなことを思い返しながら尋ねれば、少女は小さく頷いた。
「次に会った時にはバトルをしようと言ってくれたよね」と告げようとして、止めた。声を出すことの叶わない少女が、どうやってポケモンに技を指示できるというのだろう。
迂闊にもそんなことを口にしようとしていた自分を、ゲンは心の内でそっと責めた。

いつも陽気で明るい笑顔を絶やさなかった筈の少女。真っ直ぐで無垢で、それ故に彼の目には少しばかり眩しすぎた少女。
その彼女と同じ姿をした今の少女が落とす沈黙、それは特別に重く、ゲンにはまだその沈黙を甘受することができない。
かといってその沈黙を埋めるための適切な言葉を、彼女を傷付けない言葉を選び取るだけの力もない。彼等はまだぎこちない。

そんな二人を乗せた船は海を駆け、真っ直ぐに鋼鉄島へと向かう。
空気はここが海の上であることを差し引いても、かなり湿っていた。空は曇天で、いつ雨が降り出してもおかしくなさそうな重い色をしていた。


2016.5.13

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