W 秋ー2

クリスは鮮やかな花の前で悩んでいた。

「チューリップにしようかな。でも、リンドウの淡い紺色も素敵だし……。あ、このポピーも可愛い!」

「お連れ様、楽しそうですね」

フラワーショップの店員にそう言われ、Nは苦笑した。
「でも一種類だけ選んでしまうのは勿体ないなあ、だってこんなに綺麗なんだもの」そう呟いてから彼女は店員を呼び「お花を1本ずつ、全部下さい」という大胆な注文をした。
コトネの「ちょっと変わっている」という表現は的を射ていたらしい。
大量に購入された花の、その半分をNも持つことになった。視界を覆わんばかりの鮮やかな花は、それぞれが甘い香りを放っている。

「こんなに沢山、どうするんだい?」

「お友達にあげるんです。喜んでくれるといいな」

大量の鮮やかな花束を抱えて町を歩く二人を、すれ違う人は不思議なものを見るような目で一瞥する。
普通、そうした好奇の目を向けられれば、大抵の人は後ろめたい気持ちになったり、恥ずかしくなったりする。
しかしクリスは、寧ろその視線を楽しんでいるかのようにも見えた。Nはその勇敢な心に感心したが、やがてそうではないと察すると苦笑するしかなかった。

彼女は周りの視線など全く気にしていないのだ。視界の半分を覆う綺麗な花と、その香りに心を奪われているため、その他の環境は彼女の心を揺らすことができないのだ。
どこまでも奔放でマイペースな彼女はNの心を愉快にさせた。
そして、自分にも彼女のようなマイペースな心があれば、特異な能力を持つ自分を「他人とは違う」と思い悩むことなどなかったのかもしれないと少しだけ思った。

しかし、Nは知らなかった。
彼女もまた、Nとは別の孤独と寂しさを抱えていること。その寂しさを埋め合わせ、寄り添いたいと思える誰かに、彼女はようやく出会えたばかりなのだということ。
そして今、このシオンタウンを訪れているのは、その「彼」に関わったある事件のためであるということ。

やがて二人は、大きな家の前へと辿り着いた。看板には「ポケモンハウス」と書かれている。
コンコン、とクリスが2回ノックをすると、小さな子供が出迎えてくれた。
彼女はその子供と軽く挨拶を交わしてから、家の中へと入っていく。Nもそれに続いた。どうやら彼女は既に何度か此処に来たことがあるらしい。

その時、クリスの存在に気付いた部屋中のポケモン達が、わっと彼女の所に駆け寄ってきた。
「久し振り、元気だった?」と、クリスは彼等に微笑み、一匹一匹に声を掛けている。Nに聞こえた声からも、此処に住むポケモン達が彼女を慕っていることがよく分かった。

「Nさん、ここは、捨てられたり傷付けられたりしたポケモンを世話している場所です」

「え……」

「心の傷が癒えたら、また野生に帰ったり、新しいトレーナーに引き取られたりしますが、それまでは、此処がこの子達のお家です」

Nはクリスのその言葉が信じられなかった。
彼女を慕うポケモン達はとても幸せそうで、聞こえる声も同様にとても楽しそうで、とてもではないが、過去に捨てられ、傷付けられた経験を持っているようには見えなかったのだ。
たとえそうだとしても、その傷がこんなにも癒えていることがNには衝撃的だった。
彼が見てきたポケモンは、ひたすらにヒトを憎んだままで、その悲しい心が弱まることはあっても、このように心からの喜びを示すまで回復することはなかったからだ。

病んだ心に寄り添うには、病んだ心を捨て去らなければならない。
Nには経験があまりにも乏しかったのだ。
ポケモン達に真っ直ぐな愛情を与え、その存在を肯定し認める。君はここにいてもいいんだと伝える。
そうしたことを行うには、そうしたことを行われていなければならない。Nの過去はあまりにも鬱屈していて、与えられる筈の愛情を持ち得なかったのだ。
愛を知らない者が、愛を与えることなどできないのだ。

Nはそのやさしい皮肉に、幸いにもまだ気付いていなかった。気付いていなかったからこそ、目の前のポケモン達はNにただ衝撃を与えたのだ。

クリスさん、カラカラがワンピースの裾を引っ張っていますよ」

出迎えてくれた女の子が、クスクスと笑いながら彼女にそう指摘する。
くるりと振り返ったクリスは、彼女を見上げるカラカラの目線に屈んで笑った。

「待ちきれないの?そうよね、フジさんもきっと向こうにいるものね。……よし、それじゃあ行こうか!」

状況が掴めていないNにクリスは目配せをする。どうやらまた別の場所に向かうらしい。
次が本命ですよ、と彼女は含みのある言い方で告げる。この両手に抱えた花を渡す相手は、どうやら次の目的地にいるらしい。
Nは首を傾げながらも同行することにした。

そしてようやく、Nはこの大量の花の意味を知る。

「はい、貴方の分よ。お母さんに渡してあげてね」

そう言って、クリスは赤いチューリップをカラカラに渡した。
「たましいの家」と名付けられたこの建物には、命を終えたポケモンを、トレーナーが悼むための場所となっているらしい。
クリスはその管理者である老人と話をした後で、小さな鍵を受け取り、更に奥の部屋へと入った。
先程の部屋の何倍もの墓石がずらりと並べられている。カラカラの母親であるガラガラも、この石のうちの一つに眠っているらしい。

「此処にあるのは、あのポケモンハウスで息を引き取った子や、人に傷付けられて、手当てが間に合わなかった野生の子のお墓です。
ポケモンハウスの関係者しか入れないようになっているので、あまり知られてはいませんが」

そう説明しながら、クリスは持ってきた花を1輪ずつその小さな墓に添えていった。
Nもそれに倣い、クリスが置いた花と色や種類が被らないように、異なる花を手向けながら墓に挨拶をして回った。
そうしながら、Nはクリスの言葉に耳を傾けていた。彼女は墓に花を手向ける度に、必ず言葉を紡いで挨拶するのだ。

赤いガーベラの花言葉は「神秘」です。フーディンの持つ不思議なエスパーを表す、とても素敵な響きを込めてプレゼントします。貴方が憂いなく眠れますように。
ニドリーナには「乙女の心」を表すコスモスを。ポケモンハウスで出会ったニドリーノのことが大好きだったと聞いています。向こうでも素敵な恋が実りますように。
この大きなヒマワリなら、ウィンディにもぴったりですね。「あなただけを見つめる」の言葉通り、トレーナーが戻って来るのをずっと待ち続けた、健気な貴方に贈ります。

Nはそれらを聞きながら、驚きにただ茫然としていた。
花言葉はどうやら、花の数だけ存在するらしい。花の名前すら分からないNにとって、それらの花に対応する花言葉をすらすらと暗唱してみせる彼女の姿は衝撃的だった。
更に彼女は、此処に眠るポケモン達のことについてとても詳しい。ポケモンハウスの関係者でもないのにどうしてだろう、と思っていると、彼女はふいに花を手向ける手を止めた。

「旅をしていた頃、此処の管理をしているフジさんのお墓参りに、ご一緒させてもらったことがあって。
フジさんにとってこの子達は、長い時間を一緒に過ごしてきた家族なんです。彼がしてくれるこの子達の思い出話に、私も夢中になってしまって。
それ以来、たまにお花を届けに来ています。さっきから私が話しているのは全部、フジさんからの又聞きですよ」

「記憶力が良いんだね、これだけのポケモンの思い出を全て忘れずに覚えておけるなんて」

Nのその言葉に、クリスはきょとんとした表情で首を傾げた。
何かおかしなことを言ったかい?とNが尋ねると、彼女は小さく笑って続ける。

「この子達はもう眠ってしまったから、思い出として此処に在ることしかできないから」

「何故?此処にこうしてカレ等の居場所を示すお墓があるじゃないか」

「でも、この墓石が此処に在るだけでは駄目なんです。
此処に、彼等が生きていた頃を懐かしんで集まる人やポケモンが居なければ、そして思い出を回想しなければ。……そうしてやっと、この場所は意味を持つから。
忘れ去られること、知られないことは、何よりも悲しいから」

Nは息を飲んだ。つい先程まで、鼻歌を歌いながら陽気に歩いていた、自由奔放でマイペースな彼女の姿を、今の声音に見つけることができなかったからだ。
それ程にその言葉は鋭く、強く、そして凛とした響きでNの心を抉る。彼女の青い目は真っ直ぐに彼を見つめていた。Nは彼女から目が逸らせなかった。

彼女は何を伝えようとしているのだろう。
忘れさられることを彼女は恐れているのだろうか。だからポケモンのことを忘れないようにしているのだろうか。
あるいはもっと単純に、この場所を大切にしているフジという老人を慕っての行動なのだろうだろうか。

「でも、私達は生きています」

長い沈黙の後で、クリスはそう告げてふわりと微笑む。

「私達はまだ、忘れられること、知られないことを恐れる必要はありません。
此処に存在していることを、証明する手段が、知らしめる手立てがいくらでもあるからです。私達は、一人じゃないからです」

「……」

「生きているって、素敵なことなんです。だから、生きていた彼等のことも、大切にしたい」

……私の言っていること、ちょっとおかしいですか?
よく言われます、と笑いながらそう付け足した彼女に、Nは激しく首を振った。
『私達は生きています。』
此処は「生」の重さを感じる場所。彼等の思い出を悼み、自らがこれから重ねられる思い出を尊ぶ場所。

きっと彼女は自分に、生きているいきものの本質を伝えようとしてくれていたのだ。
生きている限り、いきものが忘れ去られることはない。つまりはきっと、いつだっていきものは独りではないのだろう。
やっと理解してNは笑い、再び花をその思い出に手向ける。


2014.11.8

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