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ポケモンセンターの更衣室を借りて、売店で購入しておいた紺色のジャージに着替えた。
シロナも全く同じデザインのものを少女にも購入してから「更衣室でこれに着替えていらっしゃい」と告げて彼女を送り出した。
さて、と着替え終わったゲンに向き直ったシロナは、しかし彼のジャージ姿がどうにもおかしいものに思えてならなかったらしく、楽しそうにお腹を抱えて笑い始めた。
そんな風に笑われるとは心外だ、と思いながら、ゲンはシロナの隣に座り、「大変な目に遭ったよ」と告げて苦笑した。

「ごめんなさい。目を離さないようにしていたのだけれど、やっぱりあたしじゃ駄目ね」

「何故君があの子と一緒にいるんだい?チャンピオンに考古学にと、忙しい生活を送っていた筈だけれど」

「勿論、そうしていたわ。だからこそ此処に来たのよ」

道を行けば、通り過ぎた10人のうち10人が思わず振り返って二度見してしまうような、神秘的な美しさをこの女性は持っていた。
けれど彼女がその実、そうした神秘的な雰囲気に反してとても気さくで気取らない性格をしていることを彼は知っていたから、今更、物怖じするなどということはしない。
寧ろゲンは別の意味で恐れていた。きっと、とんでもないことを持ち掛けようとしているのだと、彼女と長い付き合いのある彼は察し始めていたからだ。
彼女が自分のところを訪れる時というのは、決まって、ろくなことが起きないのだ。

案の定、彼女は悪戯を思い付いた子供のようにその目をすっと三日月形に細め、口にも同じような美しい弧を描いた。
それはまさに、面白いことを、ゲンにとっては「とんでもないこと」を紡ぐための儀式であるように思われてならなかった。

「今からとても図々しいお願いをしてもいいかしら?」

「……嫌だといっても君は引かないのだろう?」

「あら、あたしのこと、解ってくれているのね」

嬉しいわ、と、冗談なのか本気なのか解りかねる言葉をその美しい顔で平然と零した彼女だが、次に紡いだ「図々しいお願い」は冗談でも嘘でもなかったのだろう。
先程までの美しい笑顔をなかったことにするかのような、射るような鋭さで、それでいて縋るような弱々しさがその目に泳いでいた。
さっと不安の雨が降った。全く同じタイミングで窓ガラスを叩き付け始めた雨音、それに顔を向けようとしたが、できなかった。何故なら目の前でシロナが雷を落としたからだ。

「今日から1週間だけ、ヒカリと一緒に暮らしてくれないかしら?ミオには元々、あの船に乗って貴方に会いに行くために来たのよ」

恐ろしい人だ、と思った。何を言っているんだ、と呆気に取られた。
長い、長すぎる沈黙をゲンは二人の間に落としていたが、その沈黙の間、彼は何かを考えている訳では決してなかったのだ。
寧ろ、何も考えられなかった。意図的に沈黙を落とすなどという器用なことを、今の衝撃に心を奪われたゲンができる筈がなかったのだ。
貴方の驚きももっともなことだ、と言うようにシロナは苦笑し、けれど決してこの懇願を折るつもりはないのだと、そうした決意を新たにするように再び口を開いた。

「あたしがずっと一緒にいられればよかったんだけど、でもいつも一緒にいられる訳じゃないでしょう?」

「そもそも、どうして君があの子と一緒にいるんだい?家族の元へ帰してあげれば、あの子も一番落ち着けると思うのだけれど」

「それが、どうしても戻りたくないらしくて、泣いて嫌がるのよ」

ああ、あの陽気で快活な子も涙を流したりするのだと、ゲンは1か月前の彼女を思い出しながらそんなことを思った。
つい先程、冷たい海の中から救い出した彼女ではなく、1か月前の彼女、としなければいけない程に、彼女は変わりすぎていたのだ。
1か月前の彼女も泣き虫には見えなかったけれど、それでは今の彼女なら泣き虫に見えるのかと問われれば、決してそんなことはない。今の彼女だって、泣きそうになかった。
けれどそれに加えて、泣くという「行為」だけでなく、今の彼女にはそうした「感情」の類がごっそりと、殺ぎ落とされているように思えてならなかったのだ。

それにしても、家に帰りたくないとはどういうことだろう?
あの快活で陽気だった子が育った家庭だ。さぞかし明るく和やかなところなのだろうと思っていたのだが、そうではないのだろうか。
解らない、推し量ろうにも彼は彼女の家族のことなど知る筈もない。たった数日しか彼女といなかった彼が、彼女の家庭のことや今の彼女の状況を理解できる筈がない。

「……何故、私のところに来たんだい?」

ゲンはしばらく悩んだ後で、肝心なところを尋ねた。
どういう経緯であの子があのような状態になってしまったのかは解らないが、シロナが縋る相手に自分を選ばなければならない理由などきっとないのだ。
そもそも彼女は、ゲンとヒカリが知り合いであるということすら知らない筈だ。そんな人物を彼女は何故選ぶに至ったのか、聞いておかなければならなかった。
しかしシロナにはこちらを納得させ得る十分な理由が揃っているらしく、肩を竦めて困ったように紡いでみせる。

「あの子の手持ちにリオルがいたわ。貴方が託したタマゴでしょう?貴方、外に出て連れ歩いたりしてあげていなかったから、なかなか孵らないって言っていたものね」

1か月前にあの子に預けたタマゴは、もう既に孵っていたらしい。
確かに、シンオウ地方では珍しいポケモンであるこのポケモンを見て、その進化系であるルカリオを連れたゲンを連想するのはそう難しいことではないのかもしれなかった。

「確かに私はヒカリのことを知っているけれど、あの子は鋼鉄島に数回しか来なかったんだ。私があの子と過ごした時間はたった数日、短すぎるとは思わなかったのかい?
もっとあの子に近いところであの子と親しくしていた人は、他にも沢山いるだろう?例えば、ナナカマド博士や、各地のジムリーダーなど」

「言ったでしょう?できるだけ目を離さずにいてくれる人の方がいいの。博士やジムリーダーの皆は忙しいでしょう?
一人だけ暇そうなジムリーダーに心当たりはあったのだけれど、ヒカリはまだ彼に会っていないようだし」

「要するに私ならデンジに匹敵するくらいには暇を持て余しているだろうと、君は暗にそう言っているんだね」

酷い言われようだと思った。
ゲンとてシロナやジムリーダーのように人と関わる仕事こそしていないものの、トウガンの仕事の半分を請け負う形で、鋼鉄島の地質調査を行っている。
それを「暇」と称されるいわれはないように思われたのだが、シロナは一向に譲るつもりはないようだ。
「少なくとも、あたしやジムリーダーの皆よりは自由に時間を使える人だと判断したわ」と、全く悪びれる様子を見せず、そうでしょうと自信たっぷりに確認してさえみせる。
強情で傍若無人なところのある人では決してなかった筈なのだが、何故こんなにも食い下がるのだろう。

「貴方の仕事や修行にならあの子を連れていけるでしょう?今は梅雨だから屋外での仕事はお休みでしょうし。……ふふ、お風呂にまで付いていけとは言わないから」

「……君は私を何だと思っているのかな。そんなことをすれば捕まってしまうよ」

冗談よ、と至極楽しそうに笑うシロナを睨みつけようとして、ゲンは息を飲んだ。
その美しい目の下にあまりにも濃く彫られた隈が、彼女のこれまでの献身と気苦労を克明に示していたからだ。

何故、今まで気が付かなかったのだろう。そう思い直して愕然としてしまう程の酷い隈だった。
彼女があの子とは対照的に、いつもと変わらない気さくで陽気な笑みを湛えていたからだろうか。
それとも自分が、何とかして彼女の申し出を断らなければと、ただそれだけに躍起になっていて、彼女の顔色を見る余裕がなかったからだろうか。
きっと、そのどちらもであったのだろう。シロナは自らの疲労や苦悩を表に出そうとしていないし、ゲンだって彼女を推し量ることを忘れていたのだから。

ゲンは大きく息を吸い込んだ。吸って、細く長く吐きながら、これまでずっとヒカリを見守ってきたであろう彼女にかけるべき最善の言葉を、考えていた。
その言葉がたとえゲンの意思や希望に反するものだったとしても、それでもどうして、こんな酷い隈を作った彼女の懇願を跳ね除けることができただろう?
そうしたことができる程、彼は良心を欠いた人間にはなれなかったのだ。

「……私は賑やかに振る舞ったり人と楽しく話したりすることが苦手で、一人で気ままに静かに暮らすことが好きなんだ。
そんな偏屈で物好きなポケモントレーナーにヒカリを預けるというリスクを、君が承知した上で、それでも万に一つの可能性に懸けているというのなら、受けよう。
けれどシロナ、知っておいてくれ。私は何もできないどころか、寧ろ彼女の状態を悪化させてしまうかもしれないんだよ」

一気に、自分にしては珍しい早口でゲンはそう告げた。
彼女はその目をぱちくりと幼子のように見開いて、「……ありがとう」と消え入りそうな声音で告げた。笑うことすら忘れているようだった。
しばらくしていつもの気さくな笑顔を取り戻した彼女は、張りのある気丈な声音で「大丈夫よ」と付け足す。

「これ以上悪くなんてなる筈がないわ。そう思わないとやっていられないもの」

息が詰まる心地がした。呼吸を忘れかけたゲンに、しかしシロナは沈黙を許さず次々に注意事項を連ねていった。
いつどこで危ないことをするか分からないから、彼女を置いて遠くへ行ってしまわないこと、できるだけ目を離さず、傍にいること。
常軌を逸した行動をしたとしても、彼女に悪意がある訳ではないから、厳しく責め立てたりしないこと。
食事は殆ど口にしないけれど、できるだけテーブルに着かせて食べるように促すよう努めること。

常識と良識を兼ね備えた、無垢で無邪気で快活な、人並みに食欲のある少女。
そうした1か月前の彼女の姿を、今のあの子に見ることは不可能である。そのことに、ゲンは彼女のアドバイスで気付かざるを得なかったのだ。
「彼女は何故、ああなってしまったんだい?」と尋ねれば、しかし彼女は整った眉をくたりと下げて首を振る。
そんなにも濃い隈を作る程に長くあの子と一緒にいたにもかかわらず、シロナは会話をしなかったのだろうか?あの子から事情を聞き出そうと努めなかったのだろうか?
ゲンのそうした疑問は、しかし次の残酷な言葉であまりにも呆気なく片付いてしまった。

ヒカリは声が出ないみたいなの」


2016.5.13

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